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ある少年のこと。

作者: 浜田 桂

 誰もその少年を知らない。

 その少年は誰も知らない。

 誰もその少年の名を知らない。

 その少年は己の名を知らない。


          ◇


 床に置かれた汚らしい皿。そこにでたらめに盛られた粗末な食事。

 その前に座るのは、膝を抱え、空ろな瞳で虚ろを見つめるみすぼらしい少年だった。微動だにせず、視界に入っているはずの食事を見ようともせず、ただじっと座っている。

 その姿はあまりに空ろで、呼吸をしているのかさえ定かではなかった。

「食べなさい」

 無感情に投げつけられた命令をきっかけに、少年の身体は緩慢に動作を始める。

 用意されたスプーンで、味付けすらされていない、料理とすら呼べない食事を少年は無言で口に運ぶ。

 繰り返される咀嚼と嚥下、常に一定のリズムを刻むその挙動からは、食事を楽しもうという意識は微塵も感じられない。食べろと言われたから食べているだけ。少年にとってはただそれだけだった。

 一方、少年から離れたテーブルでは、若い女が食事を取っていた。

 けたたましい笑い声を放つテレビを見つめながら、女は綺麗に盛り付けられた料理をさも旨そうに口に運ぶ。

 少年の母だった。

 十年。この世に生まれ出でてより十年、少年は女を母と認識したことはない。親子という概念さえ持っていない。 いや、持っていないというよりは、失ったというべきだろうか。

 物心が着いた頃から、少年は目の前にいる女のその命令を聴くことだけを強要された。

 命令を聞かなければ暴力を振るわれる。その恐怖が、幼い少年を「人形」に変えてしまうまで、そう長い時間は掛からなかった。

 自発的に言葉を発することも禁じられていたため、思考にエネルギーを費やすこともなく、少年はたやすく女からの命令を覚えた。

 「食べなさい」と言われれば目の前に置かれた食事を口に運び。

 「寝なさい」と言われればその場に横になり、目を閉じればいい。

 尿意や便意を催した時には、床を二回叩くように教え込まれた。女が家にいない時だけは、自由にトイレに行くことを許されていたが、それを忘れて床に粗相をしてしまった時には、気を失うまで殴りつけられた。

 風呂は三日に一回だけ、残り湯を使うことを許された。体臭が強くなり始めた時のみ、石鹸を使えと命じられる。

 なんの命令もない時は、指定された部屋の片隅で膝を抱いて座るだけ。玄関からは見えない位置。窓からも見えない位置。倉庫に放り込まれた置物のように、少年はそこに在り続けた。

 少年は、そんな生活になんら疑問を持たなかった。少年の生活はそこにしかなかった。少年の生活はその形しかなかった。その在り方に、疑問を挟む余地があるはずもない。

 少年は生きてはいない。ただ、そこに在るだけだった。

 女は時折、男を部屋へ招いた。

 初めて部屋を訪れた男は、少年の存在に驚き、首を傾げる。慣れた男は、少年という存在を無視し、やがて忘却する。

 少年は、入れ替わりやってくる男達に意識を向けることはなかった。ただいつもと変わらず空ろな瞳で虚ろを見つめるだけ。

 女と男が声を殺すこともなく無遠慮に交わっても、少年は反応を示さない。女達がなにをしているのかさえ少年は知らない。女達も、そんな少年を気にすることはなかった。

 ある日、女は少年に立つように命じた。サイズの合わないボロボロになった服を脱がせ、まともに手入れもされず伸び放題となった髪に櫛を入れ、無造作にばっさりと切った。 女手ずから少年を風呂に入れ、見慣れない真新しい服を着せ、そして別人のようになった少年の手を取り、外へと連れ出した。

 少年にとっては生まれて初めて見る外界だった。

 少年は無感動だった。少年の空ろな瞳はなにも捉えてはいなかった。ただ、女の手に導かれるがままに歩くだけだった。

 途中、女は知り合いらしき人間から声を掛けられた。

「あら、だあれ? この子」

 問いに、女は動揺することもなくこう答えた。

「親戚の子よ」

 二人のやりとりは少年にはよく分からなかった。

 歩くことに慣れていない少年はその身体に疲労を覚え始めていたが、女は少年を気遣う素振りすら見せなかった。少年もまた、疲労を訴えようとはしなかった。体に圧し掛かる異常が疲労であると、理解出来ていなかった。

