閑話 その理由とは
夕方、エリナはベッドで眠るルトヴィスを眺めながら小さく溜息を吐いた。この部屋はアルヴィスとエリナの寝室。サラ達侍女はおらず、ルトヴィスとエリナの二人だけだ。
ルトヴィスは王太子の第一子。王太子妃であるエリナにも公務があり、アルヴィスとて忙しくしている。当然、乳母を付けるものだと思われていたが、今現在ルトヴィスに乳母はいない。エリナの負担が増えることはアルヴィスとて理解しているものの、見知らぬ女性をこの宮に入れることをアルヴィスが受け入れなかった。ゆえに、ルトヴィスの世話をするのはエリナが中心となって行っている。例外中の例外であることは理解しているが、今は王都がせわしなく動いているため誰も気に留めることはない。祝い事が重なり、それどころではないと言った方がいい。
「今日もお帰りになられないのかしら……」
ここ数日、アルヴィスの顔を見ていない気がする。赤ん坊がいるとはいえ、ここにはアルヴィスの乳母だったナリスもおり、エリナも十分に休むことはできていた。休んでいるとどうしても考えてしまう。アルヴィスがどうしているのか。きちんと休めているのかと。
「ふぇ……」
「目が覚めたのね」
小さな声をあげたルトヴィスは、やがて顔をくしゃりとさせて泣き始める。まだまだ分からぬことも多いが、手慣れた様子でエリナはルトヴィスを抱き上げた。戴冠式の前には、エリナも公務に戻らなければならないだろう。だからこうしてかかりきりでいられるのもあと少しだ。その後は、どれだけ接することが出来るのか。
泣き止まないルトヴィスをあやしながら、エリナは寝室から自室を通り、回廊へと出た。小さな子のなき声だ。その声は既に侍女たちにも届いており、直ぐにナリスとサラが駆け付けてきてくれた。ルトヴィスのなき声を聞いて来たのかと思ったのだが、ナリスの表情がどこか焦りを見せているように感じ、エリナは首を傾げる。
「ナリスさん、どうかしたのですか?」
「妃殿下、アルヴィス様がお戻りになられるそうです。先ほど連絡が」
「アルヴィス様が⁉」
近衛隊士から連絡が来たという。ならばそろそろ王太子宮にも到着するだろう。そうして気づく。腕に抱いたルトヴィスを見ると、いつの間にかなき声は身を潜めて何かを求めるように手を伸ばしていた。やはりわかるのだろうか。その気配が。思わずエリナも頬が緩む。
「ではお迎えに行きましょうか、ルトヴィス」
その手にしっかりと抱えながら、エリナはゆっくりとエントランスへ向かった。ざわざわと声が聞こえてくる。既に帰ってきているのだろうか。エントランス内へと入れば、近衛隊士たちとエドワルドの姿が見える。その中心にはアルヴィスがいた。エリナが来たことに気づいたアルヴィスがこちらへと向かってくる。
「エリナ」
「お帰りなさいませ、アルヴィス様」
「ただいま」
そうエリナが微笑めば、アルヴィスはルトヴィスごとエリナを抱きしめてくれた。抱きしめ返せない代わりに、その胸にエリナは頭を預ける。すると、そっと額に口づけが落ちてきた。その刹那、ルトヴィスが突然大きな声をあげて泣き始める。驚いたエリナもアルヴィスも、パッと身体を離した。
「おぎゃぁ」
「どうしたの? ルト?」
両手足をバタバタさせて泣き出す赤ん坊。エリナは何とかなだめようとするも、なき声はより大きくなっていく。眠たいわけではないだろうし、ミルクの時間でもない。汗を掻いているわけでもなく、どこかが濡れているわけでもなさそうだ。では一体どうしたのか。
「エリナ、ルトをこっちに」
「アルヴィス様? はい……」
