10話
主人公復活です!
お待たせしました。
落とされた。アルヴィスがそう気が付いた時には、既にその中に在った。目的が何かは未だ定かではない。だが、結果としてアルヴィスが落とされたのだから、目的の中にアルヴィスの存在があったのだろう。考えることは出来るのに、身体が動かなかった。あの場で動けていたらどうするべきだったのかなど、今はわからない。
『アルヴィス様』
水の中にいるアルヴィスの目の前に、微笑むエリナの姿が見えた。水面は随分上に見える。その中に居て、エリナの紅の髪色が良く映えていた。王城を出てから数日、これほど長い間離れていたのは結婚してからは初めてのことだ。だからなのだろうか。焦がれるように手を伸ばしていた。
『私の想いはずっとお傍に』
(あぁ……わかっている。だから俺は、ここで終わるわけにはいかない……)
胸の中に温かいものを感じる。エリナから贈られたペンダント。そこに込められた祈りを決して違えてはならない。意識が闇に沈みながらも、アルヴィスはその手に何かを掴む。小さなそれは温かくて、どこか見覚えのあるような力だった。
『――』
何か声のようなものが届いた気がする。だがそれを認識する前に、アルヴィスの意識は完全に落ちてしまうのだった。
ふとアルヴィスは眩しい光を感じて、重たい瞼を開ける。
「…………」
何度か瞬きを繰り返し、漸く自分の置かれた状況を認識した。カーテンが引かれた一室の簡易なベッドに寝かされていたらしい。身体を起こすと、アルヴィスは自分の衣服が替えられていることに気づく。誰かが着替えさせてくれたのだろう。簡素なシャツ一枚とズボン。どれもアルヴィスのものではない。
そんな確認をしていると、ガチャリと扉が開く音が届いた。アルヴィスは入口へと顔を向ける。
「アルヴィス殿、お目覚めになられたのですね」
「……グレイズ殿?」
そこに立っていたのは、帝国皇太子のグレイズだった。上着を脱いではいるが、彼は正装のままだ。上着一枚ないだけで随分と印象は変わる。
「ご気分はいかがですか?」
「……いえ、特にこれということは」
「そうですか」
問うてきたグレイズの方がよほど疲労感が見える。長髪を後ろで一つに束ね、グレイズはベッドの傍に置いてあった椅子へと腰を下ろした。
「何が起きたかは覚えていますか?」
「えぇまぁ」
「私はアルヴィス殿のお蔭で、特に影響もありませんでした。アルヴィス殿は、どういう状況だったのですか?」
グレイズは唯一人、終始平常を保っていた。アルヴィスの隣席に座っていたが、宰相がグレイズに目を向けることはほとんどなかったこともあり、あまり食事には手を付けなかったらしい。可能ならばアルヴィスもそうしたかったのだが、あの状況ではどうすることも出来なかった。
疑惑を持っているとしても、ここは死者を弔うために用意された場である。断ることは出来なかった。それでも最後まで意識を持っていかれなかったのは、フォランから渡された薬のお蔭なのだろう。
「ずっと意識はありました。ですが身体は……四肢が絡みつくように自由が利かなかった。内に入ろうとする何かを抑えるだけで限界でした」
「そうでしたか」
あのような結果を招いてしまったことは失態だ。尤もディンらも同行していなかったあの状況では、どのような策を講じようとも身動きは取れなかっただろうけれども。
「アルヴィス殿、申し訳ありませんでした」
「グレイズ殿?」
「正気でありながら、私は目の前で落とされる貴方を見ていることしか出来ませんでした」
「あの場合は仕方ありません。それにあの場でグレイズ殿が庇う様子を見せていれば、きっと共倒れだったでしょうから」
同じように落とされていた可能性が高い。帝国の皇太子を害するとは思いたくないが、同じような立場であるアルヴィスを害そうとしたのだから、一人も二人も同じだと考えても不思議はない。グレイズは動かないことが正解だった。
「アルヴィス殿」
「問題はここから、ですね」
「えぇ。一夜は明けました。あの場でアルヴィス殿が救出されたことを宰相殿は知りません。ならば、何かしら動きがあるとも思うのですが……まだそれに対しての動きはないようです」
「……城がどうなっているかもわかりませんか?」
「……」
無言は肯定だ。だがここは王城からは目と鼻の先にある場所らしい。下手に移動すれば人目に映る。この場が宰相にバレるのは避けたい。となれば、簡単に身動きは取れない。そこでふとアルヴィスは素朴な疑問を抱く。
ここはマラーナ王国であり、アルヴィスはもとよりグレイズも訪問は初めてだと言っていた。ならば誰がここを用意したのか。そもそもアルヴィスはどうやってここに移されたのか。
「そうでした、その説明がまだでしたね」
グレイズは面白いおもちゃを見つけたように笑い出す。何かを思い出したらしい。じっと視線を向ければ、グレイズはゴホンと咳払いをする。
「申し訳ありません。なんとも奇妙な方でしたので……アルヴィス殿をあの湖の中から救い出したのは、ここの王太子であるガリバース殿です」
