閑話 戯れの時間
ツェリーエと再会したエリナ。元々アルヴィスはこの教会で、マルス神父とエリナを会わせるつもりだったらしい。そこにツェリーエがいたというのは、何という偶然だったのだろうか。意図せずにアルヴィスには昔の、我がままで高慢な子どもでしかなかったエリナのことを話してしまうこととなった。
「恥ずかしいです」
「そんなことはない。俺の方がよほど不甲斐ない姿を見せてばかりだし、エリナの幼い頃の話を聞けるのは嬉しいよ」
そもそもエリナがアルヴィスを知りたいと連れてきてもらった場所で、なぜかエリナの話になってしまった。巡りあわせとなってしまったものの、もしかするとアルヴィスもエリナのことを知りたいと思っていてくれたのだろうか。
「アルヴィス様も、私のことを知りたいと思ってくださっていたのですか?」
そう尋ねると、アルヴィスは頬を掻きながら頷いた。
「だがエリナはあまり思い出したくないだろう? 確かそれなりに幼い頃からあいつと婚約していただろうし」
「アルヴィス様……」
アルヴィスから昔話を尋ねられたことは多くない。深く尋ねれば、そこにはかならずかの人の姿が追随してくる。その通りだ。エリナはずっと婚約をしていた。王太子妃となるために、努力もしてきた。ツェリーエとの約束もあったけれど、エリナが努力してきた理由は王太子妃となるため。かの人の妻になるためだった。
良い思い出ではないとアルヴィスは思っていたのだろう。でも、アルヴィスがエリナのことを知りたいと思っていてくれたことが嬉しい。アルヴィスにはトラウマのような女性がいた。だから過去を尋ねることについて忌避しているのだと思っていた。だがそうではなく、ただエリナを気遣ってくれていただけだった。エリナはクスリと笑みを漏らす。
「実は、私……あの方とお会いしたのです。アルヴィス様がマラーナ王国に行ってしまわれた後で、偶然ではありますけれど」
「……そうか」
ほんの少しだけ顔を見た。王城の回廊ですれ違っただけ。あちらは顔を見られないようにと下を向いていたけれど、顔など見なくともわかる。金色の髪を持つ男児。アルヴィス以外で、王城にいるその色を持つ男児など国王を除けば彼しかいない。
『お元気そうでよかったです』
『っ……』
心からそう思った。だからそう告げた。反射的に上げられた顔には、驚愕という言葉がまさに示す通りの表情をしていた。エリナは彼に微笑み、それだけでその場を去った。胸も痛まなかったし、寂しいとも悲しいとも思わなかった。本当に何も感じなかったのだ。
「私は薄情なのかと思いました。アルヴィス様には以前にも申し上げておりましたけれど、直接お会いしたらもっと何かを想うものだとばかり」
「まぁ確かにエリナにしては辛辣な感じではあったな」
きっとアルヴィスも彼にエリナが抱く感情は、幼馴染が寄せるようなものだと思っていたかもしれない。だが他の人たちは、きっとエリナが彼に悲しみや憎しみに近い感情を持っていたと思っていたのだろう。極力、会わせないようにとしていてくれたような気がする。会えばまた傷つけられてしまうのではないかと。あの時のように、エリナを言葉という刃で攻撃してくるのではないかと。
実際に会った彼は、そのようなことはなく、むしろ怯えているようでもあった。当然だ。エリナは王太子妃。このルベリア王国では、国王、王太子、王妃に次いで力がある立場なのだから。逆に言えば、自らの立場を彼が理解しているということにもなる。だからこそエリナに話しかけることもなく、ただ道を譲った。顔を上げなかったのも、そういう意味だったのかもしれない。あれほどしおらしい態度など、以前の彼では考えられなかった。
「ですから、昔を思い出しても悲しいことや辛いことなんてありません。これまで私が努力してきたものは、今も私の中にあります。きっとアルヴィス様の隣に立つために、必要だったことなのです。今はそう思えますから」
「そうか」
「はい。あ、でも……あまり小さい頃の話題は聞かないでくださいね。私もその……ツェリがいた頃というのは特にお話するのは憚られるといいますか」
決して好きな相手に聞かせられるような内容ではない。アルヴィスならば笑っておしまいにしてしまうだろうが、エリナが恥ずかしい。受け入れてもらえるかという問題ではないのだ。
