第一話 魔獣
「敵は本能寺にあり」
千五百八十二年、天正十年六月、毛利を攻めるために中国地方に向かうはずだった明智光秀は踵を返し、京都にいる主君織田信長に襲い掛かった。
「是非なし」
僅かな供回りしか従えてなかった信長は奮戦したが及ばず、燃え盛る本能寺の火の中に身を委ねた。戦の後、光秀は信長の遺体を必死で探した。しかし、遺体は、忽然と消え失せ、決して見つかる事はなかった。
信長は死んだが、彼が目指した天下の静謐(世の中を穏やかに治める事)はほぼ成就しており、後の天下人である豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれて完成する事になる。
そして、現在。
「ハー。迷惑をかけてごめんね」
大学のキャンパスにあるベンチで私はため息をついた。
「大丈夫よ。今度は大丈夫。きっと採用になるわよ」
そう慰めてくれているのは、同級生の葵だ。
私は日本史の研究をしている大学院生。名前は折田乃菜。生活のため、塾で日本史の教師のアルバイトをしていた。でも、塾長と衝突して辞めるはめになったのだった。
塾長は職場の皆から嫌われていた。無理難題を押し付けて、その上、細かい事まで口を出して、物事をややこしくするだけの人間。それが塾長だった。
「先輩。塾長に一言 言って下さいよ―。お願いします。私達、先輩を頼りにしているですよ―」
後輩からおだてられ、ついその気になって、塾長に意見してしまった。後悔先に立たず。売り言葉に、買い言葉。そのまま塾長と口喧嘩になり、それ以来、私は、新しいバイト先を探している。今日の面接先は、五件目だ。
「塾長に貴女の事を話したら、興味を持ってくれたわよ。戦国時代の武器の研究をしているとか、薙刀が趣味だとか。面白がっていたわ」
私の修士論文のテーマは「戦国時代の武器の変遷と戦術・戦法の変化」だ。薙刀は高校時代からクラブに入って続けてきた。腕前には少し自信がある。
「頑張ってね」
そう言い残して、葵は去っていた。
面接の時間まで、まだ、時間がある。私は、図書館によって、火縄銃の資料を集め、バックに詰め込んだ。様々な種類の火縄銃の構造や火薬や弾丸の作り方など調べなければならない項目は多い。
薙刀部の部室で、リクルートスーツに着替える。着馴れないスーツが窮屈だった。
約束の時間に遅れないように、駅に向かっていると、白いものが、風に舞っている。雪だ。寒いとは思っていたが、雪が降るなんて。もうすぐ、四月なのに……。
雪の日の事件。赤穂浪士の討ち入り。桜田門外の変。二二六事件。西南戦争で西郷隆盛が鹿児島を出た日も雪だった。何か不吉な事が起こる気がする。面接は大丈夫だろうか。春の雪ぐらいで、不吉だって思うのは、我ながらマイナス思考過ぎるように思うが、でも、こう何度も面接を落ちてると、何でも悪い方向に考える。それに、少し前に三年間付き合った彼から、ふられている。世界中の不幸が私に押し寄せてくるような気になっていた。
駅に着き、改札口を通り、ホームに立った。相変わらずの人込み。電車を並んで待つ。
その時、
「きゃー」
突然、甲高い叫び声が響いた。
「どうした」
「この男、私のお尻を触った」
「てめえか」
男の怒声が響く。
「いや、違いますよ。僕はそんな事していない」
気の弱そうな男はその場から、急いで逃げようとする。
騒ぎに驚いて、人々が振り向き、そして 少しずつ後退りする。誰かが、私にぶつかった。えっ。身体が宙に浮き、線路に落ちた。電車がホームに入ってくる。
しかし、私に迫ってくる電車は、どんどんと薄くなって透けているように思えた。
「誰か線路に落ちたぞ」
「えっ。どこに・・・」
「どこって、そこに。ほら……」
誰かが騒いでいる声も遠くの方に遠ざかる。
「あれ。見間違いかな……」
私はそのまま意識をなくした。
「……」
「ウォー」
遠くで大勢の感嘆の声が聞こえる。私は何をしているんだろう。身体に力が入らない。周りに大勢の人の気配を感じる。一所懸命に記憶を呼び覚ます。
そうだ! 線路に落ちて、電車に轢かれそうになったんだ。
そうか! 私は誰かに助けられたんだ。そっと眼を開ける。
ん……。土の上にいる。ホームじゃないんだ。上を見上げると、木々が生い茂っていた。
森の中……。どうして、こんな場所にいるんだろう。
分かった。やっぱり、私は死んだのよ。だとしたら、ここは天国? でも、あまり綺麗じゃない。暗いし、ジメジメしているし。
えっ、まさか地獄? いやいや、そんなはずないわよ。私は何も悪い事はしていない。
考えている内に、身体が少し動くようになってきた。頭を起こして、周りを見ると、緑色の小さな生き物が、私の周りを取り囲んでいた。
何これ。やっぱり、地獄に来たのかもしれない。目を凝らす。子供ぐらいの大きさ、みんな、手を取り合って喜んでいるように見える。中には涙を流している者も……。敵意は感じない。地獄じゃない気がしてきた。
