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神の魔法具

 朝、明るくなってからも霧雨は止まなかった。

 橋の下に蝟集していた浮浪者たちはすでにいなくなっていた。空に舞うように降る細かい雨の中、みな今日の食い扶持を得るために他所へ出掛けて行ったのだろう。

 街の残飯あさり、物乞い、スリや置き引きなど、まともな者は神殿で手配される種々の仕事、神殿の修理や周辺の掃除、男爵家からどこかの商人が請け負っている街中の下水やエリスタール川下流のどぶさらいなど、彼らにもたつきを得る手段はいろいろとある。

 イシュルはからだを起こすと辺りを見回した。

 人のいなくなった橋の下、何もない地面に子どもがふたり、両膝を抱えて寄り添うように座っていた。四、五歳くらいの女の子と、七、八歳くらいの男の子。髪の毛はボサボサ、顔も黒ずんでいる。着ている服も汚れているが、服そのものはそんなに悪いものではない。

 イシュルは何とはなしにふたりの子どもを見つめた。

 ふたりは兄妹だろうか。ともに俯き加減で眠っているようだが、同じ格好で寄り添うふたりからは何かに堪えているような、かすかな緊張感が滲み出ているように感じられる。

 貧民窟を徘徊する子どもたちはみな、一癖も二癖もあるあるようなたくましい連中で、目の前のような弱っている子どもの姿を見かけるのはめずらしい。

 まだ浮浪者となって間がないのか、日々の糧を得ることができないのだろうか。親に捨てられたのだろうか? 

 ふたりから漂い出る緊張した感じは、子どもなりの恐れや絶望によるものかもしれない。きびしい飢えによる命の摩耗が表に現れ出ているのかもしれない。

 イシュルは近づいてふたりに声をかけた。

「お早う。大丈夫か?」

「……」

 ふたりは顔も上げず、返事もしない。

「おなかが空いてるのかな」

 今度は小さい女の子の方が顔を上げた。だが返事はなく、薄く開かれた眸がぼんやりとこちらを見ているだけだ。

 これはヤバいな……。

「飯、買ってきてやるよ。そこで待ってるんだぞ」

 イシュルは橋の下を出ると、飯を買いに走った。貧民窟のはずれ、街中に入るあたりに小さな広場がある。そこに出ている屋台をめぐり、素朴な木彫りの器と壷を買い、スープを壷いっぱいに入れてもらい、パンをいくつか買って帰った。安物のパンは固く、小さくちぎってスープの中に入れる。

 イシュルが戻ってくると、子どもたちは前と同じ位置にまったく同じ姿勢で座っていた。彼らの前にスープの壷を置くと、匂いにつられてふたりとも顔を上げた。買ってきた木彫りの器に壷からスープを注ぎ子どもたちに与える。

「まずスープから飲むんだぞ。中に入っている芋やパンは後からだ」

 子どもたちはがっつく力も残っていないのか、おとなしくゆっくりスープを啜りはじめた。

「ありがとう」

 イシュルの買って来た飯を食べ終わると、女の子が小さな声でお礼を言った。男の子の方もイシュルに目をあわせ、お礼をいってきた。

 子どもらはその後また眠りにつき、夕方にはイシュルがまた飯を買ってきて子どもたちに与えた。夜になると雨が止んだ。雨が止むと、夕方から少しずつ混み始めた橋の下から今度は人がいっせいにいなくなり、橋の下はまたイシュルと子どもたちだけになった。

 二回の食事で子どもたちにも少し元気がでてきたようだ。ふたりの間から漂っていた緊張した感じ、暗い雰囲気がだいぶなくなった。

「俺はちょっと出かけてくる。ふたりとも、明日も飯を食わしてやるからここにいるんだぞ」

「うん」

 男の子と女の子、ふたりそろって返事が返ってきた。


 イシュルは貧民街から歓楽街のツアフの店へ向かった。

 ツアフの店のある裏道に入る前に尾行する者がいないか、不審な動きをする者がいないか、充分にあたりに気を配る。裏道にも人影はない。店の中もツアフひとりのようだ。店の扉を開けると昨晩と何ら変わらず黒いマントで覆われたツアフがいた。

