閑話 妃の護衛への
少し遅い昼食を摂ったアルヴィスは、食後の紅茶を飲んでいた。食事の邪魔をしないようにとエリナは、再び刺繍を始めている。まだまだ完成には遠いものだが、こうして手元を動かしているだけでもエリナは楽しい。今はアルヴィスがそばにいるので夢中になりすぎないようにと、気を付けていた。
その時。ふと視線を感じて顔を上げてみると、アルヴィスが微笑ましそうにエリナを見ていることに気づく。その顔がとても優し気なもので、エリナは顔に熱が溜まっていくのを感じてしまう。
「……アルヴィス様じっと見られますと、流石に少し恥ずかしいです」
「すまない。そこまで見ていたつもりはなかったんだ」
言葉では謝罪しているものの、アルヴィスは口元を緩ませており、悪いとは思っていないようだった。こうしたリラックスしたような様相を見せてくれることに、エリナは己惚れてもいいのかと思ってしまう。
結婚式を挙げて、エリナはアルヴィスと夫婦となった。だが夫と妻ではなく、王太子とその妃。アルヴィスには変わらず公務があり、エリナにも王太子妃の公務が与えられることとなる。今は、婚姻を結んだばかりでもあり、エリナが王太子宮から出ることはない。実際は、専属護衛がいないために宮から出ることはできなかったらしい。
それが決まったと、先ほどアルヴィスから伝えられた。その護衛は先日同行していた女性騎士の二人だという。一人はフィラリータ。もう一人は、ミューゼ・アービーという女性。平民出身だというミューゼのことはほとんど知らないが、フィラリータについてはエリナも知っている。全く知らない相手よりは、ありがたいというのが本音だ。
気になるのは、フィラリータはアルヴィスと知己であるということ。学園在籍時の同級生であり、剣を交えた相手でもある。エリナは剣を扱うことはできないし戦うことが不得手であるため、フィラリータの剣に対する想いは理解できなかった。だが、おそらくアルヴィスは違うのだろう。騎士として戦ってきたアルヴィス。立太子後も近衛隊の訓練所にて、鍛錬を行っている。
エリナよりも早く目覚めるアルヴィスは、朝の早い時間に鍛錬をしていた。前もって伝えられてはいたが、アルヴィスは一体いつから起きているのかと不思議にも思う。確実にエリナよりも遅く寝ているはずだ。
アルヴィス曰く、習慣になっているため苦ではないとのこと。むしろ近衛隊にいた頃よりは、ゆっくり休めているという。王太子という立場にあるアルヴィスが鍛錬をする必要はないのだが、それでも鍛錬をするのは本当に好きだからなのだろう。フィラリータと同じで。
「アルヴィス様、そろそろ戻られませんと」
「そうだな」
壁側に控えていたエドワルドがアルヴィスへと声をかける。元々アルヴィスが宮へ戻ってくる予定ではなかった。まだ仕事が終わっていないのも当然だ。立ち上がったアルヴィスが脱いであった上着を羽織ると、エリナも作成途中だった刺繍をやめて、アルヴィスを見送ろうと立ち上がる。
宮のエントランスまで来ると、アルヴィスは少しだけ眉を寄せて何かを考えている素振りを見せていた。
「どうかされたのですか?」
「あ、いや……言いにくいんだが、伝えておかなければならないことがあるんだ」
「……何でしょうか?」
言いにくいこと。エリナにとっては悪いニュースだということだろう。だが、ここで聞かないという選択肢は存在しない。アルヴィスが伝えてくれるというのならば、どのようなことでもエリナは耳を傾けるつもりだ。姿勢を正して、アルヴィスの言葉を待った。
「アムール、いやアムール侯爵家なんだが」
「フィラリータ様のご実家ですね」
「エリナも聞いているかもしれないが、アムールと俺は学園では同級生だった。個人的な関わりはないが、それでも同じ時に学園にいて何度も剣を交えたことのある相手だ」
学園でのことはフィラリータからも聞いている話だ。だが、ここで重要なのは学園の講義の中だとしても、アルヴィスとフィラリータが接したことがあるという事実なのだろう。エリナはここまで言われて、アルヴィスが言いたいことが何となく理解できた。つまりは、アルヴィスの側妃にフィラリータを据えたいという考えを持つ者がいるということなのだ。
「フィラリータ様が……」
「エリナはどう聞いているかは知らないが、あいつは俺を嫌っている。彼女自身のためにも、避けようとは思っているが動きが出る前にエリナには伝えておこうと思ったんだ」
「わかりました」
護衛であろうとも、エリナの傍にフィラリータがいることで要らぬ詮索も入ることが考えられる。とはいえ、アルヴィスは結婚をしたばかり。すぐに動きが出る話ではないが、念のため伝えておきたかったということらしい。
「……君が嫌な思いをするというのなら、アムールを外すこともできる。彼女の力ならば、ここで近衛に昇進せずともいずれは上がってくることだろうしな」
「アルヴィス様は、フィラリータ様を信頼されているのですね」
王太子妃の護衛は間違いなく昇進。それをせずともフィラリータならば上に行けるという。それはアルヴィスがフィラリータを認めているからに他ならない。エリナが尋ねると、アルヴィスは真剣な表情で口を開いた。
「アムールは向上心の塊のような奴だ。久しぶりに剣を交えたが、強くなっていたよ。あの頃とは比べ物にならないくらいに」
嬉しそうに口元を緩めるアルヴィスに、エリナの心はざわめく。それがフィラリータに対してではなく、剣に対してだとわかってはいる。それでも、どこかでフィラリータを羨ましいとも思うのだ。
「それに、アムールならエリナを守ってくれる。少なくとも現状に満足しているような奴には任せられない。その点はアービーも同じだ。だから、彼女たちにエリナを任せたいと思う」
現時点の実力も当然だが、将来性も鑑みて二人に決めたのだという。そこに政治的な思惑が絡んでくることはアルヴィスの本意ではないのだろう。面倒を避けるならば、フィラリータを外すこともできる。それをしないのは、彼女たちを信頼しているから。エリナを任せられる相手だと。
少しだけ嫉妬を抱いてしまったエリナは、アルヴィスに申し訳なくなってしまった。
「申し訳ありません。私のためですのに……少しだけ、フィラリータ様を羨んでしまいました」
「アムールを?」
「フィラリータ様はアルヴィス様を追いかけて騎士になられたと聞きました。アルヴィス様もフィラリータ様を認めていらっしゃいましたので……」
エリナの言葉に、アルヴィスは目を丸くしていた。驚いている風に見える。もしかして、アルヴィスは知らなかったのだろうか。フィラリータがアルヴィスを追って、騎士団に入団したということを。
「あいつが俺を追って? それは少し飛躍しすぎだと思うが」
そう言って苦笑するアルヴィスに、エリナはこれ以上伝えるのを止める。アルヴィスが知らないのであれば、伝えるべきはエリナではない。フィラリータ本人だろう。
「あと……別に羨む必要はない」
「え?」
アルヴィスは右手を上げると、そのままエリナの頭を己の胸元へと抱き寄せる。
「伯父上が何を言うかはわからない。だが、少なくとも俺が望むのは君だけだ」
「はい」
「それに、たまに嫉妬されるのも悪くはない」
「アルヴィス様ったら」
そっと身体を離すと、エリナはアルヴィスと顔を見合わせて笑い合った。




