9話
眼鏡をクイッと上げながら近づいてきたマグリアは、そのままラナリスの隣へと来ると紳士の礼を執る。
「ご無沙汰しています、リトアード公爵令嬢」
「は、はい。ご無沙汰をしております、ベルフィアス公子様」
エリナもドレスの裾を摘まんで腰を落とす。貴族同士の挨拶としてはありきたりな場面だ。だが、アルヴィスは少しだけ懐かしい響きを感じていた。ベルフィアス公子。既にアルヴィスは呼ばれることはないが、以前まではそう呼ばれることが多かったからだ。ベルフィアスの名前は残っているが、アルヴィスがそう呼ばれることはもうない。学園にいるからなのか、妙に感傷的になっていることに気が付き、アルヴィスは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「アルヴィス?」
そんな様子に気が付いたマグリアが声をかけてくる。いつもの何か意味を含んだものではなく、単純にアルヴィスを案じてくれているものだ。アルヴィスは何でもないという風に首を横に振った。
「お久しぶりですね、兄上」
「そうだな。かれこれ顔を合わせるのは、建国祭以来か」
「えぇ」
アルヴィスの家といえるのは最早ベルフィアス公爵家のではない。王城だ。帰省という言葉もなくなった今、公爵家に帰ることはない。マグリアらが訪ねてこなければ会う機会はほとんどないのだから。そういう意味では、エリナの方が顔を合わせているのかもしれない。尤も、学園卒業してからもあまり帰っていなかったため、特別何かということはないのだが。
「板に付いてきたようだな、アルヴィス」
「兄上?」
「顔つきが変わった。そういう意味では、リトアード公爵令嬢。貴女も変わりましたね」
「そう、でしょうか?」
変わったと言われて、アルヴィスとエリナは顔を見合わせる。特段、感じることはない。不思議そうにしていたのがわかったのか、マグリアが笑い声を漏らした。
「意識してないなら別にいい。良い変化だろう。リトアード公爵令嬢、これからも弟を頼みます」
「はい。精一杯お支えしたいと思っております」
しっかりと頷いたエリナに、マグリアも満足そうな顔を向ける。それが妙に擽ったくて、アルヴィスは咳払いをした。
「それよりも、兄上。用事は済んだのですか?」
「ん? あぁ。済んだというか、私も彼女に伝言を伝えにいっただけだからな」
「子爵家からの、ということですか?」
「そうだ。ビーンズ子爵家から再三戻るようにと言われているようだが、彼女はそれを拒否し続けている。このままだと、生涯一人で生きていくことになるのではとご両親が心配されているようだ」
既に令嬢としては結婚適齢期を過ぎているアネットのことを、子爵夫妻が気にして娘に話していたらしい。その話が友人同士であるミントへ伝わり、ミントがマグリアへお願いをしたということだった。家族からの言葉に耳を貸さないのであれば、別方向から伝えればいいのではないかと。
「マグリアお兄様、ビーンズ先生はおやめになるのですか?」
「いや、そこは彼女次第だろう。だが、ビーンズ子爵令嬢はまだ若い。今ならば、縁談もある。動くならば早い方に越したことはない」
このまま教師として続ける道はなくもないが、そのためには理解ある相手を見つけなければならないだろう。しかし、普通に考えれば貴族の妻が働くことはほどんどない。ましてやアネットは労働時間が長い教師だ。反対される可能性が高い。それがわかっているから、アネットも首を縦に振らないのかもしれない。
「私が強制するわけにはいかないからな、あくまで伝言役だ。今回は。あとの判断は、彼女次第になるだろう」
代理として話をしただけであって、他意はないとマグリアは話す。その点については、アネットにも念押しをしたようだ。でなければ、圧力になってしまう。だから、公的な場ではなく学園のパーティーという場で話をしたのだろう。
「それはそうと、さっきの続きを聞きたいんだがな?」
「続き、ですか?」
「私を参考にしてはいけない理由を、教えてもらおうか?」
腕を組みながらもニコニコとした笑みを浮かべるマグリア。他人からは笑っているようにしか見えないだろうが、家族にはわかる。これは良くないことを考えている時のものだと。
「そういうところですよ、兄上」
「私が笑っているのが気に食わないというのか? 社交界で微笑むのは常識だろ? それにお前だって大差ない」
「……はぁ」
アルヴィスも社交辞令の笑みを貼り付けている。社交界で生き抜くための処世術の一つだ。だとしても、男であるマグリアはともかくとして、それをラナリスがするのは違うのではないかとアルヴィスは思う。
「せめて腹黒いところだけは、似てほしくないですが」
「それほど心配しなくとも、ラナリスはお前にそっくりだ。お前ほどひねくれてはいないがな」
「誰の所為ですか……」
苦笑しながらアルヴィスの肩に手を乗せてきたマグリアを、アルヴィスは悪態をつきつつ払いのけるのだった。




