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復讐の夜 2

 イシュルは、無惨なヴェルスの死体を目にして呆然とその場に佇む男爵を鋭い視線で睨みつけ、吠えるように叫んだ。

「俺の名はイシュル、ベルシュ家に列なる者だ! おまえに虐殺された村人の生き残りとして、おまえを両親を殺した仇として、女神レーリアの名において今この場で討ち果たす。覚悟しろ!」

 イシュルは定番の口上を叫ぶ一方で、上空に集めた風からいくつもの渦と空気を圧縮した球をつくっていく。

 周りから一瞬、おおっ、という声があがった。それもすぐ続いて起こった大きなざわめきにかき消される。

「くっ、貴様っ」

 ブリガールは目を大きく見開き歯をむき出しにして睨んできた。

「おまえがヴェルスを殺したのか!」

 ブリガールは胸の方に手をやり、首に巻かれた高そうなサテン地の緑色のスカーフの下に忍ばせた。

 ふん、ベルシュ家の魔法具、首飾りの石を触ったわけか。以前にゴルンからブラガの話を聞いておいて良かった。魔法具には手で触れることにより発動するものが多いらしい。

 ブリガールにいやらしい笑みが浮かぶ。

 確かに空気球でねらいをつけようとするとうまくいかない。ブリガールの存在感があやふやになった。目で見る分には何も変化がないのに。

 ブリガールの右側にいた騎士団長が周りを見渡して右手を上げた。

 イシュルは同時に風を降ろす。

 居館の窓から、周りを囲む樟や樫の木々に隠れていた射手から、一斉に矢が放たれた。

 男爵らが地べたに身を屈める。

 イシュルを中心に風が渦を巻いた。イシュルに向かって放たれた矢が風の渦に巻きこまれ、空中に、地面にあらぬ方に飛ばされ落ちていく。

 招待客の固まっている方から小さな悲鳴と大きな驚きの声が上がった。

 イシュルに矢は一本も当たるどころか、かすりもしなかった。風に巻かれて固く軽いもの、グラスや皿の割れた破片がイシュルの周りを舞っている。

 男爵らが頭を上げイシュルを見、驚愕して腰を浮かした瞬間、イシュルは口許に微かな笑みを浮かべると、漂う食器の割れた破片を加速して男爵に見舞った。破片はきらっ、きらっと篝火の灯を反射させて男爵とその周囲に目にも止まらぬ早さで飛んでいった。

 シャーッと音がして、大小の破片が男爵に突き刺さる。男爵からうめき声が漏れ、男爵は仰向けに倒れ込んだ。

 招待客の方からは何度目かの悲鳴とざわめき。

 男爵を守っていた魔法の効力が切れ、男爵の実体が視覚と一致する。

 思ったとおりだ。範囲攻撃が有効なことはいいとして、本人の集中力や精神の安定が途切れ崩されると、防御系の魔法具も一旦その効力を失う。

 イシュルはテーブルから降りると男爵の前に立った。

 食器の破片をほとんど浴びずにすんだ騎士団長が、剣を抜いて横からイシュルに突きを入れてくる。だが、イシュルが手を伸ばすと同時に、その先の騎士団長の頭がパーンと吹っ飛び、首から上は形のよくわからない真っ赤な肉塊となってそのまま地面に激突するように倒れこんだ。

 今度はより大きな悲鳴が上がる。

 イシュルは一歩だけ男爵に向かって歩を進め、倒れ込む騎士団長を後ろにやり過ごすと、男爵の首に手をかけ、ベルシュ家の魔法具の首飾りを引きちぎった。それは革ひもの先端に小さな青い宝石があしらわれたペンダントだった。

「これはベルシュ家のものだ。もらっていくぞ」

「ううつ」

 男爵は大小の破片が突き刺さって血で汚れた顔面を歪めたまま、唸るだけだ。

 イシュルはベルシュ家の魔法具を懐に入れると男爵に背を向け、会場の出口の方へ歩き始めた。

 会場の出入り口には、鉄の甲冑を着た騎士も混じった男爵家の兵が十数名ほど固まって、声もなく佇んでいたが、イシュルが睨みつけるとみな算を乱して逃げ出しはじめた。木々に隠れていた射手たちも木から飛び降り彼らの後を追う。

