ガトーショコラケーキ
とある曲から発想を受け、作ったお話です。
よろしくお願いします。
嘘を胸に秘め、取り澄まして廉潔な愛を腕に抱く、そんな男を嫌悪していた。それが私の20代の始め。私は、今日でちょうど25歳になった。3つ年下の会社の後輩には、ついにアラサー突入ですね。なんて、嫌味なのか天然なのかわからない言葉を投げ掛けられた。確かにアラサーになったようだ。
三十路とは、まだ縁遠いものと捉えていたけれど、きっと電車の景色が移り変わるみたいに変化に気づかず、いつの間にか迎えるものなんだろうと、最近思い始めている。それでも、ぶどうの房のような心の中に、いくつかの余裕の実がなっているのは、恋人がいるということが要因なのかもしれない。
私は、少し高級なケーキ店のガトーショコラケーキの欠片を口に運んだ。苦味の中にあるほのかな甘さが、私に小さな幸福を送ってくれる。ふと、私にとっての今の恋は、このケーキが表しているのかと思い浮かんだ。
今日は、一人だった。理由は、土曜日だから。彼と会えるのは、週に1、2回のしかも平日と決まっている。彼には、私以外の正しい愛がある。つまり、妻帯者なのだ。奥さんと別れてほしいとか、もっと一緒にいたいとか、そんなことは思わない。それが、仮初めの愛のルールだ。心得ている。それでも、彼が私の部屋から帰る前に、私の香りをシャワーで洗い流すのが、どうしようもなく惨めで仕方なくなるときはあった。
ふいに、スマホから甲高い機械音が声を上げた。彼からの着信だけには、特別な音を設定していたから、すぐに誰だかわかる。想像するまでもなく、誕生日メッセージだ。
『アリス、誕生日おめでとう。一緒に過ごせなくてごめん。愛してるよ。尚人』
決まりきった文章なのに、沸騰した水のように沸き上がる、おそらく愛情、という類いのものを抑えられない。蒸気は、声となって漏れていった。
一人でいるときによくたいているアロマも、今日は姿を隠した。私の香りを押し付けないために。もう夕食はとってあるとメールが来たから、赤ワインとつまめるものだけ用意した。
ピーンポーン。少し長めのチャイムの押し方。始めはおかしくて、ドアを開ける前によくほくそ笑んでいたものだ。
「はーい」
玄関に小走りに向かい、ドアを開く。黒髪に、同じくらい真っ黒なシワのないスーツ、白いワイシャツ、ちょっとだけ童顔な顔が、目に留まると、どうしても好青年という言葉が浮かんできてしょうがない。きっと、この好青年に仕立て上げている線の入っていないスーツやワイシャツは、彼の奥さんが作っているものなのだろうけど。
私の胸の中にいる小人がせせら笑うけれど、嘘っぱちの愛に抗うことができず身を委ねる私は、もっと哀れなんだろう。頭ではわかっていることなのに、体は彼を求めて、プラモデルのような四角くて固い彼の手を掴んだ。
「お疲れさま」
甘くなりすぎないように矜持を保ってはみても、語尾に含まれてしまうはちみつみたいな声が漏れ出てしまう。彼は室内に入り、後ろ手にドアを閉めて鍵をかけると、私の体を包み込んだ。
「会いたかったよ、アリス」
30という年相応の低音の声に、やっぱり彼は大人の男性なんだと改めて思う。
熱くなる胸に小人たちが慌てて冷房をきかせるけれど、その熱量を止めることができなくて、その熱を彼に伝えたくなってしまうのがどうしようもなかった。この思いを伝えるのに一番良い方法を知っている。私は、腕を斜め上に伸ばし、彼の首に巻き付けると、そのまま唇を重ねた。
「尚人さん」
吐息と声。
「アリス」
彼のバリトンが私の耳を占領する。彼は、そっと私から離れた。
「まだ、早いよ」
焦らすような意地悪な笑み。
ずるい―
「もしかしたら、ケーキは誕生日に食べたかもしれないと思って、プリンを買ってきたんだ」
彼は、私の横をすり抜けて、玄関から部屋に入った。小人が針を差す。あんただけは味方なはずなのに、そうやってちくりとやってくるのね。
「デザートは、後で食べる方が美味しいからね」
彼の淡々とした声に、熱が液体となって融解していく。
「アリスのことだよ」
彼は、子供をあやすように穏やかな笑みをたたえ、私の頭を大きな手で覆った。静かに揺り動かされる。鼓動が大きく1回跳ね上がった。
こんな子供だましのことで、私を慰められると思ってるの?私はアラサーで、つまりはもういい大人なんだから。
そう毒づいてはみても、彼の包み込んだ手の大きさが意図も簡単に跳ね返してしまう。結局彼の手の中で踊るピエロなのだと感じずにはいられない。でも…。私は、彼に微笑みかけた。余裕をめい一杯詰め込んで。
でも、貴方の手の中で踊れるなら、それで幸せなのかもしれない。例えこれが紛い物なのだとしても。私は、彼の腕を引っ張ると、つま先立ちして、彼の首元に顔を近づけた。軽くキスをした後に甘く噛む。
「っ」
彼の顔は見えない。でも、どんな表情してるかはわかるのよ。嘘の恋でもね。
「最初に仕掛けたのは貴方だからね」
「アリス…」
彼は、痛いほど強く、私の背中に手を回した。粗っぽく抱き締められるのも嫌いじゃない。私は、わがままじゃないわよ。だって、大人なんだから。
それでも、あなたはシャワーをして帰る。私を残さないために―
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