ヒロインと現実
第二部開始します。
これからもよろしくお願いします!
暗く狭い一室。硬い椅子に座りながら、リリアンは茫然とただ鉄格子が嵌められた窓から外を眺めていた。やがて、その瞳からは涙が流れ出す。
「何で……こうなっちゃったんだろう」
問いかけても答えてくれる人はいない。ここに、否この世界に。リリアンは独りだった。思い描いていたことは全て否定されてしまった。そして現実をリリアンは知ってしまったのだ。
事の発端は数時間前、ある人物がリリアンを訪ねてきたことだった。
下女としていつまでこうしていなければならないのか。リリアンはただただ目の前にあることをこなすだけ。終わりが見えない日々に、リリアンの心は折れかけていた。その時、リリアンを監視していた女性から声を掛けられる。特別なことがない限り、リリアンに声を掛ける人はいない。誰とも会話をすることがない日々は、リリアンを一層孤独にしていた。それが悪意ある言葉でも、ただの義務であっても誰からか声を掛けられること自体がリリアンには嬉しく思えた。決して名前を呼んではもらえないが、それだけ参っていたのだと今ならわかる。
通された場所は、今までにない豪華な場所だった。この場所がどこかわからないようにか、リリアンはここに来るまで目隠しをされて通されたので、この部屋がどこにあるものなのかはわからない。それでも、歩かされた距離からリリアンの知らない場所であることは間違いないだろう。椅子に座らされると、リリアンは黙ったまま身を固くする。一体これから何が起こるのか。これまでのされた仕打ちを思えば、どれほど無知であろうとも恐怖を感じる。捕らえられてからこれまで、リリアンは優しくされたことは一度たりともない。半年以上もの間、そういう扱いをされたのだ。否でも理解せざるを得ない。
(私は、ヒロインで……ただ愛されたかっただけなのに……)
ぎゅっと膝の上に置いた拳を握りしめる。ここはゲームの世界。みんな自分のために存在している。そう思っていたのに。
そう考えていると、ガチャリと扉が開く音が聞こえた。勝手に顔を上げてはまた叩かれる。そう思いリリアンは顔を上げずにずっと下を向いていた。テーブルを挟んで反対側に誰かが腰掛ける音がする。するとリリアンの視線の端に、スカートの裾が映った。
「え……」
「お久しぶりです。リリアンさん」
名を呼ばれてリリアンは反射的に顔を上げてしまった。そして、相手の顔を見て驚愕する。紅の髪。青い瞳。リリアンの記憶にも強く残っている彼女の姿を忘れるはずがない。咄嗟に出てきてしまったのは困惑だった。
「どう、して……」
なぜ、悪役令嬢であるエリナがここにいるのだろう。なぜ、エリナがこの場にいるのか。彼女はジラルドに断罪された。それもリリアンの目の前で。リリアンを嫌っていたはずの彼女が、どうして今目の前にいるのか。リリアンが憎くて仕方ないはずなのに。
否、違うのかもしれない。エリナはアルヴィスの婚約者となった。彼女は冤罪で糾弾されただけで、王太子妃となる未来は変わってない。王太子妃となったのだから、リリアンを恨む必要さえないということなのだろう。そう考えると、リリアンはエリナが憎くて仕方なくなってきた。
ヒロインであるリリアンは拘束され、苦しい思いをしている。なのになぜ悪役令嬢であるエリナは幸せそうにしているのか。本当ならばそこはリリアンの場所だったはずだ。エリナはリリアンの居場所を奪ったのだ。キッとエリナを睨みつけるリリアン。だが、エリナは気分を害した様子もなかった。その態度も気に入らない。リリアンはその場で勢いよく立ち上がると、そのままエリナに掴みかかろうと手を振り上げた。
しかし、その手は振り上げたまま強い力で掴まれてしまう。背後にいた近衛兵によって。
「痛っ!」
「フィラリータ様、お手を離して差し上げてください」
「妃殿下に危害を加えようとした者を野放しにするわけには参りません。何かあれば、王太子殿下の評価にも繋がります」
「ではせめて彼女を座らせてください」
「その程度ならば」
フィラリータと呼ばれた近衛兵。聞き覚えのある名前に、思わずリリアンは振り返った。だが、リリアンの記憶にあるフィラリータとは違うような気がする。そもそもリリアンの知るフィラリータは騎士団員であり、近衛隊所属ではなかった。ゲームとは違う。そんな風に言われているみたいで、リリアンは勢いよく首を横に振る。
「何で、どうしてっ! 違うのにっ! 私がヒロインなのに、どうしてみんな違うのよ‼」
「……」
「エリナも、フィラリータも。なんで。なんで私が知らない人になってるの! なんで……私がこんな目に、遭わなくてはいけないのよ……」
足に力が入らないまま、リリアンは床に崩れ落ちた。放って置かれた半年。陰口でリリアンの死を望む言葉も聞いた。辛辣な言葉もたくさん届いた。そのどれもがリリアンには受け入れ難いもので、もうどうしていいかもわからなかった。
「リリアンさんは、ご存じでしょうか」
「え?」
顔を上げてエリナを見ると、彼女はじっとリリアンを見据えていた。その視線には、侮蔑の色はない。ゲームの中でも見たことのない表情に、リリアンはただただ見返すことしかできない。
「貴女が起こしたこと。その結果、関わった人達がどうなったのかを」
それはジラルドたちのことだろう。ジラルドは廃嫡され、幽閉されている。他の人は、それぞれ身分を剥奪され平民となったと聞かされている。だから、リリアンはただ頷いた。
「それはアルヴィス様のこともご存じ、ということでしょうか」
「アル、ヴィス……?」
