閑話 深夜の育児
活動報告でもお知らせしましたが、
10月に第9巻が発売します!
戴冠の儀、ルトヴィス誕生のお話です。楽しみにしていてください!
夕食に向かったアルヴィスが先に寝室へと行った旨の知らせを受け、エリナはルトヴィスを抱えながら寝室へと向かった。ちょうど部屋に入る時に、アルヴィスの部屋側の入口からディンが出てくるのが見え、エリナは自室へは入らずにディンへと駆け寄る。
「レオイアドゥール卿」
「王妃殿下」
「アルヴィス様に何かあったのですか?」
夕食後、アルヴィスはサロンに来るつもりだったはずだ。帰ってきた直後のアルヴィスとの会話からもそう読み取れる。エリナがサロンで待っていることもわかっていただろう。アルヴィスの性格からして、何も言わずに寝室に直行することは考えられない。ということは、何かしら問題が起きたということだ。
問いかけた相手、ディンの顔色はいつもと変わらなかった。エリナを見て、次にその腕に抱かれているルトヴィスへと視線が動く。ほんのわずかに目元を緩ませたようにも見えたが、やはりその表情は大きく動いていない。
「陛下にも色々と思うところがあるようですが、恐らくは王子殿下の声を無下にはできないのでしょう」
「え?」
「赤子である王子殿下にどうすることも出来ないのは重々承知です。ただ……いえ、これ以上は私からは言わないでおきます。陛下からお聞きください」
「……わかりました」
「では、私はこれで失礼します」
後宮に出入りする男性の近衛隊士は限られている。それでも夜に滞在することはない。ただ後宮内にはいなくとも、その外には近衛隊士の守りがある。ディンも夜勤の時は、その任に付いているのだろう。去り行くディンの背中を見送ってから、エリナは自室からその先にある寝室への扉を音を立てないように静かに開いた。
「ルト、静かにね」
ルトヴィスに指を差し出せば、小さな手がそれを掴んでくる。その指を己の口に持っていったかと思えば、エリナの指を掴みながら器用に自分の親指だけを口に含む。どうやら今は落ち着いているらしいと判断し、室内へと足を踏み入れた。
ルトヴィスが普段眠る小さなベッドがあるが、今ここにルトヴィスを置けば間違いなく泣きだす。既に何度も経験していることだ。抱いたままで大きなベッドの方に近づくと、アルヴィスが寝入っている様子が視界に入った。
「アルヴィス様」
暗い室内ではあまりよく見えない。でもサロンに寄らずに直接ここに来たということは、もしかするとアルヴィスの意思ではなかったのではないか。倒れたか、そのまま眠ってしまったか。アルヴィスならば前者の方があり得そうだ。
空いているスペースに腰を下ろし、アルヴィスの顔色を覗き込む。身じろぐこともなく、アルヴィスの瞳は閉じられたままだ。結婚してからは、エリナが傍にいても目覚めないことは多々あった。だから珍しいわけではない。何もおかしいところがあるわけでもない。けれど、ディンが何か言い淀んだことだけが気にかかる。
「ルト、貴方はわかるかしら。お父様のこと……」
話しかけてもルトヴィスはただもぐもぐと口を動かすようにしているだけだ。当然だろう。アルヴィスに訴えることをしているルトヴィスでも、こちらのことがわかるわけではないのだから。わかっていても、アルヴィスとルトヴィスの間には何かしらの絆みたいなものがあると、エリナは思っていた。マラーナ王国での事件で、遠く離れていてもアルヴィスの危機を察知した例もある。
「あ……」
その時、ルトヴィスが親指を離した。咄嗟にエリナは寝室から離れる。出来るだけ物音を立てないようにと、自室からも出たところでルトヴィスの盛大な泣き声が響き渡った。
「おぎゃぁぁぁ」
「ルト、ごめんなさい。でも今は私と一緒にいましょう」
部屋から離れていくと、それだけルトヴィスの声も大きくなる。何を求めているのか。ルトヴィスと意思疎通ができないエリナでもわかった。でもそれは叶えることはできない望みなのだ。
