貧民窟
荷馬車は、ゆっくりと坂を下っていく。
僅かばかりの瘦せた木と、雑草の茂る、石だらけの道だ。
ろくなサスペンションも無い荷馬車は激しく揺れるが、チェコも荷馬車は乗り慣れていた。
荷馬車が大きくカーブを曲がり、岩を迂回すると、眼下にすり鉢状の土地が見えてきた。
コクライノの丘を形成する岩盤の北側、大きく張り出した二つの尾根に挟まれた巨大な谷間、それがどうやら貧民窟のようだった。
一面にびっちりと、布や木で作られた小屋が並んでいる。
小屋、というかテントという方が近かった。
ただ雨風がしのげる、というだけのものだ。
谷の一番底には、どす黒い沼のような物があり、貧民窟の人々は、どうやらそれを生活用水に使っているらしい。
「井戸が無いの?」
チェコが聞くと、長髪の男は、
「いくつかはある。
さすがにあの水は、沸かさないと飲めないからな」
沸かしたら飲めるというものではない、気がした。
衛生環境は劣悪、という言葉も生ぬるい状態のようだ。
馬車はグラグラと大きく揺れながら、谷の底に向かっていく。
ろくに衣服も来ていない幼児が、なにか草のような物を口に運んでいた。
「何か食べてる?」
「食べるというか、味を楽しむ、程度だろうな。
舐めると茎から酸っぱい汁が出てくる。
胃になんにもなくとも、少し味があるだけで、食べた気になる、程度のものだ」
幼児はガリガリに痩せ細っていた。
「あの子は親は…」
「いないのだろうな。
さすがに、あれは救いようがない。
遠くない、死を待つばかりだ」
長髪の男は、蚊が止まっている、とでも言うように語った。
「俺が貧民窟、と言うとき、ああいう子供は数に入れていない。
もう少し、なんとか生きられる奴のみの事を話しているんだ」
チェコは、これから何を見せられるのかを、微かに悟った。
「周りはどうしたんだ?」
聞いてみるが、長髪の男は肩をすくめて。
「この貧民窟には、数えたこともないが何万じゃあ済まない人間が生きているんだ。
毎日、たくさんの子供が生まれて、たくさん死ぬ。
あれは、望みがないんだろう。
周りの人間が、そう判断したんだ」
「止めて」
チェコが言うと、男は素直に馬車を停めた。
チェコは子供に駆け寄り、調べてみた。
どうも、耳が聞こえず、見放されたらしかった。
だが、耳は深刻な状態ではなく、錬金術で治療できた。
賢者の石で、耳の水を出すと、幼児の聴覚は回復した。
「そうか、耳が治ったか…」
男は、しかし表情を変えず、
「たぶん、もう遅いと思う。
ここでは、この子はもう育たない」
チェコは、後ろのヒヨウに、子供を預けた。
「一人救ったところで、何も変わらんよ」
と、チェコが荷馬車に乗るのを待ち、長髪の男は教えた。
「うん。
だんだん、俺にも判ってきたよ」
ここには、医療が無いので、医療があればすぐ治る子供も、諦められ、食事も与えられなかった。
荷馬車が動くと、少し鼻腔をつく臭いが感じられた。
「死体?」
「ああ。
鳥の餌、豚の餌って訳だ」
自分達の仲間の死体が、鳥や豚の餌となり、やがて潰して彼らの胃に落ちる。
やがて荷馬車は止まり、そこから、どす黒い池まで、チェコは急な坂を歩いて下った。
池は、谷の中腹に口を開けた、下水の水が貯まったものだ。
池から、何段か水溜まりがあり、谷の底から川となって流れていく。
下水なので臭いがきつく、荷馬車を停めたところの腐臭などはここまで届かない。
近くで見ると、かなりの広さだ。
黒く濁った水だが、時折、魚影が浮かんだ。
この池には、柵が作られており、巨大なカエルが上がってこないようにしていた。
中に十を越える船が浮かび、漁をしていた。
チェコは、柵の手前にいた一メートル近いカエルをトレースした。
(どぶガエル 三/三 水中行動)
チェコは、さりげなくカードをポケットに入れて、池から異臭を放ちながら流れる川沿いを下った。
小屋は、木の枝に布のようなものを巻いて作っていた。
チェコの家のベッドより小さな小屋に、三、四人の大人と、五人の子供が暮らしている場合もあった。
ほとんどの人は、布屋根、または草屋根の小屋に住んでいたが、もう少しましな木造の建物もある。
そういった小屋には、ヤクザものがたむろっていたり、尼僧が子供に勉強を教えたりしていた。
「あんたも、ああいう奴なのか?」
刺青を身体中に入れたヤクザは、見るからに凶悪そうだ。
「奴らは、ここから出る気が無い。
貧民窟で楽に暮らせれば満足、って奴らだ。
俺は、ああはなりたくない」
確かに、長髪の男は、ヤクザものとは、少し雰囲気が違うようだ。
「…おい、どこまでチェコを連れていく…。
もう、見るものは見たのではないのか…」
パトスが吠えた。
急に犬が喋ったら、相当驚くが、男は静かな目でパトスを見て、
「精獣か…」
と、呟き、
「なに、ご主人がゴブリンが見たいと言っていたから、ほら」
ごつい指で谷の下にある、ささやかな森を指差した。
「あの陵墓まで行こうとしているのだ」
と語った。