閑話 近くて遠い距離
エリナ視点です!
「はぁ」
空が茜色に染まる頃、サロンのソファーへ座ったエリナは、深々と溜息を吐いた。すぐ側にはゆりかごが置かれており、親指を口に含みながらもごもごと口を動かしているルトヴィスがいる。金色の髪を持つ我が子。目もしっかりと開いており、藍色だということがよくわかった。エリナの瞳とアルヴィスの髪色を継いだ第一王子。乳母がいないルトヴィスの世話をするのは、主にエリナとナリスだ。
今はまだルトヴィスにかかりきりになることが多いエリナだが、そろそろ王妃としての執務に復帰したい。今はアルヴィスがその代理を行ってくれており、負担が増えている状況であり、それを早く元に戻したいからだ。それに何よりアルヴィスの体調が心配でたまらない。ここ最近は顔を見ることさえないからこそ、余計に不安になってしまう。
きちんと休めているだろうか。食事は摂れているのか。そもそも睡眠時間も十分に確保できているのかもわからない。国王に即位する前のアルヴィスを知っているからこそ、自分自身のことを疎かにしているのではないかと。だからエリナは執務に復帰できるように動き始めていた。一年間の期限付きにはなるが、義姉のミントが乳母役も兼ねてしばらく後宮に入ってくれることが決まり、ようやく動けるようになる。ミントは息子のリングと共に後宮に来てくれるという。ミントの夫であるマグリアには申し訳がない気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいだ。尤もミントによると、マグリアの方から助けてやって欲しいと懇願されたとも聞いている。マグリアもアルヴィスを案じてくれているのだろう。
この件について事前にアルヴィスにも書面ではあるけれど許可は得ている。直接話ができないため、やり取りが書面のみになってしまうのは酷く寂しい。けれど、それ以上に心配の方が勝る。
「アルヴィス様、無理をしていらっしゃらないかしら」
「あー?」
「そうね、ルトも心配よね」
ルトヴィスは赤子だ。当然のことながら会話などできない。視線が合ったように感じても、実際にルトヴィスがエリナを見ているわけではないらしい。まだ相手を明確に認識しているわけではないとわかっていても、それでも意思は通じている気がして、エリナはついついルトヴィスに話かけてしまう。ルトヴィスも意図しているわけではなく反射的に声を出しているだけなのかもしれない。それでもまるでエリナの言葉がわかっているようにも思えて嬉しくなってしまうのだ。
「ルト」
その柔らかな頬をつつけば目を閉じて擽ったそうにし、離れればまた目を開ける。その間も、ルトヴィスはずっと親指を口に入れたままだった。なんてことない仕草だが、それがとても愛おしく思えてエリナの頬が緩む。どれだけみていても飽きることはない。歩き始めれば大変さが増すということだけれど、その頃にはエリナもルトヴィスの傍にいられる時間は減ってしまっているだろう。
共に居られる時間は多くない。ましてや子どもの成長はあっという間だ。少し目を離した時には、大きく成長してしまう。だからこそ大切にしなければならない。けれどそれは、エリナにもアルヴィスにも望めないもの。今のエリナがどれだけ謝罪をしたところで、ルトヴィスには理解できるはずもない。成長したとして、理解してもらえるのはずっと先のことだろう。
やがて口を動かしていることにも疲れたのか、ルトヴィスの口から指が外されていく。疲れて眠ってしまったようだ。もう一度ルトヴィスの頭を撫ででから、エリナは立ち上がった。
「ナリスさん、ルトのことを宜しくお願いします」
「承知しました。エリナ様は……陛下のところに、でしょうか?」
「はい。お忙しいのはわかっています。ルトの夜泣きもあってこちらで休まないというのも理解しています。でも私は……」
ルトヴィスの傍にいると、アルヴィスは放っておけない。泣いていれば抱き上げたくなるし、手を伸ばされればその手を掴みたくなる。どれだけ睡眠時間が削られても、求められれば応じたくなってしまう。幼き頃の自分のようにはさせたくないと思ってしまう。そうしているうちに、不調を覚えるようになってしまった。これでは本末転倒だ。
