9話
アルヴィスはギュッと目の前にあるその身体を抱きしめた。肩から背中にかけて痛みを覚えるものの、それよりも大切なことがある。
「ア……アルヴィス、さま」
「君は無事、だな。ならばいい……っ」
「っ……」
そっと身体を離してエリナを見る。顔にも首にも傷はない。身に着けていたドレスは多少汚れてはいるが、それだけだった。怪我をしてなければドレスなどどうでもいい。エリナの無事を確認して、息を吐く。青白い顔をしているエリナを安全な場所へ連れて行ってやりたいが、今すぐには出来ない。痛みを押し殺しながらアルヴィスは、その姿を背中に隠すと誘拐犯である青年と面と向かい合った。
「……へぇ、今度は間に合っちゃったか。残念」
「トーグ……やはり君か」
「僕のこと覚えていたんだ。やっぱりそうだよね。うん、そうだ。忘れられるわけがないんだから」
ニタニタと笑う青年にアルヴィスは眉を寄せる。ヴェーダという名前を聞いた時からその予感はしていたのだ。もう九年前になる出来事だが、アルヴィスにとっては忘れたくとも忘れることのできなかった過去。その当事者の一人が今目の前にいる青年だ。
「でもね、そのお姫様を庇うのはよくないよ。せっかく思い知らせてあげようとしたのに、台無しじゃないか。お姫様にも死んでもらわないと」
トーグがお姫様と指すのはエリナのことだろう。そのエリナを殺すと言っている。到底無視できる発言ではない。アルヴィスは何も言わずに剣を鞘から抜くと、トーグへと剣先を向けた。
「……君が、俺を恨んでいるならばそれも仕方がないと思う。だがだとしても……彼女を手にかけることは許さない」
「ふぅん。僕を斬るっていうの?」
「彼女を誘拐した時点で、見逃すつもりは……ない」
剣を向けられても平然としているトーグ。いや、むしろ面白がっているようだ。知っている姿とは異なる様相を見せるトーグに、アルヴィスは寒気を感じていた。目の前の青年は、アルヴィスが知っているトーグという青年ではない。そんな気がするのだ。
「見逃すつもりはない、ね。ならアルヴィス……君が死ぬ? そうすれば姉さんのとこにも行けるし、きっと姉さんも喜んでくれる」
トーグは手に持っていたナイフをクルクルと回す。刃が赤く染まっているそれ。先ほどエリナを斬ろうとしたナイフだ。刃についているのはアルヴィスの血だろう。チラリと視線だけでエリナを見れば、顔色は真っ青のままだった。どうにかしてこの場を抑えなければならない。そしてエリナを安全な場所へ。アルヴィスは唇を噛み締める。最善の道がどこなのか。それを考えなければならない。
そんなアルヴィスの様子を見ていたためなのか、トーグはクルクルと回していた手を止めた。
「……そんなにその女が大事? 姉さんよりも?」
「……」
「姉さんを僕から奪っておいてさ。それはないんじゃない?」
「彼女と……シュリは関係ない」
確かにトーグから姉を奪ったのはアルヴィスの所為でもある。だがそれとこれとは話が違う。エリナは全く関係がないのだから。だがトーグはアルヴィスの言葉に目を伏せたかと思うと、肩を震わせた。
「ふっふっふ……関係ない。関係ないだって⁉ 笑わせるよ本当に」
笑いを堪えきれないといった風に声を上げながらトーグはナイフを握っていない方の手で顔を覆う。
「まぁいいや。ここで何を言っても無駄だってことだし。そもそも僕はその女がどうなろうとどうでもいい。ただ……アルヴィスを苦しませることが出来ればそれでいいんだ」
「お前は……⁉」
「まぁ、お前が死んでもそれはそれでいいかなっと」
そうして服の中に手を入れたトーグは口元をニヤリとさせながら取り出した何かを上へと放り投げた。
「くっ」
反射的にアルヴィスはその場から飛び上がり、放り投げられたそれへと剣を振るった。それが真っ二つに割れた刹那、それが爆発する。すぐ傍で爆発したため、アルヴィスはその爆風によってバランスを崩し、そのまま身体を床へと打ち付けられた。
「アルヴィス様っ⁉」
エリナが慌てて駆け寄る。その背に手を入れて抱き上げると、エリナの手に先ほど負った傷口から血が付いてしまう。
その間、爆発によって飛び散った火の粉が部屋に置いてあった木箱へと引火してしまった。火の手が上がり、ここへと煙が充満するのも時間の問題だ。
「あ……」
「ゴホッ」
「アルヴィスさま、アルヴィス様っ」
