25話
翌朝、アルヴィスは既に恒例となったフォランの診察を受けていた。熱を計ると、平熱に戻りつつある。残るは右腕の傷のみだ。
「動かすときに違和感などはありますか?」
「……いえ」
「うむ……ならば、後は塞がるのを待つだけですな。鍛練等は控えてもらいますが、それ以外ならば通常通り過ごして頂いても構いません」
傷に響くような激しい運動以外ならば、もう制限はされないということだ。これにはアルヴィスも安堵する。無理をしないようにと言い含めて、フォランは出ていった。
「良かったですね、アルヴィス様」
「あぁ……」
「本日からお食事は、陛下方とご一緒されますか?」
「……そうだな。夜からはそうする」
臥せっている事情を王妃がどこまで知っているのかはわからないが、あのパーティー以降顔を出していないのだから心配をさせているかもしれない。只でさえ、ジラルドのことでアルヴィスに対して申し訳ないと考えているのだ。あまり、無用の心配はかけたくない。
朝食を終えると、アルヴィスはエドワルドと共に執務室に出向いた。護衛ということで、今日はディンも側に付いている。
椅子に座って仕事をするのは久しぶりだ。王太子の地位を預かってからは毎日のように座っていた場所だった。それほど時間が経っている訳でもないが、懐かしさを感じさせる。
「……ん? これは」
「どうされましたか?」
書類を確認していると、近衛隊の遠征の申請書があった。しかも、そこにはアルヴィスの同行が希望されている。
「近衛隊の遠征に同行? 一体どういう――」
「殿下の為ですよ」
「え?」
口を挟んだのはディンだ。控えている場所から動くことなく、淡々と告げる。
「今回の様なことを起こさない為に……殿下を守るのは我々です。そのことを、他ならぬ殿下自身に身に付けてもらう為です」
「ディン殿……その遠征では、アルヴィス様の帯剣は許可してくださるのですか?」
「無論です、エドワルド殿。第一の目的は、慣れて頂くことですから」
「慣れる、か……」
騎士団、近衛隊。騎士として行動していたその二年間で、危険に対して真っ先に動くことは身に染み付いてしまっている。どちらの組織でも、アルヴィスはどちらかと言えば下っ端の方だった。戦闘において、真っ先に動くのがアルヴィスを含む新人たち。だから先鋒を務めるのが当たり前だったのだ。
しかし、今は動いてはいけない立場にいる。次期国王という立場に。
ルークからも慣れろと言われた。だから遠征への同行を求めたということなのだろう。回数をこなして、アルヴィスから違和感を少しでも減らす為に。
「なるほどな。わかった。日程は調整する」
「その時は、私も同行します。宜しいですか?」
「あぁ。構わない」
侍従のエドワルドも身を守る術は持っている。アルヴィス程の腕ではないにしても、足手まといにはならない筈だ。反対する理由はない。
書類を片付けていると、既に一時間以上が経っていた。そろそろ頃合いだ。椅子から立ち上がり、脱いでいた上着を羽織る。
「少し出てくる」
「アルヴィス様、見送りに向かうのですか?」
「あぁ。留守を頼む、エド」
「はい」
今日はエリナが屋敷へ戻る日。見送ると約束もした。エドワルドを残して、ディンと共にエリナの部屋へと向かう。
部屋の前には、サラたちが正に部屋を出る準備をしているところだった。荷物を持った侍女らと一緒に、エリナの姿がある。
「エリナ嬢」
「あ……アルヴィス殿下」
アルヴィスが来たことで、サラたちは後ろに下がった。視線が合うと、エリナは深々と頭を下げる。
「来てくださって、ありがとうございます」
「いいタイミングだったようですね」
明確な時間は聞いていなかったが、ちょうど良い時間だったようだ。アルヴィスはエリナの前に行くと、手を差し出した。
「アルヴィス殿下?」
「少し、歩きながら話をしましょう」
「え?」
「サラ、君たちは先に門へ向かってくれ」
「かしこまりました」
「あの、殿下?」
戸惑うエリナだが、サラたちはアルヴィスの指示に従う。ディンは護衛なので離れるわけにはいかないが、先ほどよりも距離を取ってくれた。気を遣ったのだ。