「いらっしゃい」

「辺境伯の手紙の写し、持ってきたか」

 イシュルはツアフの前にある机の傍まで寄ると声をかけた。

「ええ」

 ツアフは机の下から巻紙をひとつ取り出すとイシュルの前に広げた。

 イシュルがその文面に目を通す。子どもの頃、ファーロの書斎で昔の王都の役人や、もちろん実際は書記官の書いたものであろうが、何代か前の辺境伯の書簡も読んだことがある。彼には領主や貴族、役人らの書簡や私文書、公文書類の書面がどんなものか判別できる知識があった。

 ツアフが広げた写しの文面は、書式や文体、文章の節々に使われている慣用句や修辞などから、貴族の、辺境伯から出された手紙とみて間違いなさそうだった。

 辺境伯の出した手紙にははっきりと、レーネの所有していた風の魔法具をどんなことをしても探し出せ、と書かれていた。村のすべて、特にベルシュ家を徹底的に捜索し、家人を拷問しても在処を突き止めよ、と書かれていた。

 イシュルは怒りにからだが震えそうになるのを必死に抑え、顔の表情が変わらぬよう気をつけて言った。

「文章に不自然な点はないな」

「それは良かったわ。残りは三千ね」

 薄い唇を醜く歪めた薄笑い。ツアフの表情はいつもと変わらないように見えた。

 

 夜道を貧民街に向かいながら、イシュルは心の中で辺境伯に怨嗟の言葉をぶつけていた。

 レーヴェルトめ! 愚か者め! 

 いくら自領が赤帝龍に荒らされ窮地に立たされているからといって、他の村の人々を殺してしまっては意味がないではないか。もし仮にレーネの風の魔法具を入手し、赤帝龍を倒したとしても、ベルシュ村の者を皆殺しにしていたらなんのための魔法具なのか。自分のところの領民だけ助かればそれでいいというのか。それで銀山の採掘が再開されようと、ベルシュ村で失われた命は帰ってこない。

 そんなことは許されない。たとえ王国において公爵と並ぶような家格であろうと、王家がそれを許そうとも、俺が許さない。こちらは家族を失ったのだ。いや、帰る家、帰る故郷さえ無くしたのだ。

 イシュルが橋の下に戻ってくると子どもたちはすでに眠っていた。ふたりで抱き合うようにして横になっている。昨日感じた暗い緊張感が消えていて、子どもらしい寝姿に見える。

 イシュルは寝ている子どもたちを無言で見下ろした。

 前世では彼にもふたりの子どもがいた。もし前の世界でもこちらと同じように時間が流れているとしたら、ふたりとも、もう大人になって仕事をしているような歳だ。ふたりとも成長して、彼には自分の子と判別がつかないほど様変わりしてしまっているだろう。

 自分の子どもと離ればなれになり、もう二度と会えない、そして両親と弟を、肉親を一度に失うこの苦しみの、なんという辛さよ。

 イシュルの眸から涙がこぼれ落ちた。

 子どもたちの寝顔は川面に揺れる光に照らされて、目や鼻、額や顎と、その照らすところが目まぐるしく変わっていく。横につぶれて広がった頬と、半開きの唇が子どもらしく可愛らしい。

 ふたりから漂う日常の、当たり前の安らぎ。

 人の命とは本来、このように尊いものではなかったか。

 もうそろそろ夜には肌寒さを感じる頃合いだ。イシュルはマントを脱ぐと、子どもたちの上にそっとかけてやった。

 



 翌日はよく晴れた。

 イシュルは子どもらを連れ、昨日飯を買ってきた方とは反対側にある、エリスタールの街全体の西のはずれ、まわりに人家も少なく、木々に囲まれた大きな広場に向かった。広場の真ん中には井戸があって、十人あまりの老若男女が服を脱ぎ、からだを洗ったり、服を洗ったりしていた。中には若い女も混じっていたが、本人も、そして周りもまったく気にする者はいない。