 女に連れられて辿り着いたその場所は、寂れた港だった。個人で船を所有する者だけが利用する、誰の管理もない港。

 そこに、一隻だけエンジン音を放つ船があった。

 女が船に近付くと、船の上に男が現れた。男は女の部屋を何度か訪れたことがあったが、少年はそれには気付かなかった。男の存在を、認識していなかった。

 女とともに、船に乗り込む。動き出す船。少年は船の端に座っているように命じられた。女は、操舵室で男と談笑し、時々思い出したように唇を重ねた。

 船の揺れに、少年は不快感を覚えた。それが船酔いによる嘔吐感であることに少年は気付くはずもなかったが、少年は顔色一つ変えることなく、空ろな目でそれに耐えた。

 しばらくして、船は一つの島へと到着した。島は、男が所有する小さな無人島だった。

 女の命令を受け、少年は船を下りる。直後、船はゆっくりと島を離れていった。

 少年はその場に座り込み、膝を抱く。船を下りろという以外、女からの命令はなかった。それはすなわち、そこに座っていろという命令だった。 少年はそうする以外知らなかった。

 寄せる波は、少年の足と尻を容赦なく濡らした。折りしも季節は冬。少年の痩せた身体は体温を保とうと本能的に震えを起こす。閉じられた口の中で奥歯がカチカチと音を立てる。

 船はすでに、島からは見えない位置にまで走っていた。


          … …


 辺りが闇に融けた頃。

 少年は、変わらず波打ち際に座り、膝を抱いていた。ただ、違うのは、少年の目がひどく濡れていたこと。そこから流れ出たものが、少年の病的なまでに白い頬を伝い落ちていることだった。

 それが涙であることに少年は気付いていなかった。いや、自分が泣いていることにすら、少年は気付いていなかった。

 喉の奥から漏れ出そうになる声を、訳も分からないままに必死で抑える。命令なく声を発することは、禁じられていた。

 皮膚に突き刺さるような冷たい風。そして打ち寄せる波が、少年から容赦なく体温を奪っていく。少年の乾いた唇は、くすんだ紫色に変色していた。

 震えながら、泣きながら。少年はひたすらに待ち続けた。女が現れ、そして自分に命令を下すのを、空ろな目で待ち続けた。

 襲い来る強烈な空腹。

 身を侵す猛烈な眠気。

 少年は耐えた。

 ――食べなさい。

 ――寝なさい。

 その命令が、まだない。少年は、震えることで軋む夜を耐える。

 空ろな瞳は虚ろを見つめ。

 空ろな瞳で虚ろを見つめ。

 空ろな瞳が虚ろを見つめ。

 空ろな瞳を虚ろは見つめ。

 空ろな瞳を虚ろで見つめ。

 空ろな瞳を虚ろが見つめ。

 いつしか、空ろな瞳は虚ろすら映さなくなっていた。


          … …


 少年は死という概念を持たない。

 少年は生という概念を持たない。

 少年は命という概念を持たない。

 気付けば、少年の震えは治まっていた。少年の身体はもう、寒さを感じてはいなかった。少年の身体はもう、凍えることを忘れていた。

 半ば開かれた瞼。瞳は空ろで、虚ろで、それ以上にがらんどうだった。

 閉ざされた唇からは、言葉はない。

 抱かれた膝も、抱く腕も。もう動くことはない。命令(いと)の切れたからくり人形はもう、動かない。

 自分は何故生まれたのか。

 自分は何故生きるのか。

 自分は何故死ぬのか。

 少年は考えたことはない。悩んだことはない。ただそこに在ることだけが真実だった。そしてその真実すら、少年には無価値にして無意味だった。

 日は昇り、また闇に融け。

 日は昇り、また闇に融け。

 膝を抱える少年の腕が解けていく。

 腕から解放された膝が落ちていく。

 支えを失った身体が崩れていく。

 寄せる波。返す波。

 静かに。静かに。かつて少年であったものは随意まにまに命の源へと回帰していく。

 寄せる波が、少年の痕跡を飲み込んでいく。

 返す波が、少年の痕跡を攫っていく。

 そしてまた、日は昇る。


          ◇

 

 誰もその少年を知らない。

 その少年は誰も知らない。

 誰もその少年の名を知らない。

 その少年は己の名を知らない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 題材は非常に良いかと思います。視界の外に外れた存在としての少年とその存在意義や、葛藤や感情も与えられなかった在り方について考えるのは、有意義な姿勢ではないかと存じます。 また、この作品は悲…
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