19話
あれから二日が経過した。本来ならばルベリア王国へ向けて出立しているところだが、アルヴィスはまだマラーナ王国の王城に滞在していた。
マラーナ王国の宰相が亡くなった。国王が亡くなってから一か月も経過していない。この短い間に、トップとも言えるべき人間が相次いで亡くなったのだ。国の混乱は避けられない。唯一、この事態に当たるべき人間ともいうのが、王太子であるガリバースだ。だが、彼に政務能力はない。そういった教育を受けていたはずだが、近年はパーティーやお茶会を開くことにかまけて為政者として在ったことは一度たりともないという。
「全く、だからこそのこれというわけですか。中々抜け目のないお方だったようですね」
「えぇ」
アルヴィスはグレイズと共に、アンナに案内されて宰相の執務室へと来ていた。そこには、近年のマラーナ王国に関するありとあらゆる資料たちがある。瘴気の発生源の位置や被害状況も記されている。どういう状況に国民が置かれているのか、セリアン宰相は知っていたということだ。
「これだけの状況を知りながらも、何故彼は放置していたのでしょうね。やろうと思えば、その権力を使って民を守ることも出来たはずです」
「……守ることはできても根本的な解決にはならないから、という事かもしれません。マラーナ王国には、瘴気を浄化する手立てがないのですから」
「今更、聖国に助けを求めることもできずですか……本当に民を想うならば、帝国でもルベリア王国でも助けを求めるべきだったと思いますけれど」
グレイズの意見にアルヴィスも賛同する。何を最優先とすべきか。国民であるというならば、いかようにもやり方はあった。それを取らずに、セリアン宰相は亡ぶ道を選んだということになる。
本当にそうしなければならなかったのか。疑問は残ったままだ。ここにある資料が事実であるならば、沢山の事柄を知りながらも見て見ぬ振りしてきたということになる。どのような事情があろうと、宰相の地位に在る人間には許されない。
資料の束を見ては置くという作業を繰り返しながら、アルヴィスは傍に在る分厚い書物を手に取った。何気なく頁をパラパラと捲る。すると、ひらひらと中に挟んであっただろう紙が落ちた。床に落ちたそれを拾って確認する。そこに在ったものを見て、アルヴィスは何とも言えない気持ちになる。それは、セリアン宰相の若き姿と家族たちを描いた肖像画だった。
アルヴィスが知るセリアン宰相よりも数十年は若く見える。幸せそうな家族の姿。失われた過去の姿をセリアン宰相はずっと傍に置いていたのだろう。恐らくは忘れぬために。原因まではわからないが、それに王侯貴族が絡んでいたということだろう。
「セリアン宰相は滅ぼしたかったのでしょうね。いえ、正確にはこの国の王侯貴族を、かもしれませんが」
「アルヴィス殿?」
「既に彼はいません。全て憶測にすぎない。けれど、たぶん彼は許せなかった。王も、貴族たちも、そして己でさえも」
それはのうのうと生き続けたことに対してか。それとも守ることが出来なかったことに対してなのか。いや、その両方か。
「今更何を言おうとも全て後の祭りですけど」
「えぇ、それに宰相殿の後を引き継ぐのがガリバース殿では、どうなるか結果は見えているようなものです」
「それについてはどうすることも出来ませんから、我々は」
この場にグレイズとアルヴィスがいるのは、ただの確認のため。マラーナ王国がどういう責任の取り方をするのか。この後始末をどう決着つけるのか。グレイズはもちろん、アルヴィスにもその決定権はない。
「アルヴィス殿下、そろそろお戻りになりませんと、ディン殿からお説教を頂きますよ?」
「大袈裟な……」
これまで黙っていたアンナがようやく口を開いたと思ったら、催促の言葉だった。既にこの王城でアルヴィスたちに危害を加える人間はいない。まだ完全に復調していない近衛隊士たちを同行させるわけにもいかず、アルヴィスはアンナを護衛役として連れ歩いていた。当然、アルヴィスも帯剣した状態なので、万が一にも後れを取ることはないはずだ。それでも懸念されているのは、アルヴィスの左手に巻かれた包帯の所為だろう。
「その後、お怪我の方がいかがですか?」
グレイズもアルヴィスの左手を見て眉を寄せる。これは、セリアン宰相のナイフを掴んだ時のもの。咄嗟に掴んだナイフは、思いの外食い込んでいて深い傷跡となっていた。リヒトに薬を調合してもらい、処置は済んでいる。それでも左手全体が覆われているので、目立つことには変わらなかった。
「動かさなければ痛むこともありませんので、問題はありません。多少大袈裟に巻かれているだけです」
「アルヴィス殿は両利きだと伺いましたから、不自由はないと思います。それでも、貴方は一度湖に落とされています。今は何ともないと言っても、無理がたたることもあるでしょう。帰国の途も、無理に強行せずもう少し身体を休めてからでもいいのではと思いますよ」
グレイズがそう案ずるのは、アルヴィスたちが出立するのが明日だからだ。この国ですべきことは終わった。この後は国同士の話し合いとなる。その前に、アルヴィスは無事に国へ帰らなければならないのだ。ルベリア王国へは、今日の朝に早馬を出した。マラーナ王国を出立すると。
「国には知らせを出しました。これ以上帰国が遅れるのは避けたいですし、何より安心させなければならない人がいますから」
「そうですか。いえ、当然ですね。奥方も会うまでは安心できないでしょう」
早く帰って顔を見せなければならない。恐らく、いや間違いなくエリナに心配をかけていることだろう。予定を過ぎても報告ができていない。明後日にはエリナに伝わるはずだ。何がどこまでエリナに伝えられているかはわからない。国王が伏せていてくれているならば助かるが。
明日に発ったとしても、ルベリア王国内に入っても数日はかかる。馬で駆けて急ぎたいところだが、この左手ではそれができない。馬車での移動をするしかない。気持ちばかりが急いてしまう。
貴賓室に戻ったアルヴィスはディンからの説教を聞いた後で、寝室に入りそのままベッドに横になった。そして首からかけていたペンダントを取りだし、その手で握りしめる。
「……体調を崩していないと良いんだがな」
無理はしていないだろうか。そんなことばかりが頭をよぎる。
建国祭はアルヴィスが帰国する頃には終わっている。結局、間に合わなかった。アルヴィス不在の代理を任されているのはエリナだ。エリナならば問題なくこなせるとは思いつつも、やはり妊娠中であることが心配だ。恐らくリティーヌ辺りが無理しているようなら、強引にでも休ませていることだろうけれども、やはり顔を見ない事には安心できない。
グレイズは顔を見せなければ安心できないだろう、と言ったがそうではない。アルヴィスの顔を見せなければではなく、アルヴィスがエリナの顔を見たいのだ。




