閑話 予期せぬ再会
前回のリリアン視点となります。
9巻発売しました!
楽しんでいただけたなら幸いです(*´ω`)
箒で床を払い、最後に床を布で拭く。もう何度も繰り返した作業だ。こうした作業をするようになって一年近くが経過した。下女のようなことを始めた当初は嫌悪感が勝ったし、納得できないことも多かったけれど、それも今となっては考える事すら億劫になってしまった。
「はぁ」
リリアンは掃除の邪魔だと捲っていた袖を下ろし、汚れた布を桶へと掛ける。膝を突いたまま天井を見上げたが、冷たい石壁が見えるだけ。ここは騎士団詰所内にある地下牢の一つだ。今は収容されている者がいないため、リリアンの息遣い以外には何も聞こえない。それを寂しいと思わなくなったのはいつからだっただろうか。
今は蝋燭の明り以外に辺りを照らすものはない夜。こんな時に一人でいると、昔は怖くて堪らなかったというのに、今は一人でいる方が楽だ。誰にも指図されることなく、嫌悪の視線を向けられることもない。監視されるようにして一挙手一投足を見られることもないのだから。
「ほんとどうして私は、ここにいるんだろ……なんで転生なんかしちゃったのかな。ここは私がヒロインの世界じゃなかったのに」
気づいた時は楽しかった。嬉しかった。ヒロインとしているのならば、ここでならば幸せになれると疑わなかった。何をしても世界が味方をしてくれるのだと信じていた。今ならばそれは違うのだとわかる。
ゲームの世界にはなかった日常、孤児院にいた時のことだってリリアンは覚えている。そこにいた子どもたちと触れ合い、遊んだり喧嘩をしたりした。彼らはゲームには出てこないけれど、確かにリリアンと触れ合い生きていた。でもここをゲームの世界だと決めつけていたリリアンは、男爵家に引き取られてからは彼らのことを思い出すこともなかったし、傍にいた人たちのことだってモブだとしか認識しなかった。屋敷にいたのは数年だったけれど、誰一人の名前だって覚えていない。
冷たい石の床の上に座り込むと、膝を抱えるようにしてその中に顔を埋める。ここに来るたびに、リリアンはこうして過去を思い返していた。そうなったのはジラルドが王都を離れたという話を聞いたのがきっかけだ。
『元王子だけど既に北で見習い騎士として従事することが決まったらしいな』
『温室育ちの元王子だ。どうせすぐに根を上げるだろうさ』
『違いない』
ジラルドは元王太子だが、今は元王子という呼び方をする者が多い。名前を呼ぶ者は誰一人としていないけれどその呼称を使われるのはジラルドのみ。だからリリアンにも伝わった。彼らの言う元王子がジラルドだと。この時はたまたま騎士たちの傍をリリアンが通りがかったため、意図してリリアンに聞こえるような声量で話をしてくれたのだろう。リリアンに話しかけてくれるような人は、騎士団長もしくはリリアンの上司に当たる女性のみ。それでも時折こうしてリリアンにも聞こえるように、情報を教えてくれる人はいるのだ。そこにあるのが善意が悪意かはわからないけれど、今のリリアンにとっては貴重な情報源だ。
だから今の王城がどういう状態なのかは、リリアンも知っている。アルヴィスが国王に即位したことも、エリナが第一王子を生んだということも。知ってはいるが、今のリリアンにはどこか遠くの出来事のようにしか思えなかった。
顔を上げて右手でリリアンは自分の首元に触れた。冷たい感触が伝わる。拘束錠と呼ばれる犯罪者に課せられる道具。いつでもリリアンを死に至らしめることのできる道具でもあり、これがある限りリリアンはいつでも犯罪者という目で見られることになる。外すことができるのは唯一人、所有者であるアルヴィスだけだ。
『俺は君をいつでも殺せる』