 イシュルも裸になって服を洗い、からだを洗い、子どもたちも同じように洗わせた。服を乾かす間、三人でいっしょにイシュルのマントにくるまった。

 子どもは少し体温が高い。三人でマントにくるまると、すぐにぽかぽかと心地よい暖かさに包まれた。子どもたちは頭をこくり、こくりと揺らして早くも舟を漕ぎはじめた。

 イシュルは顔を上げ、目をすぼめて木々の枝葉の間に輝く太陽を見た。

 短い間だがふたりの子どもたちと過ごして、久しぶりに人間らしい気持ちを取り戻すことができた気がする。

 人の命は確かに尊い。復讐は確かに虚しい。自分まで人殺しの身に落ちて、さらに人の死を重ねていくのだ。復讐しようが、何をしようが、失われた命はもう二度と戻ってこないのに。

 その考えはもっともなことだと思う。正常な判断、思考だと思う。

 だが、男爵と辺境伯、彼らを許す気はまったくなかった。復讐をやめる気はまったくなかった。

 その尊い人の命の多くを、まるで虫けらのように踏みつぶしたのは誰か。彼らの罪を見過ごすことこそ人の命の尊厳を踏みにじることにならないか。

 自分に彼らを殺す権利がないというのなら、彼らを許す権利もまたなかろう。罪と罰は等しく計量されるべきだ。神が、王がそれを成さないというのなら、自分がやるしかない。


 服が乾くと、今度は貧民街を横切り、昨日飯を買ってきた小さな広場に向かう。途中、街を左右に横切る大きな道に出た。右手に昔は砦だった、エリスタールのもうひとつの神殿が見える。あの不思議な美しい女神官に出会った場所だ。

 そうか、あの神殿は孤児院をやっているんだった。

 この子たちをあそこに預けよう。

 ただ、いきなり子どもたちを連れていって、孤児院で預かってくれ、と言っても断られそうな気がする。よくわからないが、親や第三者の委任状みたいなものとか、保証金みたいなものが必要になるのではないだろうか。寄付金を積めばなんとかなるのか。後で話を聞きに行ってみよう。

 また、あの美しい女神官に会えるかもしれない。

「ねぇ、どこに行くの」

 横見して神殿を見つめるイシュルに何か感じたのか、女の子が聞いてくる。

「うん?飯だ。店で昼飯食おうぜ、な? そろそろ肉を食べても大丈夫だろう」

「うん!」

 今度は男の子の方が大きな返事をした。


 広場に立ち並ぶ屋台で、肉料理を出す店を見つけ、三人で遅い昼飯を食う。

 屋台の、傷んだ木の板を渡しただけのカウンターに三人で並んで座った。屋台のおばさんに牛すじを煮込んだスープとパンを注文する。この界隈では安い肉しか出回らないのだろう。肉料理といってもすじ肉を使ったものくらいしかない。

 三人で並んで飯を食いながら、イシュルは子どもたちの身の上を聞き出した。

 兄妹の兄の方の名はカミル、妹の方はミーナといった。

 カミルの話によると、兄妹の父親はこの街で銅細工を扱う職人をしていたが、一年ほど前に、ひとりだけいた見習いの職人に工房の銅板や売上を持ち逃げされ、そこから借金がかさみ、生活が苦しくなっていったという。ある朝起きてみると両親が消えていて、銀貨や銅貨が十数枚と、よほど慌てて書いたのか、荒れた字でなぐり書きされた置き手紙があった。手紙には、神殿に行ってその金を預け、面倒を見てもらいなさい、と書かれていた。子どもたちは呆然としてしまって、何もできずにいる間に金主が現れ、親が残していった金を金主に奪われ、貧民街まで連れていかれて銅貨を数枚だけ渡され、突き放されたのだという。兄妹の両親はあまりよろしくない筋から金を借り、余程切羽詰まった状況だったのか、それとも子ども相手なら金主も見逃してくれると考えたのか、カミルは一応文字が読めたので手紙と金を残し、自分達だけで夜逃げしてしまった。

 子どもを連れて夜逃げできないのなら、せめて自分達で神殿に預けにいけばいいのに、その時間もとれなかったということか。

「……」 

 イシュルはため息をついた。

 子どもたちはその時のことを思い出してしまったのか、途中から食も進まず、ふたり揃って俯いてしまっている。

「おまえたちの父さん母さんは、ほんとうはおまえたちを連れていきたかったんだ」

 イシュルはふたりの肩に抱えるようにして手をまわした。

「だけど、借金取りが恐い人たちで、それができなかったんだな」

 子どもたちが揃って泣き出した。

「大丈夫、いつかお父さんお母さんにも会えるさ。何年かしたらおまえたちを迎えにくると思う。代わりに俺が神殿まで連れていってやる。お父さんお母さんが迎えにくるまで、神殿の孤児院でしっかり勉強するんだぞ。な?」