「…………は?」
ガリバース。その名は当然知っているし、あまり思い出したくはない人物だ。それでも、この状況で無事なのかどうかは気がかりだった。カリアンヌ王女がああいうことになってしまったのに加えて、今回の国葬にも顔を出さなかったからだ。まったく思いもしない方向からの登場に、アルヴィスは一瞬別人かと思った。
「グレイズ殿……ガリバース殿とは知己でしたか?」
「いいえ。ただうつけ者だという噂は知っておりました。確かに少々頭が弱い方だとは思いますが、とても素直な方ですね」
「そう、ですね」
他国の王太子に対する評価ではないが、否定するほどの情報も持っていない。だが、兄ならばきっとグレイズと似たような評価をするのだろう事は容易に想像できる。
「この場所は、元カリアンヌ王女の下女だった方の家とのことです。共に処されたと聞いています」
「……そういう繋がりでしたか」
カリアンヌ王女と共に。もしかしたら、昨年の建国祭で顔を合わせたことのある彼女かもしれない。失われたのが彼女だとしても、それを痛みに感じるのはお門違いだろう。そうなる未来が予測できていても、アルヴィスは彼女たちを救えはしないのだから。
「ここを知っているのは、そのガリバース殿と元近衛騎士団長だったというブラウという人物です。それ以外の方には、まだ知られていないと思います。ただ……」
「ただ?」
「その元団長殿が伝手を使ってなんとかルベリア側の誰かと接触すると言っていましたので、その後どうなったのかは気になるところですね」
「ルベリア側と……」
「そうですよ、殿下」
と、扉がノックもなく開けられる。そこにいたのは、黒髪の質素なワンピースを身に着けた女性と、疲れた顔をした男性だった。この場には殿下という敬称を付けられる人物は二人いる。だが、その視線は明らかにアルヴィスへと向けられていた。
「殿下……私のことをお忘れですか? 同行させていただいたのに?」
「お前……アンナ、か?」
「正解です。流石にこの格好ではわかりにくいでしょうが、そこはご了承ください。この方が身動きしやすいもので」
アンナ・フィール。アルヴィスの専属侍女の一人。黒髪はいつも後ろでまとめているのだが、目の前の彼女は真っ直ぐに下ろしたままで、後ろにはバレッタを付けている。普通の町娘にしか見えない。
アンナはベッドの傍まで来ると、そっとアルヴィスの手を取りその場で膝を突く。
「ご無事で何よりでした殿下。まずは御身を大事になさるようお願いします」
「あぁ、わかっている。心配させてすまない」
「いいえ、こうしてお姿を見ることが出来たのですから十分です」
普段から傍にいて世話をされる立場ではあるが、今のアンナには多少違和感を抱く。服装の問題なのか、それとも纏う雰囲気が違っているからなのか。
「ひとまず裏から殿下の無事は伝えるよう手配しました。マラーナから何か伝えられても、陛下らがそれを信じることはないでしょう。問題は王城内にいるレオイアドゥール卿たちです」
「そうだな……」
「殿下はどれだけ動き回れますか? 具体的には御身自らどれだけ自衛が出来るかを知りたいのですが」
そう問われてアルヴィスは己の体調を再度確認する。水の中に落とされた割には、熱が出たわけでもなく身体の気怠さなどもない。怪我もしておらず、宰相に盛られただろう例の効果も既に切れている。アルヴィスの愛剣も傍に在る。自衛の手段もあり体調も悪くないので、十分に動けると言えるだろう。
「大丈夫だ。普段通りに動ける」
「承知しました。では、私は王城内に侵入し状況を探ってまいります」
「アンナ一人でか?」
「お任せください。それも私の仕事ですから」
微笑みウインクをしたアンナに、アルヴィスはその意味を理解する。彼女がそういう存在だと。ならば十二分に任せられるだろう。
「わかった。頼む」
「お任せを。皇太子殿下、くれぐれも我が殿下からお離れにならぬようにお願いします」
「わかりましたよ」
その意味するところは、自衛が出来ないグレイズに勝手に動き回るなということか。どうしてグレイズの戦闘不得手を知っているのかは、この際聞く必要はないだろう。
「それでは元団長殿、ここはお願いします」
「了解した。お前さんも気を付けろよ」
「えぇもちろんです。それでは」
そう言うなり、アンナは窓から飛び降りていった。
「個性的な方ですね、アルヴィス殿」
「あはは……」
グレイズの評価に苦笑いしか出てこなかった。だが、これで一筋の道が見えたのは事実だ。任せきりは性に合わないが、それでも今は状況を知らなければ何も出来ない。
「リヒト……無謀な真似をしていないといいが」
王城に残されている友人。戻ってこないことで心配をかけているのは間違いない。大人しくしているといいのだが、それが叶わない望みだとこれまでの付き合いの中で理解している。無茶をしていなければいい。無事であればいい。今のアルヴィスに出来るのは願う事だけだった。




