13話
そんなことがあった数日後のことだ。アルヴィスの姿は執務室にあった。執務机の前にある椅子に座っているのはいつもと同じだが、一つだけ違うことがある。それは机の上に置かれている霊水。アルヴィスの視線は霊水一点に注がれていた。霊水の中、それだけを見定めていると霊水の中にある情報が目に見えてくる。いや実際には、右目にだけその情報が視えていたと言った方が正しいか。
「……」
「陛下? いかがされました――っ⁉」
いつまでも霊水を見つめたまま動かないアルヴィスを案じたディンが、控えていた扉近くから執務机の方へと近づいてくる。半ば呆然としながらも、ディンの近づく気配を感じたアルヴィスが顔を上げた。すると、ディンが息を飲む音が届く。
「陛下、その目……は」
「目?」
「っ……右目の色が違います!」
机の手を付き、ディンが詰め寄るようにして身を乗り出してきた。間近でディンと視線が合う。ディンの目にはアルヴィスの顔が映っていた。左右の瞳の色、その色合いに違いが見える。だがそれは一瞬のことで、直ぐに両目とも同じ色合いへと戻った。何色とまではわからないけれど、恐らく――いや間違いなくその色は紫色だったはずだ。リリアンの言葉を思い出して、アルヴィスは自嘲気味に笑う。
「何を笑っておられるのですか⁉ このような……まさかまた女神様のお力か何かが」
「ディン、いいから落ち着け」
「落ち着いてなどいられません! 直ぐに特師医様に――」
「フォラン殿は知っている。このことで不調があるわけでもないし、不自由になることもない。ただなんというか、良く視えるようになっただけなんだ」
良く視える。そう、霊水に触れずとも視えていた。そこに含まれる情報が何か。何よりも以前に霊水を読み取ろうとした時とは違い、膨大な情報が流れてくることはない。戴冠の報告に向かった際に得た力のお陰なのか、それほど負担に感じることもなかった。ただ理解するのに時間がかかるだけで。
「良く視える、ですか?」
「俺がマナを読み取ることができるのは知っているだろう?」
「承知しています」
「それが触れずとも視えるようになったと思ってくれればいい」
直に触れることがない分、触れて読み取っていた時よりも集中力を必要とする。だが直接流れてこないからこそ、負担も少ない。ただ霊水のような神の領域に踏み込む場合は、右目にそれが集中するようだ。
「あの時、地下に陛下が現れた時に一体何があったというのですか?」
「それは伝えたはずだ」
「隠し通路などの件はお聞きしました。ですがそれ以外にもあったのではありませんか? ハスワークもシーリングも感じ取っています。陛下が何かを隠していることに。先ほどの瞳の色、見間違いだったとは思えません。また女神様に何かをされたのではありませんか!」
必死の形相のディンに、アルヴィスは数回目を瞬いてから微笑んだ。女神ルシオラはルベリア王国に於いて、慈愛と豊穣の女神と慕われている存在だ。ディンに自覚があるかどうかはともかくとして、今のディンの言葉はその女神を責めるような言い回しだった。
「陛下、私は――」
「悪かった。お前を笑ったわけじゃないんだ。ただ……この国の人間がルシオラを責めるようなことを言うのが可笑しかったというか、意外だっただけで」
「……私とて、女神様を信じていないわけではありません。ただ陛下が立太子の儀を終えて以来、様々なことが陛下の身の回りで起きています。加護を得たことも、女神様より寵愛を受けているとされることも、決して悪いことだとは思っておりません。ですが……」
そこまで言いかけてディンは口を閉ざす。言いにくいことというよりも、それを言葉にしても良いのかという躊躇いが見えた。少しばかり逡巡した後でようやく口を開く。
「陛下にばかりそれを担わせることに異論を申したい想いもあることは事実です」
「……俺はルシオラの子孫の中で、より血が濃いらしいからな。その所為だろう」
「だとしてもです。そもそも何故この時代、そして陛下に対してなのですか⁉ 国は何代も続いております。陛下がその血を受け継いでいるのはわかっておりますが、今である必要がどこにあるのでしょうか!」