 イシュルは背を向けて走り去っていく兵らに、後ろから強い風を起こして彼らを吹き飛ばし、そのまま正面の、城の南側の城壁に叩きつけた。

 イシュルのやったことは宴に招かれた客たちからは木々が遮りほとんど見えない。少し離れたところから聞こえてくる兵士らの悲鳴に彼らは不安げに互いの顔を見合わせた。

 イシュルはさらに歩を進め、男爵から離れていく。

 彼らの中にはこれで復讐劇が終わったと思った者もいたかもしれない。

 だが今日の演目はむしろこれからがクライマックスだった。

 イシュルの背後でいきなり激しい風が巻き起こる。

 その風は呻きながら上半身を起こした男爵を持ち上げ、空へと運んでいった。

「うわぁああ」

 男爵は叫び声をあげ手足をばたつかせながら、城の五番目の塔、頂部に鐘を備える塔に向かって吹き上げられていく。

 そして男爵はその鐘のすぐ下、塔の南側の壁に叩き付けられた。

「がぁああ」

 男爵の苦悶のうめき声が上から聞こえてくる。

 直後にゴーン、ゴーンと、強風に揺れた鐘の音が辺りに響いた。

 塔の高さは丘の上の城内からなら、三十スカル(三十長歩、約二十メートル、五階建てのビルくらい)くらいしかない。夜でも塔の上部に叩き付けられた男爵の姿を、容易に視認することができた。

 あっけにとられ、声もない招待客らとともに男爵を見上げながら、イシュルは今度は地上にいくつもの複雑な風の渦を巻き起こした。 

 その複雑な風の渦に、地面やテーブルの上に落ちていた幾つもの弓矢が頭をもたげ、浮き上がって空へと飛んでいく。複数の弓矢は垂直に頭を揃え、まるで誘導弾のように塔より高く飛び上がると、その向きを変え、加速しながら次々と男爵へ向かって突っ込んでいった。