「うふふ、お嬢様は気位が高いネコのような感じでしたよ。元気があって、奥様のツボを割ったこともありましたね」
「ツ、ツェリっ⁉ そんなこと私しました⁉」
「覚えていらっしゃらないのですね。では――」
「アルヴィス様の前ですから、やめてくださいっ。恥ずかしいですっ!」
全く覚えていないことまで話されてはたまらない。アルヴィスの方を見れば、楽しそうに声を漏らして笑っていた。エリナは顔が火照っていくのがわかり、思わず両手で頬を抑える。
「うぅ……ツェリ酷いです」
「いいではありませんか。お嬢様のことが大切なら、幼い頃の武勇伝がどんなものであれ喜んでもらえると思いますよ」
「武勇、なんて私そこまで勇ましくありませんよ」
「あ、そうでしたね」
「もう、ツェリは」
ひとしきり笑われてしまったところで、エリナは深呼吸をする。まるで令嬢の頃に戻ってしまったように、はしゃいでしまった。
「申し訳ありません、マルス神父様」
「いえいえ構いません。私としても、アルヴィス様の奥方がこのように素直な方で安心していたところです。色々な表情を見せていただいて、ありがとうございます」
「いえ、そんな……」
お礼を言われるようなことではない。王太子妃がこんな様子で呆れられてしまったのではと思ったほどだ。だがマルス神父は首を横に振った。
「常に仮面を被り続けるというのは、想像以上に辛いものです。ここはただの辺鄙な教会ですから、堅苦しいことに囚われる必要はありませんよ」
「はい、神父様」
「ツェリーエがここまで本性を見せて話す相手ならば、貴女にはきっと裏も表もない。ありのまま、今の姿が貴女なのでしょう。そういった人間はなかなかいません」
エリナにそう告げたマルス神父はそのままアルヴィスへと視線を向けた。その様子にエリナは怪訝そうに首を傾げる。
「だからこそ、うまくいっているのでしょう? アルヴィス様」
「……」
「ですが貴方も、あの頃より裏を抱えていることはなくなったようですね。安心いたしましたよ」
「神父様、アルヴィス様?」
どこか含みのある言い回しに、エリナはアルヴィスを見上げた。アルヴィスはただ困ったように笑うだけだ。いつものように。そっとエリナの肩に手を置いたアルヴィスはマルス神父へと姿勢を正した。
「エリナのお陰です。だから、今の俺があります。随分と心配をかけたかと思いますが」
「構いませんよ。あの頃はアルヴィス様も、まだ庇護されるべき年齢でした。貴方は心を隠すのが上手でしたし、きっと公爵閣下もそこまで気づくことはなかったと思います」
「どうでしょうか。俺は知られていないつもりでしたが、知らないところで守られていたと気づくことも多かったので、父上はもしかしたら気づいていたかもしれません」
「……それだけ周りを見ることが出来るようになったのですね」
「俺は、あの頃もたくさんの人たちに見守られていました。貴方もその一人です。だから、ここにエリナを連れてきたんです。まさか、エリナと縁ある方と邂逅するとは思いませんでしたけれど」
「そうですね、それは嬉しい誤算でしたか」
「はい」
そうして頷きあうアルヴィスとマルス神父。やがてその視線が揃ってエリナへと向けられた。
「妃殿下、この場所はかつてアルヴィス様が逃げ場の一つとして使っていた場所なのです」
「そうだったのですね」
逃げ場の一つ。暴れるではなく、ただ一人になりたくて訪れていた場所らしい。屋敷では完全に一人になることはない。そんな時、夜遅くにアルヴィスはよく来ていたのだと。
「ここに来ていたこと、リティも知らない。教えたのはエリナだけだ」
「えっ」
「以前、学園でも夜に抜け出したって言ってただろ?」
「は、はい」
「学園に行く前は、それがここだったんだ」
「ハスワーク卿はそれを」
「……学園でのことも知らない」
知られたら説教どころではない、とアルヴィスは肩を落とした。アルヴィスからしてみれば絶対に知られてはならないことなのだろう。エドワルドに怒られるアルヴィスの姿が容易に想像つく。エドワルドにさえ秘密の時間のこと。それを、これまで誰にも言わずにいたことをエリナだけには教えてくれた。リティーヌでさえ知らないアルヴィスの秘密だ。その事実が嬉しかった。
「わかりました、絶対に秘密にしておきますね」




