8話
それからひと月が経った頃。アルヴィスも国王の執務にも慣れはじめ、宰相やその配下の文官らとの連携もスムーズになってきた。宰相の息子であるキリアスは、挨拶をしたあの日以来顔を合わせてはいない。特に宰相が話題にすることもなく、敢えてアルヴィスから話題を振ることもなかった。
そんな日々を過ごしていたある日。夕方になり執務を終えたアルヴィスは王城にある書庫、その更に奥の禁書庫へと足を運んでいた。
『神霊水を作っていただきたいのです』
あの日、戴冠式に来客としてルベリアを訪れたレンティアースに依頼されたそれ。即位してからも時間を見つけて書庫に足を運び調べてはいるが、霊水についてでさえ記述が僅かしかない状態だ。神霊水などという言葉すら出てこない。
「霊水でさえ禁忌の異物だった。普通に考えれば、その更に上位を示すものだろう」
アルヴィスは懐から小さな小瓶を取り出した。それは大聖堂から先日納入された霊水だ。以前、この霊水を調べようとした時のことを思い出す。やめろと言わんばかりにアルヴィスを襲った頭痛。同じことをしたならば、再びあれがアルヴィスを襲う可能性はある。けれども、あの時のような無様な真似はさらさないだろうという予感もあった。
「……」
目を閉じて、胸に手を当てながらアルヴィスは意識を集中させる。戴冠の儀の後で訪れた大聖堂での邂逅。あの時に与えられた力。おそらくはアルヴィスを守ってくれるだろう力だ。元々ある己の力と混ざり合う別の暖かく、それでいて強い力。確かにそれはアルヴィスの中にあるのだから。
深呼吸をしたアルヴィスは、懐から懐中時計を取り出して時刻を確認した。執務室からここにいることはエドワルドにもディンたちにも伝わっている。入ったのは夕方。遅くなったところで、禁書庫に立ち入れるのはアルヴィスのみであるため、誰も駆けつける者はいない。ここで何かが起きてもそれを即座に察知されることもなく、エドワルドらに知られるまで時間もかかる。
「流石にやめておくべきか……」
誰にも知られることはない。それはアルヴィスにとって好条件であるものの、他の者たちにとっては違う。ましてや今のアルヴィスはルベリアを預かる地位にある。この身はアルヴィスだけの物ではないのだから。
再び小瓶を懐に仕舞うと、アルヴィスは更に奥へと足を進めた。まずはここを調べる。それで何も出なかった時の最終手段にする。そう決め、棚にある書物を手に取った。
『アルヴィス様、アルヴィス様!』
「⁉」
遠くから名を呼ぶ声が届く。それに気づいたアルヴィスは顔を上げた。書物に夢中になり、時間を忘れていたらしい。懐中時計を見れば、既に夜遅い時刻だった。
「今戻る」
『わかりました』
少々声を張り上げるようにすれば、扉の外にいるエドワルドにも届いたようで、返事があった。書物を棚に収め、踵を返そうとしたところでアルヴィスは足を止める。その刹那、小さな音がアルヴィスに届いた。
「……なんだ?」
カチッと、何かが外れたような音が聞こえた気がしたのだ。ここには書物と棚くらいしか置かれていない。半永久的にマナの力により守られている場所ではあるけれど、それはあくまで書物らを守るため。外部から汚されたり、破損するようなのを避けるための力だ。何かを組み込んだような仕組みはこの場にはない。
『どうかされましたか?』
「いや……」
気のせいにしてははっきりと聞こえた。アルヴィスは目を凝らすようにして辺りを見回す。どこにも異変は見当たらない。ということは目に見える範囲ではないということだろう。アルヴィスが書物を戻したタイミングで音が聞こえた。ならばその辺り、もしくはその書物自体か。大聖堂での一件があるため、ただの書物といえども捨て置くことはできない。
「これ、だったよな」
もう一度先ほどまで読んでいた書物を手に取った。背表紙に書かれている題目は、「大聖堂における条目」だ。大聖堂創立当時からの格式、仕来り、法などについて成り立ちから列挙しているもの。霊水についても記載があった。大半が古代語で書かれているもので、非常に読みにくいものだった。同じ題目の物でも読みやすく解読されたものが大聖堂や学園の書庫にも置かれている。おそらくは保護の意味も込めてここに置かれている書物の一つだろう。エドワルドに声を掛けられたため、まだ途中までしか読むことはできていないが、読み込んだところまでであれば内容の齟齬は見られなかった。
もう一度、その書物を棚に戻してみるが、今度は音は聞こえない。棚に背を預けてアルヴィスは腕を組んだ。
「あの音は気のせいなんかじゃない。だがここは王城創建からしばらくして作られた場所。王城も別に最も古い建物というわけでもない。何度も建て替えが行われている。何かしらの仕組みがあるとも考えにくいんだが……」
マナによる保護が行われたのが正確にいつなのかまではわからない。だが少なくとも、古すぎる場所でもない。なのに何かが引っかかる。
「ここで考えても仕方ないか」
アルヴィスは諦めて身体を起こす。その時、右手の甲から熱を発していることに気づく。
「これは?」
手袋を取り、その右手甲を確認した。女神ルシオラの紋章。就寝時以外、外すことは滅多になく、アルヴィス自身も目にすることはあまりないその形。それが発光していた。導かれるようにして右手がゆっくりと持ち上がり、突き出すようにして壁に向けられる。更に輝いた紋章に呼応するかのようにして、ルシオラの紋章が壁に現れた。その壁にアルヴィスは近づく。そして完全に壁に触れたところで、あったはずの壁が消える。まるでこの先に入れと言っているかのように。
「わかったよ」
壁の中に一歩踏み入れる。その先にあるのは洞窟のような暗い回廊。光はないが、紋章が発光しているため、辛うじてその先を見ることができた。更に一歩踏み出したところで、アルヴィスはハッとなり後ろを振り返る。するとそこにあったはずの禁書庫の姿はなく、壁があるだけだった。せめて一言エドワルドに言っておくべきだったと思うが既に遅い。仕方なくアルヴィスは前に進むべく、足を動かすのだった。