 鐘の鳴る中、弓矢はガン、ガンと鋭い音を立てて男爵の肩、肘、手首、膝、足首を貫き、塔の石壁を穿ち突き刺さっていった。

「がぁあああ」

 弓矢がそのからだを差し貫くたびに、男爵は呻き声をあげた。

 観客は声もなく塔を見上げ、男爵が断罪されていく様を見つめた。

 塔の上からは風に振りまわされ鳴り続ける鐘の音とともに、男爵の苦痛に呻く声、いや、むせび泣く声が聞こえてきた。

 男爵は鐘の塔に、弓矢をもって生きたまま磔にされたのだった。


 イシュルはまだ手を緩めず城の上空に風を集め続けた。

 彼は風を集めながら、観客、いや収穫の宴の招待客の方へ歩いて行った。

 イシュルが彼らに向かって何か言おうとすると、招待客の中から、老人がひとり出てきてイシュルに声をかけてきた。

「貴公がイヴェダの剣の継承者かの?」

「……」

 イシュルがなんの反応もせず黙っていると、その老人は何がおかしかったのか少し表情を緩め、すぐそれを引き締めるとイシュルにかるく会釈して言った。

「この度は本望をとげられ、祝着に存じ上げる」

「……は、はぁ」

 なんて古風な。イシュルは一瞬あっけにとられまともに返礼できなかった。

 老人の佇まいは近隣の騎士爵家のご隠居か、何代か前の街の有力ギルド長、といった感じだ。おそらく以前から男爵家のことを快く思っていなかったのだろう。

 イシュルは無言で老人に会釈すると周りを見渡して大声で言った。

「これからこの城を破壊する。危険だからあんたらは城から出て行ってくれ!」

 イシュルと老人のやりとりを静かに見守っていた招待客らが再びざわつきはじめる。

「あんたらもだ」

 イシュルは招待客らに混じって数人で固まっていた城の使用人、メイドたちにも声をかけた。

「男爵家にゆかりの者でも女、子どもに手は出さない。早く逃げろ!」

 何人かが会場を足早に出ていくと、それに釣られるようにして招待客らも会場を出て行った。

 ただひとりをのぞいて。

 イシュルの目の前に少女がひとり立っていた。その少女はシエラだった。

 彼女は薄いベージュの、ほのかに光沢のあるドレスを着ていた。ドレスの裾が次第に強くなっていく風に細かく激しくはためいている。

「……」

 彼女は眸を潤ませ何も言わない。イシュルを無言で見つめ、何かに堪えているようだった。

 イシュルは一瞬、左の方へ目をやった。

 会場の入口のところ、樟の手前で壮年の男女が心配そうにこちらを見ている。

 あれはシエラの両親だろう。

 イシュルは表情を引き締めシエラを見つめた。

 そして首を横に振って厳しい口調で言った。

「早く逃げろ!」

 シエラはイシュルを睨みつけると泣きそうな顔になり、そのまま横を向くと何も言わずに両親の許に走っていき、会場を去って行った。

 居館の方からも逃げて行く人影がある。中には騎士団の兵も混じっているようだったが、もうイシュルは彼らに構わなかった。

 イシュルもゆっくりと南の城門の方へ歩いて行く。

 彼は会場を出ると、背後に空から風を降ろした。

 天から城に竜巻が降りてくる。それは自然ではあり得ないことだった。

 鋭く絞り込まれた竜巻は凄まじい轟音をたてて城の居館に噛み付いた。

 イシュルは城の本丸に当たる内郭の城門を出たところで後ろを振り向いた。

 五番塔の鐘が狂ったように音を鳴らし、強風に翻弄される磔にされた男爵の影が見える。

 竜巻は居館の屋根をバリバリと砕き、空へと巻き上げた。城の居館は屋根が吹っ飛ぶとその内側を抉られ破壊されていく。空には何かの布、家具や小物、無数の板きれが空高く吸い上げられていった。

 瞬く間に城の居館はわずかな石造部分を残して崩れさった。

 イシュルは両手を握りしめ、歯を食いしばる。

 竜巻はその勢いを変えぬまま、地上に向けて丸めこむようにして斜めに傾き潰れていき、北東の塔の下部に食い込んでいく。

 風の音がゴーッという低い轟音から一瞬、甲高い女の悲鳴のような音に変わった。その音もすぐ岩が割れ崩れる、重く低い腹を抉るような轟音に取ってかわられていく。

 強烈な風の渦巻くかたまりにその基部を抉られ、北東の塔はまるで大木が倒れるように南側に倒れてきた。横倒しになった塔は破壊された城の居館の残った石積みを崩しながら自らも崩壊していく。さらにその上部は居館の南側で接続していた二番塔をひっかけ、その塔の上部も崩していく。がらがらどすん、と石が崩れ落ちる音と振動が辺りに響いた。

 その一方で低く渦巻いていた風のかたまりは再びその姿を竜巻に変え、倒した北東の塔のすぐ西側にある、居館と同じく接続していた三番塔に絡み付いていった。

 三番塔は居館の崩壊によりその一部が破壊された南東側の角を、竜巻によって空に吸い上げられるようにして石積みを剥がされ、砕かれて、そのまま南東側へ崩れ落ちていった。

 イシュルはさらに城の外郭部、商人ギルドの正面あたりまで退くと、今度は、城の南西側で内郭を成す城壁と連結している四番目の塔に竜巻を移動していった。

 男爵を磔にしている五番塔、城の北西側にはなるべく損害がでないよう風の流れを一部コントロールする。

 イシュルの狙い。

 それは男爵を磔にした五番目の塔だけを残してすべての塔を破壊することだった。

 イシュルは苦労して四番塔の南東側の石積みを崩し、その上部を城壁のすぐ外側にある騎士団庁舎の上に落下させた。

 大きな轟音と振動。建物の上半分を派手に破壊された騎士団庁舎から、もくもくと塵や埃が吹き出してきた。イシュルはそれを竜巻に吸い取らせ、空高くまで吹き上げさせると竜巻を消した。風を北に向かって吹かせて、城から立ち上る粉塵を北の沼の方へと運ばせる。