「う、う、う」

 カミルとミーナは泣きながら頷いた。

 イシュルはその後も必死で慰めた。俺も両親はもういないんだ。そんな子どもたちは世の中にはたくさんいる、おまえたちだけじゃないんだぞ、親がいなくてもみんながんばって生きているんだ。と、そんな感じである。

 時間はかかったが、ふたりはどうにか泣き止んだ。

「神官さまには、おじさんがお願いするの?」

 ミーナが聞いてくる。ミーナはなかなかしっかりしているがまだ小さい。彼女にはイシュルも「おじさん」に見えるらしい。

「おじさんじゃありません。おにいさんです」

 イシュルがおもいっきり素にもどって仏頂面で言うと、今度はあらぬ方からしくしくと泣く声が聞こえてくる。顔を向けると、お店をやってるおばさんがもらい泣きしていた。

 イシュルはまたため息をついた。




 橋の下へ戻る途中、イシュルは子どもたちに先に戻っているよういいつけ、あの女神官のいた神殿に向かった。彼女に会い、ふたりを孤児院に入れてもらえるよう条件や手続きなどを聞いてこよう、と思った。空きがないとか、手続きなどに時間がかかる場合は金の力でなんとかしようと考えていた。

 明日の夜は城で収穫の宴が催される。明日の日中には子どもたちを神殿に預けなければならない。


「……あの、あ、う」

「なんでしょう」

 イシュルは神殿の、以前老神官とスリの子どもたちが話していた事務室のような部屋に通され、机を挟んで女神官と向かい合っていた。

 向かい合っていたのだが。

 向かいに座る女神官は、あの美しい、妙齢の女神官ではなかった。やや小太りの、中年の、どこにでもいるような平凡なおばさんだった。

 イシュルの格好は商人服にマント、剣を背負っている。これから何かの用事でひとり旅に出る、あるいは帰ってきた商人、という風に見える。街中で商いをやっている家の者だがお聞きしたいことがある、と前置きして、目の前に座っている中年の女神官にこの部屋に通された時、ほかに神官の姿はなく、今日は彼女はいないのか、運が悪かった、程度にしか思わなかったのだが、応接してくれた中年の女神官にこの神殿にいる神官について、つまりあの美しい女神官についてなんとなくさぐりを入れてみると、以前からこの神殿には、あの時スリの子どもたちと話していた神殿の神官長である老神官と、目の前に座っている中年の女神官しかいないのだという。

 だとすると、あの時会った若い女神官は何だったのか。

 一時的に他所の神殿から出向してきていたのだろうか。なんとか取り繕ってそれらしい質問をしてみても、こんな貧民窟の小さな神殿に他所の神官が派遣されてくることなどほとんどない、という至極当たり前な答えしか返ってこない。

 イシュルは戸惑ってしまい、二の句が継げなかった。

 自分の見た、あの女神官はいったい誰だったのか……。

「あの、お聞きしたい、とはなんでしょうか」

 中年の女神官が無愛想に聞いてくる。傍目にも動揺しているのがわかるのに、イシュルのことを気にかけたりする様子は微塵もない。

「あ、ああ。そうでした。貧民街で偶然、親に捨てられた可哀想な子どもを見つけましてね」

 イシュルは、ひきつった笑みを浮かべて言った。

「これも神の思し召しかと思い、彼らに衣食を与え、面倒をみようと思ったのですが、急にこの街を出ていくことになりまして。この神殿は孤児院もやっているということを耳にしたので、子どもたちの面倒を見ていただけないかと」