エリナに断りを入れることなくアルヴィスが寝室に来た理由。それは己の意志とは関係なく連れてこられたから。日中は国王としての執務があり、帰ってきてもルトヴィスがアルヴィスを求めるため、アルヴィスは満足に寝ていない。満足に睡眠がとれなければ、疲労は蓄積されるだけ。それが解消されることはない。アルヴィスが倒れたであろう理由がそれであるかどうかはわからない。けれども今はアルヴィスを起こしたくなかった。
サロンまで戻ってきたところで、エリナはルトヴィスを抱えなおそうと足を止めた。すると――。
「ぎゃぁぁぁ」
「ルト……」
「代わるよ、エリナ」
「え⁉」
そこへひょいと現れたのは、先ほどまで寝入っていたはずのアルヴィスだった。驚いてエリナの動きも止まる。その隙にルトヴィスをエリナの腕から受け取ったアルヴィスは、ルトヴィスに顔を近づけるとその額同士をくっつける。
「ごめんな、ルト」
「おぎゃぁ……あぅ」
あれほど大きかった泣き声が徐々に小さくなっていく。泣き止んではいないけれど、それでもその変化はあからさまだった。自我がないはずの赤子。アルヴィスにだけ伝わる意思。特師医でもわからない二人だけにあるもの。本来ならば微笑ましいところなのだろう。何もなければエリナもそう感じ取っていた。
「アルヴィス様」
「気を遣わせて悪い」
「そのようなことはありません。起こしてしまって申し訳ありません……」
「それこそ気にしなくていいことだ」
「でも……」
気にしなくていいとアルヴィスは言うけれど、その言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。寝起きだからかアルヴィスの声は掠れていて、余計に疲労が増しているようにも見えていた。
「心配させて悪い。でも……これは俺の我儘みたいなものだから」
「我儘、ですか?」
「ルトに乳母をつけないことも、あいつの声に応じることも」
ルトヴィスは第一王子。本来ならばしかるべき立場の乳母をつけるのが相応しい。エリナもアルヴィスも痛いほど理解していること。それをしないと決めたのはアルヴィスで、エリナもそれに賛同した。だからこそエリナが王妃として行う公務は最小限にされ、その分をアルヴィスが担っている。
やれると言うのは簡単だけれど、実際にやってみると想像以上の忙しさだ。それでもエリナはアルヴィスの乳母であったナリスを始めとして、沢山の助けを借りながらルトヴィスの世話と公務を行っている。だがアルヴィスにそれはない。戴冠の儀とルトヴィスが生まれた時期が重なったのも大いに影響があるだろう。どちらかを選ばなければならないというのなら、アルヴィスが最優先にすべきは国王としての執務
だ。当然、アルヴィスも理解しているはず。確かにこれはアルヴィスの我儘が招いていることなのかもしれない。であるならばエリナがすべきことは何か。
エリナは胸に手を置き、深呼吸をする。そしてルトヴィスを抱き上げているアルヴィスの背後から抱きしめた。
「エリナ?」
「アルヴィス様のお気持ち、私も理解できないわけではありません。ルトの声に応えたいというのも、私もとても嬉しいと思っています。ですが……それでもアルヴィス様は私たちよりも優先すべきものがあるはずです」
「……」
アルヴィスは生後間もない頃から乳母を中心として育てられていた。ベルフィアス公爵夫妻がアルヴィスの傍にいることはほとんどなかったらしい。物心ついた頃にはエドワルドも傍にいて一人でいたわけではなかった。それでもどれだけ求めても両親に応えてもらえなかったという時期があったと、エリナはルトヴィスが生まれて共に過ごしている中でナリスから聞かされていた。
その上で推測する。もしかしたらアルヴィスは、そういった経験から己の子であるルトヴィスには応じたいと思っているのではないかと。どれだけ泣きわめいても、傍にいればアルヴィスは応えてくれる。既にルトヴィスもそう認識しているはずだ。それではいけない。エリナは抱きしめる腕に力を込めた。
「私もルトも、アルヴィス様に無理をしてほしいわけではありません。どうかご自身のお体のこと、もっと大事にしてくださいませ」