 竜巻と破壊の轟音が去ると、後は今だ狂ったように鳴り続ける五番目の塔の鐘の音だけが辺りに鳴り響いた。

 終わりだ。

 イシュルは城に背を向けると城の外郭部の正門にあたる南側の門へと歩きはじめた。

 時々、逃げ遅れた人々が城の外郭部にある主神殿や街の有力ギルドの建物の影から飛び出してきて、イシュルの横を走って追い越していった。

 城門は宴があったせいか開かれていた。城の門の前までくると、門の先に見える城前広場に、多くの人々が集まっているのが見えた。

 彼らはエリスタール城の異変を見に、街中から集まって来たのだった。

 イシュルは門をくぐり、門の前の緩やかな階段を降りて行く。

 日中ならイシュルの服に点々と染みをつくったヴェリスらの返り血が人目に止まっただろうが、夜目にはその返り血も目立たず、イシュルの服装は収穫の宴に招待され逃げ遅れた客のひとり、とでも見なされて城前広場に集まった群衆の注目を集めることはなかった。

 広場に集まった人々はみな階段を降りてくるイシュルの先、城の方を見ていた。

 イシュルはなんの動揺も逡巡も見せず、城の破壊など関係ない、興味もないといった感じで階段をゆっくり降りるとそのまま前へ歩いていき、広場の群衆の間にまぎれこんだ。

 彼は群衆を避けながら広場の中央を突っ切り、広場の外へ向かって歩いて行った。

 周りに佇む人々は、ある者は呆然と、ある者は怯えて、ある者は皮肉な目で、すっかり様変わりしてしまった城の姿を見つめていた。そして彼らはひそひそ、がやがやとこの異変が何なのか、なぜ起きたのかその理由を口々に話し合い、噂していた。

 イシュルは誰の目にも止まらず広場の中ほどまで来ると、立ち止まって後ろを振り返りエリスタール城を見た。

 城は夜空を背景に明るい茶色の粉塵を巻き上げ、その姿を以前とは大きく変えていた。丘の上にそびえていた五つの塔と城主の居館は、城の北西にある鐘の塔を残してすべて崩されていた。

 広場にも鳴り響いていた塔の鐘も、いつのまにか静かになっていた。

 イシュルが魔法の届かないところまで離れてしまったからだ。

 もう彼の力で塔の鐘に風を吹かすことはできない。

 人々のざわめきで覆われた広場からは、風が止み、鐘の音が消えた夜の城は不思議な静寂に満たされているように感じられた。

 イシュルは城を見てひっそりと小さな笑みを浮かべた。

 これからやがて夜が空け、日が昇ればこの広場からも、ただひとつ残った塔の上の方に、誰かが磔になっているのを見ることができるだろう。

 もしかしたら、その時点でも男爵は生きているかもしれない。男爵に刺さった槍は彼の骨を砕き、筋を裂いたろうが、それで彼の肉体から多くの血が流れ出たわけではない。

 塔の上に磔にされた者は誰か。塔上から泣き叫ぶ男は誰か。それは男爵家の収穫の宴に招かれた者たちがすぐに、街中に広めてくれるだろう。この事はやがて王国中に広まっていくだろう。

 エリスタールの丘にそびえ立つ、城に残るただひとつの塔。その塔に磔にされた男爵の死体は腐り、骨となるまで、いや、うまくすればその骨が塵芥となり消え去るまでそこにあり続けるだろう。

 瓦礫に埋まったあの塔の下までたどり着き、塔の上まで登ったとしても、一体誰があの矢を抜き、男爵の遺体を塔から降ろすことができるだろうか。

 イシュルは笑みを消し、その視線を城の先の中空に彷徨わせた。

 父さん、母さん、ルセル……、やっと終わったよ。

 これでおしまいだ。さようなら。

 そしてイザークやファーロら、村の多くの人々の顔がイシュルの脳裡に浮かんでは消えていく。

 イマルらとフロンテーラに向かう途中、セヴィルから村の凶報を聞いて秘かに、そして誰もいなくなったベルシュ村に帰ってきてはっきりと復讐を誓ってから、もう随分と時が経ったような気がする。

 イシュルはその視線を城にもどし、目を細めた。

 それからメリリャ、可哀想なメリリャ。

 彼女はあの城の、おそらく東側の城壁の下あたりに眠っている。

 彼女のことはイシュルには大きな悔恨となって、これからも消えることはないだろう。

 彼は小さな、誰にも聞こえない声で、死者を埋葬するときに神官がかならず唱える、お祈りの最後の一節を口ずさんだ。

 “……願わくば善き精霊と成りて、永久に神々とともにあらんことを”

 

 ん?

