閑話 令嬢との語らい
学園に戻ってきて、エリナは日常に戻ったことを実感していた。講義にダンスのレッスンや試験など、日々はあっという間に過ぎていく。まるで、城で過ごした一週間近い日が嘘のように。
この日も寮の自室に戻ってきて、サラの淹れた紅茶を飲みながらレポートの宿題を終えたところだった。毎日のようにあるレポートも、それほど苦ではない。今まで以上に学園でゆっくり過ごせているようにも思う。理由はひとつしかない。城へ出向いていないからだ。
「はぁ」
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「最近、学園の校舎と寮の往復だけしかしていないでしょう? それがちょっと……」
「今後は暫く学生としての責務を優先、でしたか。城に行かなければ、アルヴィス殿下にはお会いできませんものね」
「えぇ……って、別にそれだけじゃないわよ。姫様や王妃様にもお会いしていないし」
肯定してから慌てたように付け足すも、サラは満面の笑みだ。これはバレバレなのだろう。はぁ、とエリナはもう一度ため息を吐いた。
「先日、アルヴィス様からのお手紙に書いてあったの。王都近くではあるけれど、王都の外に仕事で行くことになると」
「……それは、心配でございますね」
「詳しいことは教えては下さらなかったし、いつからなのかもわからないけれど……」
アルヴィスは元近衛隊の騎士。王太子となる前は、王都の守護のため魔物退治なども行っていた筈だ。王都の外に出ることなど、大したことではないのかもしれない。だが、エリナにとっては未知のことだ。想像することしか出来ない。
「それほど危険はないのかもしれない。でも、王都の外は安全ではないでしょ? 怪我などなさっていないといいのだけれど」
「お嬢様……」
カップの中に視線を落としながら呟く。王太子はルベリアに於いて、最優先で守られる存在。何か不測の事態が起きたとしても、真っ先に保護される。しかし、アルヴィスの性格からして一人だけ逃げ帰るということはあり得ない。あの事件の時の様な怪我を負うことは、これからもあるのではないかとエリナは不安になる。水面に映る自分の顔は、良いものではなかった。
そこへ、突然部屋の扉を叩く音が届いた。サラへ目配せすると、扉の方へ行かせる。
「エリナ様、ハーバラです」
「ハーバラ様?」
声の主はクラスメイトでもある友人だった。サラに指示をして扉を開ければ、制服から私服へと着替えていたハーバラが立っていた。プラチナブロンドのストレートの長い髪は束ねているが、ハーバラの動きに合わせて流れるように動いていた。淑やかで清楚。更には侯爵令嬢であるのに加えて、例の婚約破棄の件ではリリアンに婚約者が懸想し当事者でもあったため、エリナ同様当時の婚約は白紙となっていた。
「ご夕食の後よりも今の方が宜しいかと思いまして。実は実家からの頂き物がありましたの。是非エリナ様にもお渡ししたかったものですから」
「ありがとうございます、ハーバラ様。嬉しいです」
ハーバラに同行していた侍女からサラが箱を受け取る。ハーバラ・フォン・ランセル侯爵令嬢の父、ランセル侯爵が治める領地では、果物の生産が盛んだ。そこでは香油や石鹸と呼ばれる美容関連の商品が造られている。エリナもランセル領で造られた商品を利用していて、ハーバラもそのことは無論知っていた。
エリナの隣にハーバラが座ると、サラが紅茶を用意する。紅茶を飲みながら、エリナはハーバラとの会話を楽しんでいた。
「今回は、試作品もあるのですが、宜しければ使い勝手など感想を頂きたいのです」
「わかりました。いつもありがとうございますね」
「エリナ様に使って頂いているだけで、商品の宣伝になりますもの。こちらこそ、有難く思っています。利用している様で、心苦しくも思いますが……」
「ふふふ。私で力になるのでしたら、構いません」
「ありがとうございます、エリナ様」
