17話
下山後、一泊してからアルヴィスたちは屋敷へと戻ってきた。
「おかえりなさいませ、アルヴィス様」
「ただいまエリナ」
いつものように出迎えてくれたエリナ。手を上げて応えると、エリナはじっとアルヴィスを見つめる。それは何かを探しているようだった。見覚えのある仕草に思わず苦笑してしまう。
「大丈夫だ。特に怪我も何もしていないから」
「本当ですか?」
エリナが真偽を尋ねたのはアルヴィスではなく、後ろに控えていたディンだった。自分が尋ねられるとは思わなかったのか、ディンは一瞬戸惑ったかのように返答に詰まっていたが、すぐに気を取り直して頷く。
「はい、妃殿下。ご心配には及びません」
「良かった」
「……お前信用ねぇな」
「レックス」
ディンの隣で笑うレックスに、アルヴィスは視線を向けた。ジト目で見られた当のレックスはそれさえもニヤニヤと笑うだけで全く意に介していないらしい。身に覚えがあるだけに、アルヴィスも否定は出来ない。見ればエリナも笑っていた。
今までにない和気あいあいとした雰囲気に、エリナもなんでもなかったのだと思ったのだろう。ほっと息をついているのが見えた。これまでアルヴィスが遠出すれば、何かしら起きていたのだから仕方がない。何事もなく、とまではいかないにしても、大きなことはなかった。むしろアルヴィスからしてみれば、気力を発散するいい機会を得ることが出来たので、不謹慎なことを言えば好都合だったと言える。
屋敷に入り軽く汗を流した後で、アルヴィスは客室でくつろいでいた。帰ってきたのは昼食後、まだまだ時間はあるが、この後の予定は入れていない。今回、公爵領へ来たのは視察の一環ではあるけれど、かなり余裕を持った日程を組んでいた。エリナの体調を考えて、というのもあるが、アルヴィス自身が領都を回りたかったからだ。王太子としてではなく、アルヴィス個人として。そこにエリナを連れていくかは決めていないが、おそらくエリナは同行したいと言い出すだろう。
そう思いながら、アルヴィスは領都の地図をなんとなく眺めていた。すると、サラと共にエリナが客室へ入ってくる。
「アルヴィス様、お茶にしませんか?」
「あぁ、ありがとう」
手際よく並べていくサラ。一方エリナはアルヴィスが座っていたソファーへと腰掛けてきた。その手には書物を持って。あまり見たことのない背表紙の書物だった。
「それは?」
「はい、これはその……ナリスさんが付けていた日記だそうです」
「日記? ナリスの……それをどうしてエリナが持っているんだ?」
「えっとその……あの、アルヴィス様の小さい頃のことが載っていて」
「……それを読んだ、のか?」
「はい」
そんなものが残っているとは思わなかった。いや、よくよく考えれば捨てられるものでもないだろう。一応ではなくとも、アルヴィスは公爵家次男であり王族の血を引くれっきとした王位継承者だったのだから。残されていても不思議はない。だがそれをどうしてエリナに見せるのだろうか。とは思ったが、ナリスであれば嬉々として見せる様子が浮かんできて、アルヴィスはがっくりと肩を落とした。
「あの……アルヴィス様の小さい頃を知れば、この子が生まれた時にも役に立つかもしれないとオクヴィアス様も仰られて、アルヴィス様はあまり嬉しくないとは思ったのですけれど」
「あーそういうこともあるのか」
ナリスが見せてくれた理由は、出産後のためだったらしい。言われてみればその通りだ。同じ人間ではないにしても、アルヴィスがどう育ったのかを知ることはエリナにとっても必要なことかもしれない。そういわれてしまえば、アルヴィスも受け入れるしかない。のだけれど、エリナにそれを知られることはあまり嬉しくはない。むしろやめてほしい部類に入る。ただ、エリナの手にある書物には栞らしきものがはさまれているので、既に大分読まれた後なのだろう。
「……できれば、俺の前では読まないでもらいたい」
これがアルヴィスに出来る譲歩だった。何が悲しくて大切な女性に、自分の幼少期の記録を見させられてしまうのか。せめてアルヴィスが知らないところで読んでもらえれば、多少は諦めもつく。するとエリナはクスクスと笑った。
「はい、わかりました」
「頼む」
エリナは書物から手を放して、テーブルの上へと置いた。ナリスが書いたという割には、分厚いそれにアルヴィスは少しだけナリスに申し訳なさを感じる。きっとナリスはアルヴィスのため、そして傍にいることが出来ないオクヴィアスのために、事細かに書いていたのだろうから。
「アルヴィス様?」
「いいや、何でもない」
そういってアルヴィスはサラが用意してくれたカップを手に取り、紅茶を一口含む。エリナも倣うようにテーブルへ手を伸ばしていた。そうして不在の間の、エリナの話を聞いていると、突然何かを思い出したかのように、エリナが両手を合わせた。
「そうだ、アルヴィス様。夕刻にでもお時間があれば、キアラ様がお話があると仰っていました」
「キアラが?」
「はい。聞いていただきたいことがあるのと、出かけたいところがあるので一緒に行ってもらいたいと」
公爵家に来てから、キアラとは別行動が多かった。キアラに何かをしてほしいとは思っていない。むしろリティーヌがしていたように、自由にさせていた。公爵家の人間はリティーヌで慣れているし、その妹だということもあって、キアラも屋敷の人間にも慣れて楽しく動いているようだったが。
「ミリアリア様とも仲良くなられたみたいで、一緒に行きたいところもあるようです」
「領都と言っても、ミリーもそんなに自由には外出できていないだろうしな。だが近衛と一緒なら、キアラだけなら問題ないとは思うんだが」
「詳しいことは私も聞いていません。ただ、ミリアリア様がアルヴィス様と一緒ならいけるのではとキアラ様にお伝えしたようでして」
「……なるほど。わかった、後で声をかけてみよう」
「はい、お願いします」