半ば無理矢理に近い形でエリナの手を取ると、アルヴィスはサラたちとは違う方向に歩き始めた。手を引かれた形になったエリナも、慌てて付いてくる。
「あの……」
「次にエリナ嬢がここに来るのはいつ頃ですか?」
「あの、暫くは学園で学業を優先するようにと、父から言われております」
「そうですか」
学業を優先。リトアード公爵の考えはアルヴィスと同じだったようだ。当然と言えば当然のこと。理由があるとはいえ、学生なのだから。
しかし、ということは登城する予定はないということになる。恐らくは次に会うのは建国祭だ。建国祭では再びエリナにもパートナーとして参加してもらわなければならない。このままの距離感を見せるのは、あまりに他人行儀過ぎる。
そこまで考えて、アルヴィスはピタッと足を止めた。
「アルヴィス殿下?」
「エリナ嬢」
「はい」
「……私は王太子となってから、公務を優先してきました。それが己が何よりも先にすべきことだからです。……貴女よりも」
くるりとエリナへと振り返ると、エリナは戸惑う表情でアルヴィスを見上げていた。それもそうだろう。仕事が一番だと告白しているのだから、女性からすれば嬉しくはない筈だ。そんなエリナに少しだけ笑みを浮かべると、アルヴィスは続けた。
「どうやら私の周囲は、そのことに気が付いているようで……何かと指摘を受けました。ただ、私は貴女を蔑ろにしたいわけではありません」
「え?」
アルヴィスからの言葉に驚いたのか、エリナが目を見開く。
「少しだけ時間を下さい、エリナ嬢」
「それは……」
「私は面倒な人間です。それに、貴女が思う以上に酷い男でしょう。だから……」
「いえ、アルヴィス殿下はとてもお優しい方です!」
首をブンブンと横に勢い良く振るエリナの様子に、アルヴィスは苦笑する。パーティーなどではしっかりとした令嬢だったが、二人で話す時のエリナは年相応の表情を見せる。それがアルヴィスを信用しているからなのかはわからないが、初対面の頃よりは打ち解けてきていると考えて良いのだろう。
「君は、本当にジラルドに聞いていた印象とは随分違う」
「えっ……アルヴィス殿下、その私は」
「それ、もう止めないか?」
「……止める、ですか?」
いつまでも令嬢と王子としての呼び方をしていては、関係は変わらない。何よりもアルヴィスが、エリナを公爵令嬢としてしか見ることができない。だから、アルヴィスは仮面を一つ外すことにしたのだ。同じように、エリナからも取り除く必要がある。だからアルヴィスは決めたのだ。エリナへ、一歩踏み出すことを。
無論、打算が一切無いわけではない。このまま会うことなく建国祭まで今の状態でいるのは、面倒事を呼ぶことになりかねないからだ。それに、少しでもエリナの不安要素を除いておきたいとも思う。呼び方だけで何が起こるわけではなくとも、他人行儀過ぎるやり取りはきっとエリナも望んでいない筈だから。
「アルヴィス、でん――」
「殿下は要らない」
「……アル、ヴィス様」
そう呼ぶエリナの口元が綻ぶ。そんなエリナに、アルヴィスも言葉を返した。
「それでいい、エリナ」
「あ……」
握っていた手をそのまま持ち上げて、手の甲へと口付ける。人前ではやったことがある行為だ。婚約者にする挨拶として。それをこの場でする必要はない。改めてしたのは、エリナに対する意思表示だった。
「っ……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃない。……ほら、送ってく」
「はいっ!」
手を離し、半ば無意識にエリナの頭にポンポンと手を乗せた。驚きつつも、エリナは笑っている。ならば、アルヴィスの行動は正解だったのだろう。
再び手を差し出すと、今度は自ら重ねてきたエリナ。悲しい顔よりも、こうして笑っていてくれた方がいい。隣にいる相手が、沈んでいるのはこちらも気分が下がるというものだ。
今は、アルヴィス自身もどうするのが正しいのかよくわかっていない。だが、エリナが笑みを浮かべているなら今はそれで良いと、アルヴィスは足を動かした。