ルトヴィスに会えないことは寂しいけれど、それよりも今は国王としての立場を優先する。国王たるアルヴィスが身内のことで不調をきたすようなことなどあってはならない。ゆえに、暫く後宮には戻らないと告げられていた。それが一か月前のことだ。
その宣言通り、アルヴィスとはそれ以来顔を合わせていない。結婚してからこれほど顔を合わせないのはあの時、マラーナの件で帰還が遅れた時以来だ。マラーナの件との違いは、距離が離れているわけではないと言うこと。アルヴィスは今も王城にいて、エリナは後宮にいる。同じ敷地内にいるのだ。会おうと思えば会える距離。それでもエリナが行動を起こさなかったのは、多忙なアルヴィスの邪魔をしてはいけない。エリナとルトヴィスに気を回させてはいけないという想いからだった。けれど、それも一か月ともなれば不安に駆られてしまう。だから会いに行く。夕刻に、ルトヴィスが眠った頃合いを見計らって行動を起こすと、エリナは決めていた。
「それで宜しいと思います。エリナ様がなさりたいようにするのが一番だと」
「ナリスさん、ありがとうございます。行ってきますね」
そうしてエリナはフェラリータとミューゼを伴い、その場を後にした。その足で後宮と王城を繋ぐ回廊を歩き、最も近い居室でもある国王の執務室へとたどり着く。
「ここ、ね」
「エリナ様、我々はここで待機しております」
国王の執務室の前には近衛隊士が警護として立っている。彼らの邪魔にならないようにと、フェラリータとミューゼはそこから少し離れた場所へと移動した。近衛隊士に断りを入れて、エリナは扉を軽く叩く。中から返事はない。
「どうぞお入りください」
「ですが」
「陛下……いえ、レオイアドゥール卿より王妃殿下がお越しの場合は、陛下からの返答がなくとも招き入れて構わないと指示を受けていますので」
他ならぬエリナであれば通してもいいとディンが言っていたという。今はその言葉に感謝して、エリナは扉を静かに開けた。
「失礼いたします」
室内に入ると同時に扉を閉める。国王の執務室に入ったのは初めてのことだ。王太子妃であった頃も、ここに足を踏み入れたことはない。中に入って感じることは、アルヴィスの部屋らしいなという感想だった。王太子の執務室よりは広い。それ以上に無駄なものを置かないアルヴィスの性分らしく、本棚と机、ソファーが二つあるのは王太子執務室と同じだ。とそこまで室内を見回してエリナは気づく。
「アルヴィス様⁉」
ソファーの上に誰かが横になっている。アルヴィスだ。エリナは慌ててソファーへと駆け寄った。ソファーの前に膝を突き、顔色を窺う。寝息が聞こえるから眠っているだけなのだろうが、元々の白かった顔が青白く見えた。少し瘦せたようにも見える。やはり疲れているのだろう。ここまでエリナが顔を近づけても、アルヴィスは微動だにせず眠り続けていた。近くに書類の束が落ちているところを見るに、アルヴィス自身は眠るつもりはなかったのかもしれない。その状況でも眠ってしまったということは、限界が来ていたのだろう。
「アルヴィス様、失礼いたしますね」
エリナはアルヴィスの頭を少し持ち上げるようにして己の身体を滑りこませる。そして膝の上にアルヴィスの頭を乗せた。何度か行ったことがあるので、エリナも慣れている。するとアルヴィスは顔をエリナの方へと向けた。
「アルヴィス様?」
起こしてしまったのかと声を掛けてみるが、その目が開くことはない。起こさずに済んで安堵しながら、エリナはもう一度アルヴィスの顔を覗いた。アルヴィスの顔を見るのはひと月ぶり。触れるのも同じくらい久しぶりだ。その髪に触れ、頭を撫でる。ルトヴィスが生まれる前は何度も行ってきた。エリナはアルヴィスの髪に触れるのが好きだ。柔らかくて透き通った金色。いつでもこれに触れられるのはエリナだけの特権でもある。
「お疲れ様です、アルヴィス様」
そう声を掛けたエリナは、アルヴィスの額に唇を寄せた。
そろそろクリスマスネタを考えなくては……( ゜Д゜)




