閑話 懐かしい顔と決意と
エリナ視点続きます。
ソファーに座りながらエリナがアルヴィスの髪を撫でていると、扉が叩かれる音が届いた。誰かが訪ねてきたのだろう。ここは国王の執務室。何か重要な用事であれば困るのはアルヴィスかもしれない。そう判断したエリナは尋ね人を確認するために、アルヴィスの頭をゆっくりとソファーの上に下ろして立ち上がった。そうして扉に近づき、音を立てないように静かに扉を開けた。
「申し訳ありません。アルヴィス様は――」
「……エリナ嬢……」
「え?」
扉の前にいたのは、懐かしい人だった。その眼鏡の奥には怜悧な瞳があり、どちらかといえば冷たい印象を与える人物、キリアス・フォン・ザクセン。ザクセン宰相の息子であり、リトアード公爵家の令嬢であったエリナとも少なくない交流を持っていた相手でもある。ジラルドとの婚約前という注釈がついてしまうが。
「失礼いたしました、王妃殿下。ご無沙汰をしております。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
扉から一歩下がるようにして腰を折るキリアスに、エリナは微笑みを返す。
「お久しぶりです、ザクセン卿。お元気そうで何よりです。私の方こそ、驚いてしまい申し訳ありません」
「いいえ、それは私の方です。王妃殿下がおられることは近衛に聞いていましたが、記憶の中のお姿と結びつかなかったものですから」
「そうかもしれませんね。最後にザクセン卿とお会いしたのは、まだ私も未熟だった頃ですから」
学園に入学する前、パーティー会場で挨拶をしたのが最後だったはずだ。その後、キリアスは勉学のためルベリア王国を発ってしまったから。あれから何年も経っている。お互いに違う印象を抱いて当然かもしれない。
「急ぎの要件でしょうか?」
「はい、なるべくであれば今日中に処理していただきたい案件ですので」
「……わかりました」
キリアスが王城に戻り、文官として働いていることは聞いていた。侯爵家の嫡男でもあり、他国に赴き見聞を広めてきたキリアスだ。重要な案件を任されていても不思議はない。ただ疲れを露わにしているアルヴィスを起こすことに、一瞬躊躇いを覚えてしまった。起こしたくないけれど、起こさなければならない。きっとアルヴィスはそうして欲しいはずだ。そもそも寝入るつもりもなかったのだろうから。
「王妃殿下?」
「ごめんなさい。少しだけ待っていてもらえますか?」
「陛下に何かありましたか?」
「……いえ、そうでは……」
何でもないわけはない。エリナが傍にいても、身体を動かしても起きないくらいには疲れている。休まなければ体調を崩してしまうかもしれない。本音は休んでほしいが、今のエリナには状況を判断できるほどの材料がなかった。寝かせたままでいいのか、起こさなければならないのか。どれだけ切羽詰まっているのかもわからない以上、エリナには決められない。いずれにしても起こすしかなかった。
「申し訳ありません。少し時間をください」
「承知しました」
扉の前で待つと、キリアスは扉を閉める。エリナの様子から立ち入ってはいけないと感じたのだろうか。だが今はそれが有難い。
再びソファーの前に膝を立てるようにして座り、アルヴィスの顔を窺う。先ほどはただ眠っているように見えたが、今はその端正な眉を潜め苦しそうな表情へと変わっていた。前髪をかき分けるようにして額に触れるが、熱があるわけではなさそうだ。夢見が悪いのだろうか。ならば起こした方がいいのかもしれない。肩に触れて、身体を軽く揺さぶる。
「アルヴィス様、起きてください。アルヴィス様」
「っ……」
何度か身体を揺さぶりながら呼びかける。すると、ゆっくりと瞼が開いた。安堵の息を漏らしたその次の瞬間、エリナの息が詰まる。
「え……」
ほんの一瞬だった。だがアルヴィスの水色の瞳が、紫色を帯びたように見えたのだ。見間違いかと思う程の時間。本当に一瞬の出来事だった。気の所為なのだろうか。
「エ、リナ」
「っ……アルヴィス様」
気だるげな声でエリナを呼ぶアルヴィス。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと身体を起こしていた。ソファーの下に足を下ろし、項垂れるようにしてアルヴィスは深い息を吐きだしている。
「そう、か。夢か……」
「大丈夫ですか?」
