第1話「世界なんてどうにでもなれ」
化野 物議は、教室の一番後ろの席で、ただ脱力して座っていた。
教室の汚れた天井を見上げると、雨が降っているような気がした。勿論、屋内に雨は降らない。天井も床も乾ききっている。外はきっと晴々として良い天気だろう。だから、私がそういう気分だったというだけだ。
『働け!』『働け!』『働け!』『働け!』
頭の中に怒号が響いた。薄汚れた作業着に、頭には泥の付いた手拭い。耐えきれないのに跳ね除けることもできない重い荷物を背負わされて、よたよたと必死に歩く人のイメージが浮かぶ。ずれた手拭いで顔が判らない。あれは誰だろう……。
只、箱の中に押し込められているような圧迫感を覚えている。どうして……まただ。
だらりと脱力していた体を起こし、姿勢を正した。授業をしている教師はどこか上の空で、私の不真面目な態度にも気付いていない。授業が終わるまで、残り10分程。持て余して、きょろきょろと周囲を見回す。
がらがらの教室。ただでさえ村でたった1つの分校で、しかもたった1クラスしか存在しなかったのに――今ではもう、生徒は両手で数えられる程しか来ていない。皆もうほとんど出て行ってしまったのに、ここに座っている意味は何だろう。
ふと、窓際の席のしのぎちゃんが視界に入った。
(しのぎちゃん、真面目に授業受けてら)
外はやっぱり快晴だった。
✳︎
いつものように、鬱蒼とした山道をしのぎちゃんと帰宅する。しのぎちゃんは髪をおさげにして、縁取りの眼鏡を掛けている。控えめだけど、とても優しい性分の、素敵な幼馴染。いつものように、しのぎちゃんと雑談をしながら歩く。それだけでも、この村にも意味はあるのだろう。
ただ、山は歩きづらいし、土で靴や服が汚れるし、通り雨も多い。山育ちだけど、山はあまり好きじゃなかった。……この山から出たことは無いけれども。
「それでね、〇〇の所も出て行ったって。都心の方へ行くらしいよ。もう、この辺もずいぶん危ないって……」
そう言って、しのぎちゃんは難しい顔をした。
そうだ。もうこの村も終わりだ。
この世界は、立方体の箱のような形をしている。その昔、冒険家たちが世界の果てを目指して旅をし、――世界の果てを見た。
地の果てを見た。空の果てを見た。世界の果てには、真っ暗な無があった。
そして数ヶ月前、この世界は突如として端っこの方から次々と崩落していった。崩落した部分は、『無』―――真っ暗な闇となって、本当に世界から切り取られてしまったようだったという。人々は中へ中へと逃げ、……そろそろ、この村の番というわけだ。
突然始まった崩壊は、『魔王の復活である』と噂され、それを裏付けるようにこの世のものとは思えぬ存在が、人々を脅かすようになった。それらは魔物と呼ばれ、魔物はもう、この村の付近でも目撃されている。
危ないのだ。ほんとうに。
「あの…」
二又の分かれ道が見え始めた時、しのぎちゃんが言い淀んだ。いつも、あの分かれ道で別れるのだ。
「あのね、のぎちゃん……」
しのぎちゃんが私に向き直る。
『化野物議って、化物って字が入ってるんだぜー!』『えー』『ほんとだー!』
自分の名前をからかわれて悔しかったあの日の事が、ぼんやりと思い出される。
「私も……この村を出ることに……なって……」
「いつ?」
「今日、帰ったらすぐ」
「…………」
「ごめんね……ぁ……言い出せなくて」
しのぎちゃんは泣きそうな顔をしていたけど、涙がこぼれることはなかった。もしかすると、帰ってから一人で泣くのかもしれない。
「ううん。じゃあ、またね」
『また』と言った。ただ、いつもの挨拶だったから、言っただけ。別れは思いの外、あっさりとしていた。
あまり現実感がなかった。
もしかしたら、三日後くらいには泣くのかもしれない。
わからなかった。
まだこの村に留まる意味は何だろう。
わからなかった。
『じゃあ、化野物議から化物を取って、のぎちゃんだね』
あの日のしのぎちゃんの笑顔を、思い出した。
✳︎
