現代っ子、見知らぬ部屋にて
確かにミチルは、ソフトクリーム屋の自動ドアを潜ったはずだ。だが、そこにあったのは緑豊かな山、山、山。
あまりの動揺に口は開きっぱなしだし、言葉にならない無意味な音を出している。顔や背中からは冷や汗が流れていて、先程まで感じていた湿度も今はない。ついでに言うと、生まれたての子鹿のように足が震えている。ミチルがもう少し幼かったなら、粗相をしていただろう。
これはもう、凄く開放的な店内、デザインではない。そうとは考えられない程、これは山だ。どこまでも続いている、山道だ。
「どうしようどうしようどうしよう、変なとこ来ちゃった……どうしようどうしようどうしよう……」
近くから水が流れる音がする、そこでミチルの意識は途切れた。
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何やら音が聞こえる、食器を洗う音だ。カチャカチャと鳴っている。
ミチルはいつもよりスプリングの硬い、と言うよりもないように感じる寝心地の悪いベッドに寝返りを打つ。
「ミチル~、起きないの?もうご飯できたよ、食べないの~?」
ん~、と適当に対応しながら考える。この、ゆっくりした話し方は誰だ聞いたことがない。
そもそも父とは絶賛反抗期中で話さないし、弟は生意気でキーキーした声で人に何かをしてあげるという考えのない男だ。
ならば、誰だろう。
「起きてるのはわかってるんだからねぇ、匂いが濃くなったもん。僕は騙せないよ」
どきり。心臓の辺りがヒヤリとした。うつ伏せになったミチルは気付かれないように目を開ける。
見えたのは、見たことのないシーツだ。これは自分のものでも、家族が使っているものでもない。
誘拐……?
嫌な、しかし今のこの状況では現実的なワードが頭に響いた。
一体いつ、どこで?賑わいのある商業施設のソフトクリーム屋にいたはずだ。だがそこは山で、店ではなく――
「も~起きてるんなら早くしてよね!」
「うきゃっ!?」
頭まで被っていたタオルケットを剥ぎ取られ、思わず子猿のような鳴き声が出る。女は度胸だとその男をみれば、
「ふふふ~、ミチルはお猿さんかなぁ?尻尾はどこですかぁ?」
変質者に飛び起き、壁際に逃げる。恐怖に涙が浮かんだが、目の前の男は笑みを止めない。ニコニコニヤニヤニタニタ、ミチルに影を落とす程近づく見知らぬ男に、喉がひくついた。ミチルの意志とは関係なく悲鳴が出るその瞬間、
「ベル、お止めなさい」
あと少しでミチルの額にキスするくらい迫った男の顔は、絞められた鳥のような声と共に離れていく。
「あなたが心配だ。頭を打ったようには見えなかったが……」
男を押し退けた女性は形のよい眉を下げて、ミチルの顔を覗きこむ。つぅ、と頬を流れる涙を指で拭われて女だとはわかっているが胸が高鳴った。
「ここは……」
「やはり、頭を打ったようだね」
女性はふむと頷くと、肩に流れた長い髪をかき上げた。その髪は見たことないくらいの真っ赤な色で、ミチルは状況など忘れて見惚れてしまった。
「明日、町医者に来てもらおう。君が倒れた瞬間を目撃したんだが助けられなかった。……さて、食欲は?パン粥を作ったんだ」
「た、食べます」
よかったと女性は白い歯を見せて笑うと、部屋を出ていく。するとドアから顔をだし、ベルと呼ばれた男に釘を刺した。ミチルを怖がらせるなと。
叱られると男の頭についた『うさぎの耳』がぱたりと垂れた。
「ミチル、ごめんね……。怖がらせるつもりはなかったんだよ。だって君は僕の一番の友達じゃないか、それを初めて見たみたいに……」
「あっ」
今更ながら気づいたが人間にはない耳に、男と見知らぬ部屋に二人きりの恐怖は忘れる。茶色の髪の間から生えた、長いうさぎの耳。よく見ると顔の横についてるはずの人間の耳はない。
「耳を見てるの?」
床に膝をついた男は、素直に頷くミチルに自慢げに話す。ココだけの話だよと。
「僕の耳は特別さ、千里先まで聞こえるんだ」
「千里って?」
「ずーっと遠くってこと。最近は、人間のお城が大変みたい。この村に悪いことが起きないといいねぇ」
ウサギ耳、真っ赤な髪、人間のお城。
ミチルの周りにはなかったものばかり。考え込むミチルだったが、女性―ロザリタと名乗った―のお手製料理で腹を満たし、その日は床についた。
眠れるはずがないと思ったが、案外眠れるものだ。翌朝の鳥の鳴き声に、自分はこんなにも図太かったのかと窓から差し込む朝日に目を細めた。