エリナとは違いハーバラにとって婚約の白紙は、良いことばかりではない。侯爵令嬢としてだけでなく、商品の開発にも手を出しているハーバラ。本来ならば貴族家に生まれた女性は、家に入り後継ぎを作るのが仕事である。社会に出ることなど、許されてはいない。
ハーバラは見た目とは違い、随分と積極的な性格をしている。大人しく黙っている性格はしておらず、男性相手でも物怖じはしない。納得出来ないことは、誰であっても言い返すような女性だ。そんなハーバラに付き合ってくれる数少ない男性が、元婚約者だった。幼馴染同士ということもあり、ハーバラの性格も理解した上での婚約。まさかそれをなかったことにされるとは、流石のハーバラも暫くは悲しみにくれていた。
あの時のことを思えば、例え令嬢らしくなくとも今のハーバラの方が良いとエリナは思う。
「それにしても、エリナ様は本当に謙虚ですわよね」
「え? そうでしょうか?」
「もう少し高慢になってもいいと思いますわよ」
「えっと……それはまぁ、言われてはいますが」
「エリナ様はお優し過ぎます。あの時だって……いえ、あの時は私もエリナ様のことは言えませんわね……」
あの時とハーバラが思い出したのは、パーティーでの破棄騒動だろう。糾弾されたのはエリナだけだが、学園のパーティー会場で行われていた。ハーバラもその場にはいたのだ。しかし、何も出来なかった。相手は王太子。その場で異論を告げることは出来ないので、誰にもどうすることも出来ない事態。ただ受け入れるしかなかったのだから、優しいも何もない。だが、ハーバラはリリアンに言いたいことがあるらしい。
「人の婚約者に対して近すぎるだけでなく、あの場にいた全員とキスまで済ませていたというではないですか。迫ったのはあの娘ではなかったようですが……」
仕掛けたのはリリアンではないというのは、本当らしい。しかし、複数の男性とそういうことをするのはあまりに非常識だ。その後も離れることなく共にいたのだから、無理矢理という訳でもない。ハーバラが傷ついたのはそこにもあるのだろう。
「婚約者がいる相手と二人きりになる時点であり得ません。この学園にいたならば、殴っていたところですわ。それだけが心残りです」
リリアンらのことは、学園に於いて触れることはない。籍は元々なかったこととされ、リリアンが在学していた痕跡はなくなっている。ジラルドらは、中退扱い。貴族社会で生きていく中で、学園の中退は汚点でしかない。この時点で、貴族として生きていく道は閉ざされた。結果として、ジラルド以外は平民に落とされたらしいが、その方が彼らの為だったのかもしれない。婚約白紙を悲しんだハーバラには言えないことだが。
「ただ、エリナ様にとっては今の方が良かったのかもしれませんわね」
「え……?」
話題の矛先がエリナへと向いたことで、ギクリと身構えてしまう。
「今の殿下と婚約されてからの方が、笑っていますもの」
「それは……そう、かもしれません」
婚約白紙とされた令嬢の中で、新たに婚約者がいるのはエリナだけだ。ハーバラや他の令嬢は、少なからず白紙の件が尾を引いており次の婚約に踏み込むことができないらしい。皆が幼き頃からの婚約者同士だったこともあり、決して小さくない傷となっているのだ。
エリナも幼い頃から決められた相手ではあったが、ハーバラらの様な関係は築いていなかったように思う。婚約し結婚することに、義務と責任以上の想いは抱けなかった。そんなエリナでも傷ついたし、悲しかったのだ。ハーバラたちの悲しみはそれ以上だったことだろう。
「私は、あの方のことを何もわかっていませんでした。もし、ハーバラ様やランド様のような関係であったならば結果は違ったのかもしれませんが……私は疎まれていたようですから、彼女がいなくてもいずれは壊れていたのかもしれませんし」
「エリナ様……」
全てリリアンが悪かったとは言わない。エリナとジラルドの関係が壊れたのは、エリナにも原因がある。落ち込み、塞ぎ込んでもいた。それでもエリナがハーバラたちよりも立ち直るのが早かったのは、良い出会いがあったからだ。
