罠
全身に神経を張り巡らせながら、パトスはゆっくりと歩き出す。
一歩、また一歩、と歩くよりも遅い速度で、パトスは亀のように進んでいった。
草には、特に強い臭いはない。
塩杉のように明確な香りがあるものは、木としては数少ない。
タフタのように木に特別に詳しければ、何か微妙な違いを感じるのかもしれなかったが、パトスは木になど全く興味がなかったので、自然、足も遅くなる。
動物森は、とても深い森だが、主役は草だ。
食人植物には、微かな太陽の光りでも充分に繁茂できるため、木の繁った森でも生育できた。
そして動物森の食べ残しがいい肥料となるため、森もいよいよ旺盛に栄える。
ただし昆虫や動物は消え絶えるので、とても静かな、海の底のような森が生まれた。
入り込む動物は、全て餌だ…。
森全体が、唾を飲み込むようにして、パトスの死を静かに見守っていた。
パトスの足が、止まる。
罠を発動させるのは、体の大きいチェコの役目だった。
少し迷ったパトスだが、近くの小石を、鼻で飛ばした。
地面の下に、草の臭いがあるのを、パトスは感じたのだ。
小石が落ちた衝撃で、土が吹き飛ぶ。
地を這っていた強靭なツタが、鞭のようにしなって飛び上がり、直径五メートルの範囲の地面が、まるで沸騰した鍋のように沸き上がった。
パトスは、ジリッ、と背後に下がった。
驚いて跳んだりすると、どんな罠にかかるかもしれない。
動物森では、動かない胆力も求められるのだ。
数分後、動きは収まった。
何もなかった地面に、巨大な、ツタで巧妙に編み込まれた、バラのような沢山の花弁が重なった、花のようなものが生まれていた。
一旦、獲物を抱え込んだら、骨までしゃぶり尽くす死の花だ。
こいつ、どうやって生きてたんだ?
みたところ、体の全てが地中に埋まっていたようだが…。
大抵の食人植物は、わずかであっても光合成をしている事が多い。
全く捕獲による栄養吸収に頼る、というのは、かなり危険なかけだからだ。
だが、この草は本体の全てを地面に潜ませて、たぶん永い年月をかけて成長したもののようだ。
花のように露出したツタの状態をみると、花の部分が、ついさっきまで根の役目を担っていた、という訳でもなさそうだ。
今、狩りは失敗に終わったが、この手の植物では、失敗も折り込み済、の事が多い。
だが、この草は?
パトスは回りの地面を嗅いで探った。
ほぼ草の回りを一周して、パトスは足を止めた。
別のツタが一本だけ、先の大木に向かって伸びている。
そうか、たぶん…。
パトスは推測した。
この花の中心に根があるはずだ。
花の大きさは子牛ほどもあり、どう軽く見積もっても何十キロかはあるはずなのだ。
もし獲物を捕獲すれば、獲物も暴れるだろうし、その力にも耐えうる根が、花の下に必ずある。
その花と花をツタが結んで一種のコロニーを形成しているか、または中心に草が生えているのか、どちらかだろう。
パトスは、発見したツタの臭いを辿った。
未知の食人植物を相手にするよりは、もう判っている敵の方がやり易かった。
しかも大抵の場合、植物は別の種類が同じ場所に生えている、という事は少ない。
適応した種が群生するのだ。
そこでパトスは、ツタを辿って前進することにした。
なんの木だか判らないが、かなりの大木へ向かってパトスは歩いていく。
木の近く、は別な食人植物の可能性がある。
枝に寄生し、下を歩く獲物に上から襲いかかるツル性食人植物の可能性だ。
だが今のところ、ツタはまっすぐ巨木へ向かっている。
あの巨木の根元にでも、本体か別株があるのだろうか?
「、、パトス、気をつけて、、。
嫌な予感がするわ、、」
ちさが声を震わせる。
木の枝にツルが寄生していた場合、確かに危険だが、元々動物森はどこにも、その程度のトラップはあり得る。
注意さえ怠らなければ、ムザムザ引っ掛かるパトスではない。
ツタを辿って進むと、やがて巨木の枝の真下に接近した。
ツタはやはり一直線に巨木へ向かっている。
根が重なっているのか?
庭園などでは、あえて木と草を重ねるように育てる事があるが、自然状況ではある程度の距離が自ずと開くことが多い。
植物同士が、あまり根が絡み合う、などは嫌うし、虫がつく、などの利害もあり、自ずとそうなるのだと思うが、ツタは大木の真下に向かって伸びている。
パトスは、頭上にも注意を払いながら、巨木へ歩を進める。
犬型精獣であるパトスは、人間よりも、ずっと広い視野を持っている。
地面の臭いを辿りながらでも、真上の木の枝の様子も判るのだ。
枝は、そよ、ともしない。
大木の根元は、フカフカの土が広がっている。
ふむ…。
畑のようにフカフカだ。
まるで誰かが、耕したかのようだ。
大森林の、しかも動物のいない動物森で、一体誰がなんの目的で耕すのか…。
パトスの足は、自ずと止まったが、やがて大木が、微かに震え始めてきていた。