1話
国王となった初日。アルヴィスが朝食を摂った後で向かったのは、国王の執務室だ。何度もここには来たことがある。今日からはここがアルヴィスの仕事場だ。
入って左側に置かれた本棚へとアルヴィスは視線を向けた。ここには長居することはそうそうなかったので、どこに何が置かれているかを意識することは少なかったが、それでも目に見えて違いがわかる。その棚の量が増えていた。王太子の執務室に置かれていたものも、こちらに移動させたのだろう。身に覚えのある背表紙が目に入った。アルヴィスは本棚の前まで歩を進めると、書物を手に取る。
「一日かけたとはいえ、後宮に執務室にと移動させるのは大変だっただろう」
「それが私たちの役割ですから」
背後から近づく気配にアルヴィスは振り返った。そこに立っているのはアンナだ。茶器をセットし終わったのか、端に配置してある二つのソファーの間、そのテーブルの上には既に湯気が立ったティーカップが用意されている。
「後程、ギルベルト様もこちらに顔を出すと仰っておりました」
「わかった」
室内にいるのはアルヴィスとアンナの二人。どこか緊張感を纏うアンナに、アルヴィスは苦笑した。
「そういった格好で、圧を掛けてくるのはお前だけだよな」
「……侍女に扮しているのは私だけではありませんが、堂々と貴方の前で姿をさらけ出しているのは私だけでしょうからね」
「そうか」
アンナ以外にも、己の姿を偽って王城に侍女として潜んでいる暗部の者たちがいる。専属であるアンナはともかくとして、それ以外の侍女がこうしてアルヴィスと二人で会話をすることはまずない。常に侍女と対する時は二人以上、専属以外の侍女がそもそも傍にいることは限られているけれども、警戒するに越したことはないのだから。
「改めて国王陛下にお目通りを」
「アンナ?」
「我らは影の者……全員が陛下の手駒です。どうかご存分にお使いください」
その場で膝を折り、頭を垂れる。王太子となってから、アンナだけはアルヴィスのその役割を伝えてくれていた。あくまで例外的なものであり、本来は国王となってから引き継ぐもの。昨日の戴冠式を終え、ようやく全員を引き継げる。そういう立場になった。アンナはそれを告げに来たのだろう。全員と言いながらも、その全員が姿を見せることはない。ただ天井上にある気配が複数動くのを感じた。アンナの言葉に同意したということなのだろうか。
「あくまで自分たちは影の者という意味か」
「はい。我らはあくまで駒、ですので」
顔を見せるのも最低限。誰がどういった役目をもって王城に潜んでいるのか。それを把握しているのは影の首領だけであり、アルヴィスが把握する必要はない。何らかの原因で怪我や命を落とすようなことが起きても、それをアルヴィスが知ることはないということだ。
「常に我らの誰かが傍におります。言わずとも気づくでしょうけれど」
「護衛か?」
「近衛隊士を常に引き連れているというわけではないでしょう。いつ何が起きるともわかりませんし、この時期は王城内の出入りも多くなります。そのため、と思っていてくだされば」
「わかった」
この時期……春頃は人の出入りが変わる時期だ。新たに王城へと来る者もいれば、配置換えとなる者も多い。外部からの人間が最も入る時期だった。王城の中にいる顔触れが変わるため、見知らぬ顔があったとしても疑われにくい。大きな事件などが起きるわけではないけれど、些細な諍いなどが多いのもこの時期だった。
戴冠式という大きな行事があったため、王城の警備はいつになく厳しいものとなっている。そういう意味では例年以上に王城内が緊張感を持っているので、不用意な行動をする者がいれば即座に捕まるだろうが。
「それでは私はこれで」
「あぁ」
暗部の人間としての空気を仕舞い立ち上がったアンナは、侍女として改めて頭を下げると執務室を出ていった。
手に持っていた書物を棚へと収めてから、アルヴィスはその反対側にある大きめの窓へと足を向ける。そこから見える景色へと目を向けた。目の前に広がるのは、王城の回廊、そして城壁。方角として王都の姿を眺めることができるはずだが、王太子の執務室よりは遠くに感じた。同じ高さにある建物は正面から見ることはない。外からの弓などの襲撃に備えてなのだろう。窓を開けて、アルヴィスはバルコニーとなっている外に出た。枠に手を掛けて下を望む。
「ここから飛び降りればすぐに見つかるな」
ここにエドワルドがいたら、呆れて怒ってしまうだろうことが想像できる。王太子だった頃の部屋からなら、窓から飛び降りればすぐに地面だった。何度かそれで下りたこともある。だが、ここからそれをやろうとすれば、間違いなく怒号が飛んでくる。
回廊の上には騎士たちが巡回している。国王の執務室近くだ。その目がなくなることはない。アルヴィスも騎士時代に巡回したことがあるので、どういうルートを巡るのか、時間の間隔がどれくらいなのかわかっていた。この場所が死角にされることはあってはならない。ここから人の目がなくなることはないのだと。
「そのようなこと、気になさるのはアルヴィス様くらいですよ」
「エド?」
「今戻りました」
背中に声を掛けてきたのはエドワルドだ。宰相と共に朝から帰路に就く客人たちの見送りにと出ていたはずだった。
戴冠式に出席した来賓、客人。見送りならばアルヴィスもと思ったが、今となってはアルヴィスはこの国の最高責任者でもある。見送りをする立場としては相応しくない。ゆえに今回はエドワルドと宰相にすべて一任した。それが完了したようだ。
「ご苦労だった。何事もなかったか?」
「はい、問題はありませんでした。ただ、帝国の皇太子殿下よりこれをお預かりしました」
「……手紙?」
「返事は不要とのことです」
そういってエドワルドが差し出したのは一枚の手紙だった。差出人はグレイズ、宛先はアルヴィスとなっている。訝し気に感じながらもアルヴィスは封を開き、手紙を取り出した。