ふらふらと左右に揺れながら、急ぎ足で帰った。足に絡みつく長い草が、鬱陶しかった。やっとのことで家に着いても、達成感も無かった。ただ、小さな小屋を見て、苛々した。
挨拶も無しに玄関の扉を開け、さっさと内鍵を閉める。どうせ自分しか住んでいないのだから。
玄関の靴棚の上には、小さな写真立てがある。伏せられたそれからすぐに目をそらす。
静かな家屋。また、圧迫感。
ここは、箱の中だ。
夕飯の用意でもしよう。今は、とにかく事務的に何かをこなしたかった。
この世界の、大きく、突発的な終わりが『世界の崩落』である。それともう1つ、以前から示唆されていた緩やかな終わりが、『箱の力の減少』だ。
例えば、火を点けるとき。枯れ木や枯れ草を集める。これは火を維持する為のものだ。対して、そこに火を生み出す。これが箱の力によって行われている。
もっとも、現在はわざわざ枯れ木を集めたりしない。箱の力のメカニズムは徐々に解明され、今では着火から維持までを箱の力でできるようになっている。
他にも、離れた場所と通信したり、建物を作る時に重い資材を持ち上げたり。こんな小さな村じゃ、日常生活に必要な程度しか使われていないけれど、都市部に行くと、もっと凄いらしい。
乗り物をすごい勢いで走らせたり、精密な機械やアクセサリを作ったり、人が空を飛ぶなんて話もあるらしい。
しかし、これらを行う箱の力は、近年失われてつつあるらしい、と。それによって、人類の文明レベルは数世紀前の状態まで持って大きく後退するのではないか、と言われていた。
しかし、それより前に世界が終わってしまうのだから、それももう無用の心配だ。
また、『世界の崩落』や『魔王の復活』と、『箱の力の減少』の因果関係を唱える学者もあるそうだが、もうじき終わる世界のみんなからすれば、「どうでもいい」の一言に尽きるだろう。
そうだ、どうだっていい。世界の命運なんて、どうだっていい。
どん!どん!
するすると芋の皮を剥きながら、考え事をしていると、戸口を叩く音がした。
しのぎちゃんだろうか。それとも、ご両親か。もしも、私も一緒に連れて行こうかという申し出なら、断らねばならない。
とにかく、今まで大変世話になって、気遣って頂いたのだから、きちんとお礼と、別れの挨拶をしなければならない。
扉を開けると、真っ黒なスーツの男が立っていた。
真っ黒な、ツンツン髪の青年。山に見合わない正装、見知らぬ人間に、私はすっかり固まってしまう。
青年は、そんな私の顔をじっと眺め、それからぱっと笑って言った。
「化野物議さまですね?」
どうして、私の名前を。
しかし、私には1つ、思い当たるところがあった。
「ロリコンの人だ!!!」
「えっ」
ばたん!
思わず叫び、勢い良く扉を閉める。そして早業、急いで鍵をして、はあ、と扉にもたれかかる。
どんどんどんどん!!!
「ひぃっ!」
耳元で強く戸を叩く音が響く。続いて、焦ったような叫び声も聞こえてくる。
「あ、あのー!?物議さま!?違います!!違わないけど!俺は中央政府から派遣された、大垣という者ですが!あなたのお父様、先代勇者様のことでお話が!」
どきりとした。どくん、どくんと心臓が早鐘を打つ。
父親のことで?
数年前、世界なんかを救うために旅立った父親?先代魔王が倒されても、ついぞ帰ってこなかった父親?もう声も思い出せない父親?
棚の上の、伏せた小さな写真立てに目をやる。
どんどんどんどん!どくん、どくん、どくん、どんどんどんどん!はあっ、はあっ、はっ、はっ、……。
うるさい。背中がすごくうるさい。心臓もうるさい。ぐっと扉を手で押さえる。
酸素がうまく吸えていない。私は舌を出して喘いだ。
息苦しい。ここはきっと箱の中だ。
「魔王を倒すには、勇者の剣が必要なんです!!この家にあるはず!」
汗がだらだらと頬を伝う。知らない。そんなものは知らない。
「その剣を使えるのは、勇者の血統のみ!世界を救えるのは、あなたしかいないんです!!」
第1話「世界なんてどうにでもなれ」end