バタバタと暴れているルトヴィスをアルヴィスの腕へと渡す。その顔色を見ても疲れているのがわかるアルヴィスに甘えてしまうのは申し訳ないと思いつつ、ルトヴィスはアルヴィスに抱かれていると安心するのか泣き止むことが多いのもまた事実だ。
だがこの時はいつもと様子が違った。アルヴィスに抱かれても、ルトヴィスは泣き止まない。どうしたのだろうかと思うと、アルヴィスが困ったような顔で笑った。
「わかった……しばらく構ってやれなくて悪かったよ」
「アルヴィス様?」
どういう意味だろうか。エリナにはアルヴィスが話す意味が全くわからない。だがアルヴィスは泣いている理由に心当たりがあるらしい。そうしてルトヴィスへと顔を近づけると、泣いてぐちゃぐちゃな顔に唇を寄せた。すると、ルトヴィスは涙を引っ込め、それまでのなき声が嘘のように笑顔に変わった。
「あの、アルヴィス様?」
「少しだけマナを分けただけだ。たぶん、ルトは本能で俺のマナを感じ取っているんだろうな」
「そうなの、ですか……?」
「いなかったことに対しての怒り、みたいなもんだ」
アルヴィスはそう言って、エリナへとルトヴィスを預けた。エリナの腕に収まったルトヴィスは泣くことはない。安心しきったようにエリナの身体へと顔を摺り寄せてきている。なんとも不思議な光景だった。そのまま自室へ戻ろうとするアルヴィスへ、エリナは声を掛ける。
「あの」
「ん?」
「アルヴィス様は、この子が何を想っているのかお分かりになられるのですか?」
ルトヴィスが何を求めているのかがわかっている。まさかとは思うが、エリナは尋ねてみた。すると、アルヴィスは頬を掻きながら頷いた。
「なんとなくだがな。こいつは俺が読み取らなくても伝えてくるんだ」
「伝える、ですか?」
「あぁ。俺はマナを読み取り、そこにある情報を理解することができる。他人のマナを読むことも出来る。それがルトの場合は、俺がそうしなくとも伝えてくるんだ」
他人のマナを読み取る。マナには数多くの情報が含まれており、それを読み取ることがアルヴィスには可能だという。ルトヴィスの場合、アルヴィスが意図せずともそれを渡してくる。傍にいれば自然と伝わってくるのだと。
「そんなことが……」
「補足させていただきますが、そのような真似ができるのは、王太子殿下お一人であり、我々を含めて他の誰も同じ真似は出来ません」
そうディンが付け加えてくれた。エリナが知らないのではなく、アルヴィスだけしか出来ないことなのだと。当人のアルヴィスは肩を竦めるだけで、否定はしなかった。ということはアルヴィスだけが出来ることなのは事実ということだろう。
「だからこの子のこともわかるのですね」
「ズルをしているようになってすまない」
「そんなことありません。ただ、この子がアルヴィス様を求める理由がわかりました」
ルトヴィスはわかっているのだ。アルヴィスならば聞いてくれるのだと。言葉も話せないし、泣くことしか出来ない赤ん坊だ。明確な想いを伝えてきてくれるわけではないらしく、アルヴィスもなんとなく伝わるという程度らしい。それでもエリナやナリスたちが色々と悩みながら世話をしている様子を見ているからこそ、アルヴィスは自分がズルをしているようで申し訳ない気持ちにはなっているらしかった。
「なんか、悪い」
「アルヴィス様の所為じゃありませんから。でもスッキリしました」
エリナの言葉にナリスたちも頷いていた。彼女たちもアルヴィスにそういう力があることは知らなかったらしい。常に傍にいる自分たちよりもアルヴィスの方が懐いていることは、それだけが理由ではないだろう。無意識に感じ取っているのだ。そのマナの力は自分を守ってくれる存在だと。それでも、自分たちよりも理解しているというわけではなかったことに、安堵しているのは確かだった。