そう告げられた時のアルヴィスの表情が忘れられない。ゲームのスチルにあるような寂しげな笑みでもなく、困ったように笑うでもない。冷たい眼差しと声で告げられた。戦闘経験などないリリアンにとっては、それだけでも恐怖だった。学園での模擬戦闘訓練はすべて後ろに控えていたし、リリアンのことはジラルドたちが守ってくれていた。前に出ることもなかったし、そもそも魔物だって当時のリリアンにとっては単なる舞台装置の一つ。恐怖を抱くような存在ではなかった。だから余計にアルヴィスが怖かった。最初に剣を向けられた時以上に。
ガタン。
「⁉」
その時だった。物音が聞こえて、リリアンは慌てて立ち上がる。入口から誰かが来たのかと階段がある方へと身体を向けた。ここは地下であり、入口は一つしかない。だからそちらを向いたのだけれど、次に聞こえたのはリリアンの後ろからだった。
「っ」
息遣いが聞こえてリリアンはゆっくりと振り返る。薄暗い地下牢の中に人影が見えた。気のせいではない。間違いなく人の影だ。一体どこから来たのか。この先は壁しかないというのに。まさかこの世界にも幽霊がいるのかと、リリアンの手は震え始める。
「参ったな」
影が声を発した。そのことにリリアンは再び驚く。忘れるはずもない声だったからだ。蝋燭の明りを持ち、リリアンはゆっくりと人影の方へ灯りを照らす。そこにいたのは先ほどまで思い返していた人物、アルヴィスその人だった。
「え……?」
蝋燭の明りの所為だろうか。リリアンは違和感に気づく。アルヴィスの片方の目の色合いが少し違って見えた。アルヴィスのキャラデザインは何度も見たし、実際に顔も見ている。だからこそその違いは明らかだ。薄い青、水色の瞳の色を持つはずのアルヴィスの瞳が、紫色が混在したかのようにグラデーションのように揺れていたのだ。複数の色合いが混ざるなんてありえない。それはリリアンでも理解できた。
会話をしていると倒れ掛かってきたので思わず手を差し伸べるも、強く払いのけられてしまった。わけがわからないけれど、このままであればリリアンはまた咎められるかもしれない。どうしていいかなんてわからない。ただリリアンがこの場にいてはいけないことだけはわかる。だからリリアンは駆け出した。掃除道具のことは後回しだと、騎士団の宿舎へ駆け込む。騎士団長の部屋を思い切り数回叩くと扉は開き、不機嫌な顔をした男が現れた。
「あ、あの!」
「……なんだ」
ジロリと騎士団長であるヘクターに睨みつけられる。それでも彼は返事を返してくれた。震える声で何とかリリアンはヘクターに伝える。
「ち、地下牢にアル、ヴィス陛下が……突然その――」
「なんだと⁉」
最後まで言い切る前にヘクターはリリアンを押しのけるようにして飛び出していった。その勢いでリリアンは態勢を崩しその場に座り込んでしまう。
「い、いたい……」
慌ただしく動き始める宿舎内だが、リリアンを気遣う者は誰もいない。気に掛けるものなどいない。わかりきっていることだ。そうして足音の数が減ってきたところで、一つの影が上からかぶさってきた。
「え?」
「あんた、何したんだい?」
目の前にいたのは上司である恰幅の良い女性だ。腕を組み、呆れたような表情でリリアンを見下ろしている。
「何も、してません」
「……」
何もしていない。ただヘクターに伝えに来ただけ。それ以上は何もしていない。
「だって、言わなきゃ私が怒られるって思ったから……だから」
「……」
「ほんとです! 私何もしてませんっ」
「陛下が現れたって聞こえたんだが?」
「それもほんと、なんです……」
嘘は言っていない。本当のことを伝えただけだ。それでも段々と尻すぼみになってしまったのは、信じてもらえないと思ったからだ。それだけの言動をした自覚はある。否、常にリリアンはそうして嘘ばかりをついて生きてきた。やっぱり怒られるのだと怒声を覚悟し、リリアンは目をきつく閉じた。
「……ならあんたはまず道具を片付けてきな」
「え?」
「陛下のことは団長やハスワーク卿らに任せておけばいい。あんたは自分の仕事をやっていただけだ」
だが聞こえてきたのはいつも通りの声。それだけいうと女性はリリアンを置いて立ち去っていく。何を言われたのだろうと、リリアンは呆然と座り込んだまま女性をずっと見つめていることしかできなかった。