その中の一匹が、私の傍に寄ってきて、何か必死で話している。
「X△○*□X」
「X△○*□X」
「ま△○*□ま」
「ま△○う□ま」
不思議だ。初めは何を言っているのか、全く分からなかったのに、少しずつ分かるようになってきた。
「まじ○うさま」
「まじゅうさま」
「魔獣様」
魔獣様! 私はそう呼ばれている。私が魔獣だと言うの……。思わず両手を見る。毛など生えていない、人間の手。洋服も学校を出た時のまま。バックも持っている。顔も手で触るが、毛は髪の毛だけ。尻尾も生えてなさそうだ。人間のままだ。
「魔獣様。ご気分は、どうですか? 召喚されて すぐはご気分が優れないかもしれませんが、すぐに良くなります。しばらく、辛抱して下さいませ」
しょうかん……。しょうかん……。召喚……。召喚!!! 私は召喚された……。召喚獣って事? この生き物は何を言ってるの。とても信じられない。でも、駅のホームから、ここまで何らかの方法で移動したことは、間違いない。信じがたいが、それが召喚というのなら、取りあえず、召喚という事にしておこう。とにかく、今は落ち着こう。無闇に刺激しない方がいい。何をされるかわからない。
「どうして、私を召喚したの?」
できるだけ、優しく、私は尋ねた。
「魔獣様。良く聞いて下された。実は、貴方様に、私らの国の国王になって欲しいのです」
「国王に……。どういう事よ!」
この生き物は何を言い出すのだろう。口調が少しきつくなる。
「魔獣様。昔はこの世界も平和でございました。強い大天使様がいらっしゃって、その下で、みんな平和に暮らしていたんですが、いつの間にか大天使様の力が衰えて、誰も大天使様の言う事など、聞かなくてしまいました。力のある者が国を支配して、隣の国と争うようになったのです」
「この国も、どこかと争っているの?」
「私らは争いを好みません。東にあるケンタウロスの国とも友好関係を保っていたのですが、そのケンタウロスの国が、さらに東のリザードマンの国に併呑されてしまいました。次は、いよいよ、このゴブリンの国も危ないのです」
「争いが、嫌なら、さっさと降伏すれば、いいじゃない」
「降伏できれば、そうしたい。ですが、リザードマンが降伏を許すのは、戦う力のある者のみ。ケンタウロスは大部分の者が、戦う力を持っていますが、私らゴブリンには十人に一人も居りません」
「それって、十人中九人は殺されるって事?」
「そうです。どうか、私達のために平和な世の中を作って下さい。この天下を静謐にして下さい」
冗談じゃない。どうして、私がそんな事をしなきゃいけないのよ。冗談じゃないわ。とにかく、ここは、怒らせないように、婉曲に断らなければならない。
「でも、私が国王になったからといって、勝てるとは限らないわよ。私じゃあ、力不足と思うの」
「そうそう。それで、」
ゴブリンはポンと手を打った。
「魔獣様にはテストを受けていたたぎます」
「はっ! テスト……」
「はい。丁度、私の弟が、この国で一番の強者でございます。その弟と戦っていただきます」
「戦う……」
私は目の前のゴブリンを見つめた。私の身長が百五十六センチだから、丁度、百センチぐらいの大きさかしら。腕も足も細いし、これの弟なら、負ける事はなさそうだけど……。どうしよう。わざと負けたら、諦めてくれるかしら? よし!!
「まあ、いいわ。テストを受けてあげる」
私は、得意な安請け合いをした。そのため、失敗も多いのだが、つい調子に乗って、引き受けてしまう。性格は、なかなか変えられるものではない。仕方がないではないか。
そんな考えを巡らしていると、遠くから、大きな声が近づいてきた。
「兄者。兄者。召喚が上手くいったって、本当か!」
どうやら、私の戦いの相手らしい。近づくに連れて、枝が揺れ、木の葉が地面に落ちる。やがて、木立の間から、姿を現した声の主を見て、私は絶句した。
「大きい……」
身長は二メートルを超しているだろう。しかも、筋肉隆々。まるで熊だ。
「弟のカツエと申します。私らゴブリン族は十人に一人ぐらいの割合で、カツエのような戦闘型が生まれます」
カツエが私を睨みつける。
「なんだ。この弱そうなヤツは! 兄者! また失敗したな! 今までのヤツらのように、俺が捻り潰してやる」
「今までのヤツ……。捻り潰す……」
後悔先に立たず。 安請け合いのため、私は、命を失うかもしれない。
「ちょっと待って! 今のはナシ! テストなんて受けないわよ! 勝てるわけないじゃない!」
私は、必死に叫んだ。
「そんな悲しい事をおっしゃらないで下さい。受けて頂けないのなら、今ここで、捻り殺さねばなりません」
ゴブリンが悲しそうに言う。
「ええっ! そんなあ―! 勝った人はいるの?」
「いいえ……」
ゴブリンは首を横に振る。
「負けた人は、どうなったの?」
「はい。今まで召喚した魔獣様は 皆 弟に負けて、捻り殺されてしまいました」
「私で何人目?」
「十二人目でございます」
申し訳なさそうな声が、悲しげに森に響いた。