 ところどころ嘘をまぜて話をつくる。事情なんてどうでもいいのだ。目的は子どもたちを預かってもらうこと。最後は金で強引にねじ込む。

「はあ、そうですか」

 女神官はうさんくさげにイシュルを見つめてくる。

 生活に困った親が同じようなことをいって、神殿に自分の子を押し付ける例も多いのだろう。

「何か手続きが必要になりますか? 当の子どもたちを連れてくる前に、教えていただこうかと思いまして」

「その前に、孤児院の方はもういっぱいで」

 女神官が無表情に言ってくる。

 孤児院がいっぱいなのは事実だろう。だが子どものひとりやふたりくらいはどうにでもなる筈だ。

 イシュルは腰の後ろにまわしていた、銀貨がいっぱいに詰まった革袋を取り出して机の上に置いた。袋の口を開けて中身を見せる。中には銀貨がぎっしり詰まっている。

「今、ここにあるだけでざっと銀貨五十枚、五千シールはあります」

 女神官の表情が変わった。

 貧民窟にある神殿ではなかなか見ない金額だろう。

「子どもたちを預かって、できれば将来は神官になれるよう、しっかりとした教育もしてやってほしいのです。そのためにぜひ、高額の寄付をさせていただきたい。明日にはより多くの金額を用意できます」

 五千シールより多額の寄付……。

 今度は女神官の方が不審な態度をとりはじめた。目が見開かれ、額に汗が浮かぶ。明らかに動揺している。

「わ、わかりました」

 女神官は唾を飲み込み喉を鳴らした。

「手続きは簡単です。お名前と、預ける子どもの名前、お布施の金額を書いてくだされば……」

「なるほど、そうですか。ではまた明日、子どもたちを連れて伺います」

 イシュルは銀貨をひとつかみ、十数枚ほど机の上におくと、

「これは前金として置いておきます。あなたを信用して、受領を証すものは何もいりません」

「あ、ありがとうございます。お待ちしています」

 女神官はイシュルを迎えたときとは違って、神妙な態度で頭を下げてきた。

 

 イシュルは神殿を出ると、歓楽街のはずれまで行き、自分と子どもたちの夕飯を買い込み、今や定宿となっている貧民窟の橋の下まで戻ってくると、待っていた子どもたちと夕食を食べた。夕食はパニーニに似た、柔らかいパンに肉や野菜をはさんだものだった。

 イシュルは子どもたちに神殿の孤児院に入れるようになった、と報告した。

「明日、連れていってやるからな。いっしょにいこう」

 子どもたちが笑顔になった。

 子どもたちが寝つき、夜もだいぶ更けて街に人影がなくなる頃、イシュルはフロンテーラ商会に向かった。

 明日の夜、男爵家に報復した後はなるべく早く街を出た方がいい。今晩のうちに服を着替え、明日の準備をし、その後の旅装も整えておく。もちろん自室に隠してある金貨も回収しておく。

 イシュルは明日神殿に子どもたちを預ける時には、思いきって金貨一枚まるごと寄付しようと考えていた。それだけ寄付すればさすがに、あの子たちにしっかりとした教育をしてやらねばならないと神殿の者も考えるだろう。いや、教育してもらえるように交渉もできるだろう。あのふたりの出来がいいのなら、本当に王都の神学校にでも行って立派な神官になってほしい。神官というのは、身よりのない者が年老いても安心して生きていける、ある意味最も安定した身分でもあるのだ。

 子どもたちの身の振り方についてはそれでいいだろう。これからフロンテーラ商会に行くことも既定事項だ。

 問題は、今日、貧民街の神殿に行って明らかになった不可解な謎、以前にあの神殿で出会った、美しい女神官がいったい誰だったのか、あれはいったい何だったのか、ということだ。

 イシュルは川沿いの道を歩きながら、あの時のことを思い起こした。

 彼女と出会った時の、あの不思議な現れ方と消え方、彼女から感じられた、ただ美しいだけでない神々しいまでの存在感。あの部屋にあった、女神ヘレスの彫像と重なる彼女の姿……。

 この大陸には古くから、神々が時に人前にその姿を現し、時に奇跡を行う伝承が数多く伝わっている。

 この世界には魔法もあるし魔獣もいる。神々が実在してもおかしくはないのかもしれない。レーネも若かりし頃、森の奥の昔の神殿の遺跡で、実際に風の神、イヴェダと会ったのかもしれない。