 イシュルは頭上に風が集まり、渦を巻きはじめるのを感じた。

 少し不自然な風の動き。

 イシュルが見上げると目の前でその風の渦はうねり、半透明のひとの形のようになっていく。やがてそれは古風な裾の短いローブを巻き付けた、小さな女の子、いや、男の子の姿になった。

 空中にふわふわ浮かぶその子どもは全身が無色の半透明で、実体がないようだ。

 ええっ!?

 イシュルがただ呆然としていると、その子どもはいきなりイシュルに話しかけてきた。

「ぼくを呼んだのはきみ? なんだぁ、イヴェダさまに呼ばれたのかと思ったのに」

 えーと、これは…?

 子どもは手を顎にやり何やら考えはじめた。首を捻って考え込む仕草が可愛らしい。

「ああ、でもそうだよね。呪文がすごく下手くそだもん。イヴェダさまのはずがないか」

 イシュルが困惑し黙り込んでいるのもおかまいなしに、その子どもは勝手に話を進めていく。

「で、にんげん、ぼくに何か用?」

「あ、いや。きみは誰?」

 途中で思わず声が裏返ってしまう。

「はっ? 何いってんのさ。ぼくは風の精霊。きみがぼくのこと呼んだんじゃないの?」

 そうか。さっきの聖堂教の聖典の一節。あれが呪文、だったのか? でも聖典の一節、だぞ? そんなもの神官でなくても誰でも知っていれば唱えることはある。

「えーと、聖堂教の聖典の一節を唱えたんだが」

 イシュルは正直に答えた。

 何がなんだかよくわからない。こういう時は知ってそうなやつに聞けばいい。目の前のやつに。あまりあてになりそうな感じがしないが。

「へー、そうなんだ。それには呪文とかが書かれてあるのかな? ぼくにはよくわからないけど」

「えーと、……願わくば善き精霊と成りて、永久に神々とともにあらんことを、って言ったんだが」

 半透明の子どもはびっくりしたような表情をした。そしていきなり笑い出した。

「ははは、下手くそな呪文。それ、ちょっと違ってるかも」

 そうなのか?

 それにしても、声に出して聖典の一節をもう一度言ってみたのに、何も変化がないな。

 もうひとり精霊がでてきてもおかしくないのに。

「ごめん、どう言うのが正しいんだ?」

「それはよくわからない、かな? にんげんとぼくらでは、こうやって話すことはできるけど、言葉の感じ方?がなんとなく違うと思うから」

「そうか…」

 でも興味深い。

「でもなんでそんな下手くそな呪文でぼくを呼びだせたんだろう。まぁ、確かにぼくはまだまだ半人前の、下の方の精霊だけど」 

 そうなのか…。

 精霊の子どもはそこでまた、顎に手をやり何やら考えこむ仕草をした。

「ねぇ、何か魔法を使ってみて。きみは呪文は下手くそだけど、なんか感じがイヴェダさまに似てる」

 そうか! なるほど。俺がレーネの風の魔法具を持っていることが関係しているのか。

「よし!」

 と、イシュルは返事をしたところで、周りに、今自分がどこにいるのか気づいて慌てふためいた。

 周りを見渡すと、変な挙動をするイシュルにちらちらと目をやる者はいるが、それ以外はみな、城の方を見て話し込んでいたりして、イシュルの頭上に漂う精霊に気づいている者はいない。見れば、誰でも驚く筈なのに。

「その前にちょっと。きみは他のひとには見えないのか」

 イシュルは少し声を落として精霊の子どもに話しかけた。

「うん。そりゃもちろん。魔法を使えるにんげんじゃないと、見えないよ。ぼくと話してる言葉も他のにんげんには聞こえないと思う」

「おお!」

 これは素晴らしい。俺は今、精霊を召還したのだ! やっと実感できた、気がする。

「よし。それでは少し魔法を使ってみせよう」

 イシュルは興奮して、さっきまで哀愁に満ち満ちた感慨に浸っていたのも忘れて、機嫌良く頷きながら言った。

 子どもの精霊からは何か明るい、人をやさしい気持ち、あるいは浮き浮きさとせるようなオーラ、みたいなものが放たれていた。子どもの精霊は、人のこどもよりも他者にそういった影響を及ぼす力が段違いに強いのだろう。何か魔力と関係があるのかもしれない。