「今の私が以前よりも笑えているのは、ハーバラ様の仰る通り……アルヴィス様のお陰です。突然婚約者となった私にも、十分にお心を砕いてくださりました。とても優しく穏やかで……そして、困った方でもあります」
「え? あの、エリナ様?」
「ご自分が如何に大切にされているのか、尊い方なのか自覚がありません。不器用な方でもあると、私は思います」
怪我を負った時、近衛隊の皆が焦った。医師も頻繁に容態を確認しに訪れたし、侍女らの寝不足な顔はアルヴィスが目覚めた後も何度も見かけた。外には知られないようにしていたが、もし公表していたならば公爵家からもアルヴィスの両親や兄妹らが足を運んだだろう。
何度も無理をして動こうとしている姿を見たし、その度に周りが注意していた。公爵家の次男という立場は、長男の代わりに過ぎない。エリナの実家であるリトアード公爵家とて同じだ。いや、どこの貴族家でも一緒だ。長男に後継ぎが生まれればお役後免となることも。
身に染み付いた考えを覆すことは容易ではない。アルヴィスは正に次男として典型的な考えを持っているのだと、エリナは父から聞かされていた。帝王学などよりも、最も教育が必要な部分であるということも。ジラルドとは正反対だと、笑っていた。
アルヴィスのことを話す父を思い出して、エリナも自然と微笑む。
「そんなアルヴィス様を、私は慕っていると気付きました。短い間しか過ごしていませんが、危ういところもあるあの方の傍にいたいと思っています。ごめんなさい……私は」
「謝る必要なんてありませんわ。エリナ様はずっと耐えていらしたのですから。違うんですよ、エリナ様」
「ハーバラ様?」
自分ばかりが幸せな気分になっていることに、申し訳なさを感じていたエリナ。だが、ハーバラはそんなエリナの考えを違うと否定する。
「学園で、エリナ様はいつも気丈にしておられました。あの娘が入学してくる前もです。王族に対しては流石に物言いすることは出来ませんから、悔しくもありました」
ただの貴族ならばハーバラよりも高位の貴族子息など、そうそういない。学年も身分も上なのは、学園内ではジラルドとエリナのひとつ上の兄くらいだった。
「婚約者だというのに、挨拶さえもしないなんて男の風上にもおけないと、常々思っていましたから」
「ハーバラ様、ありがとうございます」
「ですから、エリナ様が殿下と良好な関係であるならば、私たちにも嬉しいことなのです。ましてや、その殿下がエリナ様の好きな殿方であるならばこれほど嬉しいことはありません!」
バッと目を輝かせるようにしたかと思うと、ハーバラはエリナの両手を掴んだ。思わぬ行動にエリナは腰を引いてしまう。
「エリナ様、今後もお話を聞かせてください。今まで聞いていただいた分、今度は私たちがエリナ様からのろけ話を聞きたいのです」
「えっと、そのあまり、面白くはないと思いますが」
「アルヴィス殿下については謎が多いですし、私も社交界で顔を見た程度です。恐らくは皆様そうだと思いますわ。ですから、エリナ様は貴重な情報源でもあるのです」
「アルヴィス様の情報、ですか?」
「エリナ様とアルヴィス殿下は仲睦まじくされていらっしゃると、学園内にも広げましょう。そうすれば、私たちの白紙話もいずれ消え行きます」
未だに学園にちまちまと流れる噂。公爵令嬢であるエリナには特に伝わることはないのだが、消えてはいない。貴族は噂が好きだ。特に女性は敏感である。そして、破棄騒動よりも、アルヴィスという王太子の方が噂として食いつきやすいというのだろう。
「でもアルヴィス様のご迷惑になりますから」
「うふふ、そうですか。わかりました。ならば、私たちだけで共有させてください」
「それくらいなら……」
「ありがとうございます、エリナ様……やっぱり、可愛らしい人ですわねエリナ様は」
「? 何か仰いましたか?」
「何でもありませんわ」
噂を広げることは防げた。そしてハーバラからも悲しげな雰囲気が消え、エリナは安堵したのだった。