青鋼の進化
虎は空中に舞い上がり、チェコに向かって落ちてくる。
だがチェコは、その場に立ち止まり、どうも虎を待ち受ける気のようだ。
虎は、小牛ほどの大きさだ。
たぶんニ百から三百キロはあると思う。
「…チェコ、無理だ、逃げろ…!」
パトスは叫ぶ。
が、なんとチェコは、パトスを振り返って、笑った。
虎は落ちてくる。
チェコは剣を突き出す。
虎の前足が、左右からチェコを挟み込む。
パトスは今まで、その大きさから、虎の動きをゴロタのように、つまり熊の動きに重ねてきた。
だが!
前足の動きは、もっとずっと精密だ。
そうだ。
虎は、巨大な猫なのだ。
猫は、とても器用に前足を使えるのだ。
その巨大な猫は、器用な両足でチェコを左右から挟み込み、動けなくして頭から噛るつもりだった。
まず、前足の強烈な打撃がチェコを襲う。
それでズタズタになったチェコの頭を、あの巨大なクルミ割りのような顎が、頭蓋骨ごと、チェコを砕くのだ。
「チェコー!」
パトスが叫んだ瞬間、チェコが動いた。
「?!」
チェコは、垂直に飛び上がった。
そこに虎の前足が左右から押し寄せた。
チェコは、その虎の足を踏み台に、虎の目に、青鋼を突き立てた。
どーん、と、とてつもなく重いものが地面に落ちる音がした。
周りの土が舞い上がり、煙幕のようにチェコと虎の姿を隠した。
「チェコ!」
パトスは叫んだ。
辺りは土の臭いが立ち込め、臭いでは何も判らなかった。
パトスは、ペタン、と尻を地面についてしまった。
音はしない。
誰も、何も動かない。
それは、最悪の事態を予測させる静寂だった。
「…チェコ…」
パトスは呻く。
と、風が、土煙りを北に吹き流した。
チェコは、剣を付き出した姿で、立っていた。
「チェコ!」
パトスは駆け寄る。
「あー、パトス」
チェコは笑った。
「どうやら俺、虎を手に入れたよ」
え、とパトスが驚くと、チェコは青鋼をパトスに見せた。
剣が、少し長くなった。
そして柄に見事な彫刻と、赤い石が嵌め込まれていた。
チェコが、ゴブリンにもらった石に似た石だ。
魔石であり、しかも指輪の五倍ほど大きかった。
「…と、虎が青鋼に入ったのか…?」
「いや…」
とチェコ。
「虎の眉間に剣が触れた瞬間、ビリッ、と青鋼が成長したんだ!」
剣が、成長する?
パトスには、意味が判らない。
「…ビリッって、なんだ…?」
んー、とチェコは考え。
「俺の手の中で、ビリビリッと、剣が強くなったんだ!」
「…剣が強くなる…?」
武器に、粗悪とか、頑丈とかはあるかもしれないが、強い弱い、ってどういう事か?
「だから、むずっ、とさ、固くなるって言うかさ!」
と、チェコはなんとか、身振り手振りで剣の変化を伝えようとするが、パトスは聞いているうちに馬鹿らしくなってきた。
何かあったのは、青鋼が変化したのだから、パトスも理解できる。
だが、チェコには、全く説明能力がないので、意味不明に体をぐにゃぐにゃさせたり(手の中の剣を表現しているらしい)、
「こう、どびゃー、っと強くなったんだよ!」
ビリもムズもどびゃーも、文章に起こせない擬音であり、仮にも錬金術師たるものが使うような言語ではない。
ま、みっちりキャサリーンに鍛えられれば、六年に上がる頃にはチェコも論理的に説明しうるのかも知れなかったが、今のチェコに聞いたところで、新たなボディーランゲージが発生したり、擬音がどんどん積み重なるだけだろう。
はぁ、とパトスは溜め息を漏らし、
「…ま、いい…。
少し休め…」
「いやぁ、俺、今、力が漲ってるんだよ!
たぶん虎のエネルギーが体にキシーと染み込んだんだ!
今すぐ出発するよ!」
目には、例の、異様な輝きが、ますます強烈になっていていた。
「…しかしチェコ。
虎を手に入れたのなら、もう、それでいいのではないか…」
パトスはチェコの後ろを歩きながら、聞いた。
「いやいや。
まだ時間も一日以上あるし、まだ先に行ってないところがあるんだからね!
全部歩くし、全ての聖獣を見なきゃ終われないよ!」
パトスには、まるで見えていないのだが、確かに、ガントレットが現れたり、青鋼が変形したりはしていた。
と、言うことは、チェコが見た、と言う聖獣も、百パーセントかどうかは知らないが、確かにいるには違いない。
しかし…。
成果は手に入れたのだったら、あとは命の危険しか無いのではないのか、とパトスは思った。
夜には、吸血鬼もいる、と言うではないか。
撤退する勇気、というものも有るのではないのか?
パトスは思ったが、今の段階では、チェコを止める正当な理由を、パトスは持たなかった。
確かに成果は出ているのだ。
それに、時間もあるし、まだ確かに山の頂上までは行っていない。
チェコが聖獣を見るかどうかは判らなかったが、あと一日あるのだし、確かに山に登るのは可能だろう。
「鉄鼠と竜に会って、そしてどうしても俺は、カーマに守護してもらいたいんだ!」
パトスと首をひねり、
「…もう虎が守護しているから、無理じゃないのか…?」
「やってみるだけさ!」
後ろ姿だが、目の輝きが、もはや狂気のレベルに到達しているだろう事は、パトスにも想像がついた…。