一瞬、打ち付けたことで意識が飛んでしまったアルヴィスだったが、目を開けると嫌でも置かれた状況を理解させられた。ただただ涙を流すエリナを見て、アルヴィスは気力を振り絞って身体を起こす。
「エリ、ナ」
「アルヴィスさま、わたくしは」
「もう、すぐ近衛も来る、はずだ」
近衛隊は直ぐ近くまで来ている。ここにいないのは、ひとえにトーグの仕業だった。この場所はある種の結界のようなものが施されており、アルヴィスしか立ち入れないようにされていた。守るための結界ではなく、獲物を呼び寄せるためのもの。如何にも彼らが使いそうな手である。
だが、近衛隊ならばそれも破って直に駆け付けて来るだろう。彼らの為にも、ここでエリナも、そして己も死ぬわけにはいかない。
「だから……俺を、信じて欲しい」
「っ」
安心させるように笑みを作って告げると、エリナはハッとしたように目を見開いた。次に己の目に浮かんだ涙を拭うと、不安そうだった表情から凛々しいそれへと変える。恐怖を隠すことは容易ではない。それでもエリナは己の恐怖心を抑えた。それを頼もしく思える。それでいいと、アルヴィスは頷いた。
「ありがとう。必ず、君を無事に――」
「いいえ、アルヴィス様。私よりもアルヴィス様の方を優先してください! 私などよりも」
アルヴィスの言葉を遮って告げられたのは、エリナとしてよりも王太子妃としての言葉だった。命に優先順位などない。アルヴィスからしてみれば大切な人であるエリナを第一に考えたいことだ。だが、同時にエリナの言葉が正しいこともわかっている。生きること。この時点でそれはアルヴィスに最も求められていることだ。
「エリナ」
「私は、アルヴィス様の妃ですから」
「そうか……そうだな」
背中を庇いながらゆっくりと立ち上がったアルヴィスは、手から落ちていた剣を再び手に取る。緩慢な動きではあるものの、茫然とした様子のトーグへと向き直った。集中するようにマナを練り上げると、自分とエリナの周囲に幕を張る。
「……なん、で」
「トーグ、俺は君を逃がすことは出来ない。拘束、させてもらう」
「僕を殺せば済む話だよ」
「……それが君の願いなんだろ? ならばそれを選択することは出来ない」
「だったらっ!」
トーグはそう叫ぶと地を蹴ってアルヴィスへと襲い掛かってくる。ナイフの切っ先が目指す先は心臓。アルヴィスは右手を前へと突き出すと、手の甲が熱くなるのを感じた。まるで力を貸すとでも言っているかのように。
「お前が死ねばいいんだ!」
感じるままにアルヴィスは前へとマナを放った。小さな力の結晶がトーグへとぶつけられる。
「なっ⁉ ぐっ」
勢いよく吹き飛ばされたトーグは壁へと叩き付けられる。その口からは血が流れ出していた。あふれ出す力をそのまま放ったためか、力加減が上手くできていないらしい。だが、今のアルヴィスの状態ではそれ以上の制御は出来そうにない。集中していなければ、直ぐに倒れてしまうだろう。せめて近衛が駆け付けるまでは耐えなければならないのだ。
トーグはクタリとしたまま微動だにしない。ならばこのまま近衛に引き渡せばいい。残る問題はこの部屋だけだった。
「……火を、消せるか」
「アルヴィス様?」
『……吾子が望むならば叶えましょう』
ズキン。
頭の中で声が届く。エリナの危機を知らせてくれた時の声だ。その痛みに顔をしかめてしまう。膝を突きたくなってしまう衝動を抑えるため、アルヴィスは口を噛む。多少血が出ても気にしてはいられない。今はそれよりもこの状況をどうするかが重要なのだから。
「頼む……」
『わかりました』
再び右手に力が集まる。どうやら刻まれた紋章が基点となっているらしい。膨大な力の流れを感じながら、アルヴィスは目を閉じて流れるまま身を任せた。暖かい風がアルヴィスを中心として流れていく。
「火が……消えて」
部屋の中の火が消えてゆく。鎮まり返った部屋。すると、そこへ大きな足音が聞こえてきた。
「殿下っ⁉」
ディンの声だ。そのことに安堵してしまったのか、アルヴィスは力が抜けていくのを感じ、そのまま倒れこんでしまった。どこかで、エリナの叫ぶ声を聞きながら。
誤字脱字報告いつもありがとうございます。
ここら辺の展開、勢いのまま書いているところが多く、誤字脱字が多いようで申し訳ありません。
報告をくださっている皆様へ感謝を!