何を言っているのだろうとリリアンは思った。アルヴィスとは牢屋での会合が初めてだった。あれが初対面なのだから、リリアンは何もしていない。だが、リリアンの様子にエリナが初めて負の感情を見せた。呆れたような、心底憐れむような表情へと変えたのだ。
「どういう、こと?」
声が震えた。リリアンがしたことといえば、エリナに冤罪を被せたこと。ジラルドたちと恋愛を楽しんだこと。修道院を抜け出したのは、罪だと理解している。だが、ただ脱走しただけでそれ以外は結局何も出来ずに終わった。こうして捕らえられているのだから、それ以降は何をすることも出来ない。だから、リリアンはエリナが表情を変えた意味について心当たりが全くなかった。
「……リリアンさん、貴女は間接的にではありますがアルヴィス様の身を害したのです」
「な、何を言って……私はそんなこと」
そんなことしていない。だって、リリアンが望んだのはただヒロインのように愛されたくて。そのためにアルヴィスに近づこうと思った。けれど、その前に捕らえられた。害することなんて考えたこともない。今のアルヴィスは王太子だ。その身がどれだけ大切かは、リリアンでもわかる。
「間接的に、と申し上げました。リリアンさんが修道院を脱走したことから始まったこと。貴女が修道院を出なければアルヴィス様が怪我をすることもなかったかもしれません」
エリナの話にリリアンは混乱していた。アルヴィスが怪我をした。そんなこと知らない。だって、リリアンはそんなつもりはなかった。加えて、アルヴィスを狙った人は既に死んでいるという。死んでいる。誰が。リリアンのせいで。
「そんな、私……そんなつもりじゃ……ただ違うって、そう思って」
修道院で過ごす日々はヒロインに相応しくない。こんなバッドエンドのような場所で一生を過ごすなんてありえない。だから抜け出した。それが悪いことだなんて、頭のどこかではわかっていた。けれど、この世界はゲームの世界だ。リリアンならばそれが許される。だってヒロインだから。どんなことをしても幸せになれるはず。いや、そうでなければいけない。
「貴女が抜け出した修道院の警護担当者も、その任を解かれ責任を感じてこの世を去りました。いえ、彼だけではありません。他にも――」
「違う……ちがう……わたしの、せいじゃ……」
リリアンは首をひたすら横に振った。そんなつもりはなかった。だってちょっと抜け出しただけだ。なのに、その人は死んだというのか。リリアンが起こした行動によって。
「わたしが……ころ、した、の? わた、しのせいで……」
ゾクリとリリアンは首にある拘束具に触れた。思い出すのは、アルヴィスに向けられた剣先。その冷たさ。殺されると思った。恐怖を感じた。アルヴィスはリリアンを簡単に殺せるのだと。
リリアンの知っている世界では簡単に殺されることなどない。責任を取らされたからといって、それは直接死には繋がらない。だが、この世界は違う。この世界では命はそれほど重くない。簡単に散らされてしまう世界だ。ここにリセットボタンはない。当たり前だ。ここはゲームではないのだから。
そこでプツリとリリアンの意識は途絶えてしまった。
★☆★☆★
倒れてしまったリリアンを見て、エリナは深いため息を吐いた。
「妃殿下、大丈夫ですか?」
「えぇ」
倒れてしまったリリアンは騎士団員が運んでいく。憔悴しきった様子に、これでリリアンは現実を受け止めてくれればいいと思ってしまう。
先ほどリリアンに話した内容は、エリナもつい最近知ったことだ。それは去年のアルヴィスの生誕祭でのこと。王家の人間となったということで、エリナはアルヴィスから漸く詳細を聞くことが出来た。アルヴィスを負傷させた犯人はどうなったのか。そして、そこにリリアンが関係していることもそこで知ったのだった。
そこでエリナはリリアンに会わせてほしいとアルヴィスに頼んだ。彼はエリナとリリアンを会わせることには反対だったようだが、今のエリナは王太子妃である。少しでもアルヴィスが抱えるものを共有したい。それに、エリナには必要だった。リリアンの今を知ることが。最終的には、近衛隊長であるルークにアルヴィスが諭される形でリリアンとの面会が実現したのだが、実際に会うと想像以上だったことにエリナは驚きを隠せなかった。
「これでよかったのでしょうか」
リリアンの状態は酷いものだった。自分をヒロインと呼ぶ。それはまるでリリアンは物語の世界にいるかのようだった。事前に話は聞いていたものの、リリアンの様子はどこか不安定にも映る。学園で堂々とジラルドらの傍にいた姿からは、考えられないものだった。
出来ればリリアンには、己の犯したことをきちんと理解してほしい。既に貴族籍から抜けてはいるので、男爵家には戻れない。だが、罪を償うことは出来るはずだ。可能ならば、彼女にはそうして生きていってほしい。甘いと言われるだろうが、彼女がいなければエリナは言われるがままの人生を歩んでいた。他にも、リリアンの件があったからこそ新しい道を歩んでいる友人もいる。全てをリリアンだけのせいにするつもりはないのだ。
しかしそれは、あくまで学園での件である。こと、生誕祭で起きたことについてはエリナがどうこう言える立場ではない。王太子暗殺未遂なのだから。だからこそ、リリアンにはちゃんと罪を認識してもらいたい。何もわからないままではなく、何をしたのか。きちんと知ってほしい。
最後の様子から、多少は理解してもらえたのだといいのだが。希望的観測であってもそう思わずにはいられない。
「それでも、私は彼女に生きていてほしいのです。たとえそれが短い期間だとしても。罪を理解した上で生きてほしい」
「……彼女にとっては死んだ方がマシかもしれませんよ?」
「そう、かもしれませんね」