「あぁ。悪い、ありがとう」
「いいえ」
顔を上げたアルヴィスからは疲労感が滲み出ている。エリナはその頬に右手を添え、もう一度アルヴィスの瞳を覗き込んだ。そこにあるのは水色。アルヴィスの瞳の色だ。左も右も、同じ色。やはり気のせいだったのかと、エリナはアルヴィスから手を離した。
「それより……どうしてここにエリナが」
「心配だったのです。会えなくて、声も聞けなくて……もうずっとお帰りになられていませんから」
「ごめん」
違う。謝ってほしいわけではない。国王なのだから、国を最優先とするのは当たり前だ。天秤にかけるまでもない。だが、それでも心配しない理由にはならない。それだけのことだ。
「ザクセン卿が扉の外にいらっしゃいます。急ぎの案件があると仰られて」
「キリアスが? 流石、仕事が早い」
そう言うなりアルヴィスは立ち上がり、テーブルの上にあった書類の束を手に取った。散らばっていたものはエリナが拾い集めていた。エリナがわかる範囲の順にまとめては見たものの、実際に正しいかはわからない。そう説明すると、アルヴィスは首を横に振った。
「十分だ。そもそも俺が寝入ってしまったのが悪い。助かったよ」
「あの、アルヴィス様」
そのままキリアスの方に向かおうとしたアルヴィスの腕を取り、エリナが引き留める。重要な事柄が待っている中だ。引き留めてはいけないとわかっている。けれども、言わなければならないという衝動がエリナを突き動かしていた。
「ちゃんと、休んでください。睡眠をとってください」
「……わかっている」
「本当ですか? 約束してくれますか?」
「エリナ」
圧を掛けているかのように重ねて告げれば、アルヴィスは困惑の表情をする。それが実行するつもりがないという何よりの証拠だった。嘘を吐けない性分なのかわからないが、曖昧なままで誤魔化すことが多々ある。特にアルヴィス自身のことについて。今のように明確な約束をしてくれない。こういう時、エドワルドがいれば抑えつけてでも律儀に守らせるようにしてくれるのだが、その彼は不在だ。ならばエリナがやるしかない。
「顔色も悪いですし、お痩せになりました。お忙しいのはわかっています。ならば尚のことです。アルヴィス様が休まなければ他の皆様も休めません」
「……」
「他の誰より、アルヴィス様が倒れることの方が一大事なのです」
「……あぁ、わかっている」
これは最もアルヴィスが嫌う言葉だ。己が最優先とされること。他者よりも大事にされること。理屈として理解はしていても、アルヴィスは受け入れたくない。それを当たり前だと思いたくないのだろう。だからこそ指摘されれば、苦々しいと感じつつ頷く。王妃であるエリナとて、国王のアルヴィスと対等ではない。エリナの代わりはいる。けれど、アルヴィスの代わりはいないのだから。
これはいい機会だと、エリナはこれまで考えていたことをアルヴィスに伝える決意をする。本当は少しずつ慣らしていくつもりだったが、そうもいってはいられない。目の前のアルヴィスの状況を見て、黙ってもいられない。すぐにでも実行に移すべきだ。エリナはそう判断した。
「聞いてください、アルヴィス様。ミント様が後宮に来てくだされば、私も王妃としての仕事に戻れます。その分だけアルヴィス様も休むことができるはずです」
「だが――」
「私一人ではできませんが、ミント様やナリスさん、サラにイースラもいます。後宮は、ルトは大丈夫です」
ルトヴィスの名を出した時、アルヴィスは眉を寄せる。王妃としての執務をアルヴィスが肩代わりしてくれている理由は、エリナになるべく多くの時間をルトヴィスと一緒に過ごしてほしいと考えているからだ。アルヴィスが共に居れない代わりに、せめてエリナとだけはと。確かにそれは嬉しい。だがそれはあくまでルトヴィスの母としてのエリナだ。エリナにはもう一つの公的な立場がある。本来あるべき姿はそちらの方だ。
「アルヴィス様、私は王妃ですよ」
「……」
「あまり私を甘やかさないでください。もう十分です。ですから、私にもできることをさせてください。ルトヴィスを寂しくさせてしまうのは心が痛みますが、今はアルヴィス様の心配の方が勝ります」
「ルトよりも、か」
「はい」
即答すれば、アルヴィスは腰に手を当てながらため息を吐く。どうやら観念してくれたらしい。
「わかった。エリナに任せる」
「ありがとうございます!」