 イシュルはすっかり、その精霊の子どもの柔らかい気、に当てられていた。

 イシュルは上機嫌で頭上の、広場にいる人々が気づかない高さで大きく風をうねらせ、巻き込んで見せた。

「ええっ!!」

 そこでイシュルといっしょに上を見ていた精霊はびっくり仰天、空中で一回転すると驚きの声をあげる。

「ん?」

「い、イヴェダさま!」

 そうか、やはり……。

「きみは誰? どうして……。この感じはイヴェダさまといっしょだ」

「まぁ、まぁ。おちついて。なんとなくだけどわかったよ。俺の魔法具は“イヴェダの剣”とか呼ばれていて、神の分身、神の魔法具? みたいな感じのものらしいんだ」

「そうなんだ! すごーい。きみは相当えらいにんげんなんだね」

「そうかな? まぁ、いいや。ところできみは名前はなんていうの? 何ができる?」

「うん? 名前はないよ。てか、にんげんには言えない。きみの方から名をつけてもらってもいいけど、きみなら、ぼくのような下っ端じゃなくて、もっともっとえらい精霊も呼び出して、名付けることもできると思うよ」

 それは契約、とか言うやつか? やはりそういうのがあるのか。

「わかった。だいたいわかったよ。ありがとう」

「うん、どういたしまして。それで何をしてほしい?」

「うーん」

 今度はイシュルが考え込む。

「特にないな」

「えー」

 精霊の子どもは唇を尖らすと言った。

「じゃあ、どうしてぼくを呼び出したのさ」

「ごめんごめん。たまたまだったんだ。大切なひとが亡くなってしまってね。それであの一節を口ずさんだんだ。そうしたらきみが現れてね」

「ふーん、よくわからないけど。じゃあどうしようかな」

 精霊の子どもはしばらく不満そうな顔をしていたが、周りをきょろきょろ見渡すと、にやにやしだした。

「じゃあ、ぼくはまだ帰れないから、ここでしばらく遊んでようかな」

 それはよくない。確か精霊は人間を化かしたりして、いたずらしたりすることがある、んじゃなかったか。

「ああ、いや、ちょっと待って」

 イシュルは城の方を見る。

「それじゃ、あの城にひとつだけ立っている塔の鐘を風で揺らして鳴らしてくれないか」

 そこでイシュルは少し考え、

「朝になったら、日の出の時にしばらくの間、鳴らしてほしい」

 と言った。

 そうすればあの塔はより、街の人々の注目を浴びることになる。

 精霊の子どもは城の方を見て頷くと言った。

「あの鐘だね。わかった。夜が明けたら鳴らせばいいの?」

「そう」

 ここからあの塔の鐘がわかるのか。

「朝までだったら余裕でにんげん界に残っていられると思うよ。だいじょうぶ」

「そうか。いつまで居られるの?」

「ぼくぐらいじゃ、これから日が出て、日が一番高くなるくらいまでしかいられないね」

「そうなんだ」

「うん。きみは何も知らないみたいだけど、もしぼくらに大きな頼み事をすると、そこでおしまいになっちゃう」

 なんだか言ってることが今ひとつわかりにくいが……まぁなんとなく理解はできる。つまり彼らは大きな魔法を使えばそこで精霊界?に帰らないといけない、ってことなんだろう。

