閑話 近づく怨
ここは倉庫のような場所。闇が近い時刻となった今では、少ない窓から差し込む光さえも届かない。それでも明かりを灯す気にもなれず、フードを被った青年は木箱に腰を掛けたまま天井を仰いでいた。そんな彼に近づくのは多少身なりの良い服装をした眼鏡の青年だ。
「どうやら、例の孤児院の女性は命拾いをしたそうです」
「へぇー、あれを毒だと気付いた人間がいたとは驚きだね」
驚きと言いながらも、さして興味もなさそうにケラケラ笑う青年。右足を木箱の上に立てて、その膝を抱えるようにして青年は目の前にいる眼鏡の青年を見た。女性が助かったということを聞いて、安堵しているようにも見える。
「それで、偽善者に助けられたってわけ?」
「いえそれが……あの司祭では手に負えず、通りがかった王太子が手を貸したそうで」
「ふぅん」
王太子殿下。その名を聞くと、青年は口の端を上げた。
「やっぱり変わってないんだね。平民には変わらずお優しいところは」
クックックと喉を鳴らすように笑う。これを笑わずにはいられないと言った風に。王太子殿下が誰なのか。それはもうルベリア王国では知らぬ者はいない。それは青年にとっても同様だ。
「トーグ、貴方は今でも姉君のことを――」
「僕がなんだって?」
「あ、いえ……」
顔は笑っているのに、その声色は一段低くなった。思わずたじろいだ眼鏡の青年は一歩後ずさる。
「まぁいいや。僕はただ許せないだけだよ。姉さんを忘れようとしているあいつを。だってそうだろ? 姉さんはあいつの為に命を落とした。なら、それを一生引き摺ってもらわないとね。じゃないと、姉さんは本当に死んでしまうんだから」
「……」
「孤児院の女、あいつに懸想したりしないかな。そうすれば、同じことを繰り返してやれるんだけど」
腕を組みながら考える素振りを見せるトーグと呼ばれた青年。端から見れば、楽しいことを考えているようにしか見えないのだが、眼鏡の青年の背中には冷や汗が流れていた。トーグという人物を知っているからこそわかる。彼がどういったことを考えているのか。
「無関係の人をこれ以上巻き込むのは、貴方も本意ではないのではありませんか?」
「無関係? 誰が? あの女が? だから何?」
「何って……」
「どのみちあいつが居なかったら死んでいた。ならいなくなっても大して困らないよ」
トーグは嘘を言わない。言葉にするということは、本心である。いなくなっても困らない。つまりは、女性を亡き者とするため言葉通りに実行するであろうことは間違いなかった。それを痛いほどに理解しているのか、眼鏡の青年はぎゅっと口を切り結ぶ。その様子にトーグは面白くなさそうに眉を寄せた。
「ねぇ、ノルド。君は誰の部下?」
「トーグ、です。ですが、流石に王太子を相手にすることはリスクが大きすぎます」
「ばれたらこっちが殺されるって?」
「その通りです」
「別にいいけど?」
何でもない風にトーグが言えば、眼鏡の青年ノルドは肩を落とした。
「貴方は……」
「姉さんがいないこの世界に未練なんてない。それにさ、僕が殺されるってことはあいつはきっと自分を責めてくれる。僕を殺したことを。あいつに関わった所為だって。ならそう簡単に姉さんのことを忘れることはない」
「本当に、狂っていますね」
「そう? それはいいね」
あはははとトーグは声を上げて笑う。こんな風に笑うのは久しぶりだ。
トーグがこの組織に属してから十数年が経つ。組織自体を掌握してからは二、三年だ。元は姉の仇でもあった組織。仇を討った後、組織は解散するかと思った。だが、行き場のない者たちによって再編され今の組織がある。今となってはただの快楽主義者の集まりになりつつある。その中でノルドだけは良識人となってストッパーになってくれているのだが。
姉を失ってから生きることを望んでいなかったトーグにとって、何をしようが興味は持てなかった。孤児院の女性を狙ったのも依頼があったからだが、結果はどっちに転んでもよかった。トーグたちは毒を渡しただけ。それを使うかどうかは依頼者次第。結果を聞いたのもただの気まぐれに過ぎない。ただ朗報だったのは、それにアルヴィスが関わったということだ。気まぐれもたまには役に立つ。そんな風に考えていると、ふとトーグは思い出す。
現在、この街には王太子夫妻が滞在している。夫妻ということは、アルヴィスの妻が来ているということになる。ニヤリと口が笑うのをトーグは抑えられなかった。
「そうだ。あいつは結婚しているんだったね。なら、その女に消えてもらえばいい。うん、その方が面白そうだ」
「面白いって、難易度が高すぎます」
「そうかな? ならあいつ自身を狙う? こっちにはそれなりに経験もあるし、なんなら僕が直々に襲ってもいいなぁ」
新しいおもちゃを見つけたようにトーグの目は輝いていた。懐にあるナイフを取り出すと、くるくると回す。戦闘技術はそれなりに仕込まれている。王太子ともなれば、周囲の護衛たちもいることだろう。それが何人なのか。先日見かけた程度では、数人だった。こちらは傷が付いても殺されても構わない。捨て身で仕掛けてもいいのだ。その意識で行けば、アルヴィスまで手は届くだろう。斬りつけられても怯まない自信はある。
「そっちもわくわくするけど、やっぱり女を狙った方があいつを傷付けるのにはいいかな。姉さんもきっとその方が喜んでくれると思うし。ねぇノルドはどう思う?」
「止めるというのは?」
「うん、なし」
即答する。このような機会は二度と訪れない気がする。それに何よりもトーグ自身の気持ちの高ぶりは抑えられないとこまで来ているのだ。
「……リスクが少ない方でお願いします」
「つまらないことを言うなぁ」
いつも誤字脱字報告ありがとうございます!!