珍しく感情を露わにするディン。常に冷静であり、他人にも自分にも厳しいディンだが、思いの丈を晒すことはほとんどない。
「何故、アルヴィス様がそのような重荷を背負わなければならないのですか……」
「ディン……」
陛下、ではなくアルヴィスの名を呼んだ。これも珍しいことだ。国王という立場に在るものではなく、アルヴィス個人に対するものということなのだろう。
確かにこの時代である必要がどこにあるのかと問われれば、その答えを知る者はルシオラ以外にはいない。けれどアルヴィスでなければならなかった理由がないわけでもないのだろう。
「俺は母上によく似ているだろ?」
「は?」
「父上ではなく、母上に似ている。生まれてから一度だって父上に似ていると言われたことはない」
「……それがどうしたというのですか?」
ディンからすれば突然始まった的外れの問いかけ。アルヴィスの意図がわからずにディンは困惑した表情になり、眉間に皺を数本増やしていた。理解できないと顔に書いてある。
「王家であれば俺が持つ色合いは珍しくない。だが母上は元々伯爵令嬢だった」
「それはその通りです。ですが陛下の母君はたどれば王家に連なる血筋ですので」
「伯爵家に王家の人間が嫁いだのは何代前の話だ?」
「……我々の祖父の時代だと認識しております」
そもそも王家には分家という形でベルフィアス公爵家がある。だがアルヴィスの母オクヴィアスはベルフィアス公爵家の血筋ではない。それこそ三代前くらいに王家の直系が嫁いだことがあるくらいだ。単なる王女であれば王家の遠縁ということで片付けられて終わりだ。だがアルヴィスの祖父、つまり先々代国王はオクヴィアスの血筋をベルフィアス公爵家に入れることを強く望んだ。男児が生まれれば、その子を王家の人間として迎え入れようとするくらいには。
そしてこれはアルヴィス以外には知らない話だが、ルシオラの夫君であるゼリウムの顔、その息子であるアルティウムの顔。その二人はアルヴィスとよく似ている。たまたまなのかもしれないが、今のアルヴィスにはただの偶然で片付けることなどできなかった。先代国王であるギルベルトの血筋を疑っているわけではない。だがもしかするとオクヴィアスの血筋に、その嫁いだという王女に何かしら理由があるのではと勘繰ってはいる。
「直系ならともかく、傍系となった伯爵家の人間に王家の色が現れることは珍しい。それも孫の代だ」
「それはそうですが、先祖返りという形で王家の色合いが出たとしても不思議はありません。だからこそベルフィアス公爵閣下のお相手にと望まれたのでしょう」
「伯爵家でなければ伯父上の相手にと名が挙がったんだろうな」
「そうかもしれません」
王家では無理でも公爵家ならばと祖父が囲ったのかもしれない。王家の先祖返りの血を持つ相手を逃さないようにと。血筋に重きを置いた祖父が考えそうなことだ。だから余計にその血を引くアルヴィスを王家に迎えたかったのだろう。
「祖父が何を考えていたかはわからない。だがおそらくはより強い王家の血を残そうと考えていたんだろうというのは予想できる。その結果が俺だ」
「陛下」
「ルシオラの加護、ルベリア王家の血を絶やさずにいる意味、各地の瘴気の状況を鑑みても、実際は得てして起きたことなんだろうな。偶然ではなく必然だった」
より正確にいえば、アルヴィスはスペアだ。おそらくは何らかの事情で本来の役割を果たせなくなったルシオラの契約者の代わりに用意された代役。半ば確信に近い形で、アルヴィスはそう認識している。このようなこと、ディンは元よりエドワルドにも、ましてやエリナには絶対に言えないけれど。
贖い子という言葉の意味するところは、つまりはそういうことなのだからと。何故自分がそんなことをしなければと問いかけることはできる。想わないわけでもない。でもそれを第三者に漏らすことはできない。これは隠し通さなければならないことだから。
「だからディン、どうしてではないんだ。俺だから、なんだよ」
「……へいか」