「わかったよ。いろいろ教えてくれてありがとう。じゃあ、よろしくたのむ」

「うん!じゃあね!」

 精霊はにっこり、子どもそのものの笑みを浮かべると、城の方へ飛んでいった。

 これは凄い体験だった。

 この世界にはおそらく神々が、そしてまごうことなく精霊が存在するのだ。

 イシュルはあの火の魔法を使う宮廷魔導師の女の子、彼女が火龍と戦っていた時に生み出した炎でできた龍を思い浮かべた。

 とりあえずだが一歩だけ、踏み込めた気がする。

 やはりなんとかして魔術書を手に入れ、魔法を学ばなければならないだろう。

 イシュルは城の方へ飛んでいく風の精霊の姿を見つめた。

 メリリャを想ってあの聖典の一節を唱えなければ、あの子どもの精霊が現れることはなかった。

 そしてあの精霊のおかげで少しだけ明るく、やさしい気持ちを取り戻せたような気がする。

 ありがとう、メリリャ。

 きみのおかげだよ、きっと。

 そしてさようなら、メリリャ。


 イシュルは踵を返し、広場をそのまま歩き出した。広場の南端から中通りにそのまま入り、どこかで裏道にでも入ろうかと考えていた。

 イシュルは広場に集まった人の群れを、波をかき分けるようにして抜けていく。その最後の波を抜けると、正面にシエラが立っていた。

 シエラの装いは収穫の宴の時のまま。だが彼女は微笑みを浮かべているといってもいい穏やかな表情で、男爵を磔にした時、城で会った時のような泣きそうな顔はもうしていない。

 彼女は心の中でどんな折り合いをつけたのだろうか。

「イシュル…」

 イシュルは無言でシエラの許へ歩みよった。

「あれはイシュルがやったんでしょ? イシュルって本当は凄い、大魔法使いだったんだね」

 シエラは城の方を見て言った。

 イシュルも首を横にしてちらっと城の方を見る。顔をシエラの方に戻すと、シエラは言った。

「もうこの街にはいられないね。あっ、王国にも……」

「そうかもな。それよりシエラ、おまえはいつ王都に行くんだ?」

「来年の春くらいかな。もう滞在先も決まったのよ」

「そうか」

 シエラの表情が少し固くなった。彼女はイシュルに身を寄せると聞いてきた。

「もう、会えないのかな…」

「そんなことはないさ。いつかまたきっと、どこかで会える」

 イシュルは笑みを浮かべるとシエラに頷いてみせた。

 ただの慰め、その場限りのおためごかしで言ったつもりはなかった。これから先、もう二度と会えないだろうとわかっていても。再会する可能性がほとんどなくても。

 シエラは突然、微笑みながら眸から涙を流すという器用な真似をして見せ、両手を握って隠していたものをイシュルに渡してきた。

 それは小さな木刻りの飾りだった。ふたりでエレナの依頼を受けていた時、彼女の母から無事お金を受け取った証として、シエラが受け取っていたものだ。

 あの依頼は何度もこなした。その間にエレナからいくつか譲り受けていたのかもしれない。

 それは細かい木目が波うつ、一輪の花の周りに葉をあしらった素朴な飾り物。

「ふふ、ありがとうシエラ。最高の贈り物だよ」

 イシュルは素早く彼女に身を寄せると、彼女の頬、奥の耳の付け根あたりにそっとキスした。

 そして唖然とするシエラに向かって、

「じゃあな。シエラ。またどこかで会おう」

 イシュルは予定を変更して彼女の背後にある、三階建ての建物の屋根にいきなり飛び上がった。

 もう、魔法を使えることを隠す必要はない。

「……!!」

 そしてイシュルは屋根の上から、突然吹いた風の中、顔を真っ赤にして手足をじたばたと動かし、言葉にならない叫び声をあげるシエラを一瞥すると、その目を商会の方へ、そして歓楽街の方へ向けた。

 街を出る前にもう一箇所、寄っておきたいところがある。

 イシュルの姿は屋根の向こうに消えていった。






今回はずいぶんと話が長くなってしまったので、

掲載を2回にわけました。

きりのいいところまで進めたかったので

後半も続けて掲載しました。


次話に関しては予定通り10日後にアップできると思います。

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― 新着の感想 ―
メリリャ・・・ガノンの横スマの叫び声みたいな名前してるのに・・・ああ死んでしまうとは・・・ 衝撃的すぎる。何と背徳な味なのだろう。精霊の活躍があらんことを。
[一言] >もしぼくらに大きな頼み事をすると、そこでおしまいになっちゃう すごい不穏なセリフだな…
[一言] そうしらきみが現れてね」 ☓そうしらきみが現れてね」 ○そうしたらきみが現れてね」
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