20話
国王への報告を終えたアルヴィスは、執務室に戻ってくるとソファーへ座り一息ついていた。そのまま背中を預けたいのだが、傷に障るので出来ない。背中の怪我というのは、案外不便なものだ。
「殿下、今日はもう戻られた方が宜しいのではありませんか?」
「確認だけしたら戻る」
ここへ戻ることを告げれば、ディンは渋い顔をしていた。そのまま王太子宮へ戻ると思ったのだろう。そうしたいのはやまやまだが、予定より遅れての帰還。事前に知らせてはいるものの、戻ってきてからやろうと思っていた仕事もあるのだ。どのくらい余裕が残されているのか、確認だけでもしておきたい。
「全く、仕方ありません」
「すまない」
そうして見張られながらもアルヴィスは机の上の書類に目を通すこととした。椅子に座り、書類を分別していく。眺めていると、直ぐに対処しなければならないものもいくつか出てきた。署名をして、今後の方針を考える。悩むように腕を組むと、横からゴホンという咳払いが聞こえてきた。
「……確認だけ、ではなかったのですか?」
「悪い、これだけはやっておきたい」
「はぁ」
一つ書類を手にするたびに、アルヴィスの手が止まる。コレも性分なのか、見てしまえばやはり処理をしてしまいたくなる。何枚目かの書類を手に取ろうとしたところで、アルヴィスはその手を掴まれた。
「アルヴィス様」
「エド」
「……確認だけ、とおっしゃったと聞きました。一体何をなさっているので?」
この場にいないはずのエドワルドがここにいる。執務室に入ってきたことにも気づかなかったらしい。相当没頭していたのだろう。エドワルドの後ろでは、呆れたような怒ったような表情のディンがジッとアルヴィスを見ていた。
「帰還したばかりです。もうおやめ下さい。宮の方には伝えて参りましたので、直ぐに行きますよ」
「……わかったよ」
まだ続けたいとは思うが、これ以上続ければ無理やりでも帰らされてしまう。書類を片付けると、アルヴィスは立ち上がった。
「こちらの整理は私の方でやっておきます」
「なら急ぎのものだけ、あとで届けて欲しい」
「……全く仕方ありませんね。承知しました」
渋々と言った様子を隠すことなくエドワルドは、呆れたように首を振った。妥協できるのはここまでだ。そもそも予定より遅れて帰還となったのも、アルヴィスの自己責任のようなもの。それを執務に響かせることはしたくない。
アルヴィスの性格をわかっているエドワルドも、ここで無駄な問答をするつもりはないようだ。指示に従って書類の整理を始めるエドワルドにこの場を任せて、ディンと共にアルヴィスは宮へと戻っていった。
宮へ戻ると、そわそわした様子のエリナが立っていた。エドワルドからアルヴィスが直ぐに戻ることを聞いたからだろう。帰りを待っていたようだ。アルヴィスの姿を見ると、エリナはバッと居住まいを正して頭を下げた。
「アルヴィス様、お帰りなさいませ」
「ただいま。エリナも疲れているだろう。出迎えなくても良かったんだが」
「いいえ、私は大丈夫です。私よりもアルヴィス様の方が……その、お怪我は痛くありませんか?」
「今は問題ないよ」
「そうですか。良かったです」
安堵の息をついたエリナに、アルヴィスは手を差し伸べる。もう慣れたのか、エリナも戸惑うことなく手を重ねてきた。そのままエリナと共に、宮の中へと入る。
「夕食の準備は出来ていますが、直ぐに食べられますか?」
「そうだな」
「わかりました。では、サラ、イースラもお願い出来る?」
「承知いたしました」
近くに控えていたサラとイースラに指示を出せば、二人は頭を一度下げてから去っていった。サラは当然として、イースラとのやり取りも手慣れている様子。特にイースラたち公爵家から来た侍女たちとうまくやっていることを嬉しく感じる。
「アルヴィス様?」
「いや、何でもない」
怪訝そうな顔で見上げて来るエリナに、アルヴィスは笑いながら首を横に振った。
「一度着替えて来るから、先に行って待っていてくれ」
「はい。ではお待ちしています」
「あぁ」
「殿下、私は一度詰め所に戻りますが」
食事の後はどうするのか。それを聞いているのだろう。だが、今日は流石にもう宮から出るつもりはなかった。出ればエドワルドの怒号が飛んでくるのは間違いないが、疲労を感じていることも確かだったからだ。長時間の移動の後でもあるので、あまり無理に動くとまた体調を崩すこととなってしまうだろう。
「今日は戻っていい。明日にでも詰め所に顔を出すと、伝えておいてくれ」
「……承知しました。では本日は失礼いたします」
礼を取ってディンはアルヴィスに背を向けた。失礼するといったものの、ディンのことだ。警備などでまた宮に戻ってくるのだろう。予定通りであれば、夜勤の警備に入っていたはず。
「頑固なのはどっちだよ……」
視察に同行したことといい夜勤の日程といい、恐らく屋敷にも暫く帰っていないはずだ。そろそろ奥方から苦情が来るかもしれない。今回視察に同行した騎士たちの休暇予定は、早めに捻出する必要がありそうだ。特に既婚者たちに対して。
「まずは戻るか」
考えるのはあとだ。エリナを待たせているのだから。考え事をしながら部屋に戻れば、既に準備万端でナリスたちが待っていた。時折、アルヴィスの背中にかけて巻かれた包帯に悲しそうな表情を見せながらも、その件に触れて来ることはない。それが今のアルヴィスにはひどく申し訳がなかった。
「ナリス」
「はい」
「……何も話せなくてすまない」
「坊ちゃん」
手を止めたかと思うと、ナリスは上着をアルヴィスにかけてそのままやんわりと抱きしめてきた。
「ナリス?」
「そのお気持ちだけで十分です。ありがとうございます、アルヴィス様」
身体を離すとナリスは、ポンとアルヴィスの頭に手を乗せる。幼い頃のように頭を撫でて来る様子に、流石のアルヴィスもその手を掴んで止めさせた。
「子ども扱いは止めてくれ」
「うふふ。そうですね。これはもう妃殿下だけの特権でしょうか」
「いや別に……ってどういうことだ」
「妃殿下はアルヴィス様の御髪に触れるのがお好きなようですから」
確かに何度かエリナに撫でられたことはある。あれは、そういう意味だったのか。特段珍しい髪質でもないのだけれど。
「仲睦まじい様子だったと聞いております」
「っ……」
少しだけ顔が熱くなってくるのを感じて、アルヴィスは片手で顔を覆った。人前でされたというのならば、あの時か。フォルボード侯爵邸で寝てしまった時。侍女たちもいたが、半分諦めが入ってされるがままにしていたのを思い出す。そのまま再び寝てしまったのだから、言い訳のしようもなかった。
「さて妃殿下がおまちですよ?」
ニコニコと笑うナリスを思わずにらみつけたくなった。誰の所為で、困っていると思っているのだと。だが待たせているのは確かだ。この火照った顔をどうしたらよいのか。暫し考えるも結局アルヴィスは諦めて、そのままエリナの下へと向かうことになった。
少しだけ顔が赤いアルヴィスをみて、エリナが心配することになったのは言うまでもない。