 ではあの美しい女神官は主神、ヘレスだったのだろうか。彼女はあの時、あの神殿に所属する女神官のように振る舞い、自分の名前まで聞いてきた。

 その意図は何だったのだろうか。

 村を出、エリスタールに向かう途中で会った不思議な老人、彼は地神ウーメオによく似ていた。何をしゃべっているのかわからず、何の意思疎通もできなかったが。

 彼らがもし、“神”であるとするのなら、自分の前に姿を現したのはなぜだろうか。

 あの女神官は神々しい存在感を周りにまき散らす一方で、こちらをちょっとからかっているような、何か遊んでいるような、少し楽しそうな雰囲気さえ漂わしていた。

 彼らが自分に接触してきた理由、それが何なのかと問われれば、今の自分に思い当たることはひとつしかない。それは風の魔法具だ。

 イシュルは歩きながら自分の胸に手を当てた。

 当てた手を強く握りしめる。

 自分の中に宿る風の魔法具、“イヴェダの剣”は、彼らが接触してくるほどのもの、彼らが関心を持つほどのものだ、ということなのか。

 昔、森の魔女レーネに殺されそうになったあの夜、風の魔法具を身に宿したあの夜、エクトルが言った言葉だっただろうか。それは、“神の分身”。

 それは神器、神の魔法具。神々が自ら関心を寄せるもの。

 それをただ単純に、神から授けられた最高位の魔法具、と考えるのは危険かもしれない。

 ただ単に、強力な魔法の力を得た、とそれだけで済ましてしまうのは危険だろう。

 森の魔女レーネが死んだ時に現れた蛇と剣、触れた瞬間に消えてしまったあれは始まりに過ぎない。

 あの時のように触れても消えない、消すことのできない何か。人の世にあらざるもの。魔法や、ひょっとすると神話や伝説の、もっと先にあるもの。

 俺はどこに向かおうとしているのか。

 主神ヘレスの微笑み。

 彼らはただ見ているだけなのか。それとも……。

 神器、神の魔法具を持つということ。今、その事の本当の意味を自分は知ろうとしているのかもしれない。

 歩みを止め、イシュルは呆然と道の先、何もない暗闇に目を漂わせた。

 そして目をつむり、また目を開くと、今度はしっかりと先を見据え、両手をぐっと、固く握りしめた。

 街を覆う静寂の中、今度は少し歩を早め、歩きはじめた。




 イシュルはフロンテーラ商会のある道の手前までくると、曲がり角に建つ家の影から商会の方へ目をやった。街の北へ伸びる夜の道は月の光を浴びて、青白く光っている。もちろん人影ひとつ見えない。

 イシュルは道の左側に並ぶ建物の軒下に沿うようにして道の端を歩き、商会へ向かった。

 商会まで数件ほど手前に来た時、商会の建物と、その奥の建物の間に人の気配を感じた。通りの方へ出ようとしている。

 見張りか?

 イシュルは左側の建物の壁に身を寄せた。

 商会の建物と隣の建物の間から、頭に深いフードをかぶった、黒いマント姿の人物が出てくる。マントの裾から見える足許、華奢なからだのラインから女性のようだ。

 誰だろうか?

 男爵側の見張りのようには見えない。

 マント姿の人物は商会の前に出てきて、建物の上の方を見上げている。

 ふむ。あの人影はシエラかもしれない。

 彼女なら俺のことを心配して、時々はこうして店の様子を見に来てくれていてもおかしくはない。ただ時間が時間、だが。

 彼女に迷惑はかけたくないので、今まで彼女とは会わないようにしてきた。だが、このままやり過ごすのも彼女に悪い気がする。ここはあえて声をかけて、今までのことをかいつまんで話し、一応安心してもらった上で、以後危険な行動をしないようしっかり釘を刺しておこう。その後は身の回りを充分警戒しながら、彼女の家の近くまで送ってあげることにしよう。

 イシュルは道の反対側の建物の軒下から出て、マント姿の人物の方へ歩いて行った。

 ふたりの距離が近づく。

 マント姿の人物が近づいてくるイシュルに気づき、顔を向けてきた。

 フードの影に隠れていた、その美しい容貌が月の光に照らされる。

 イシュルは呆然と、全身が固まった。

 彼の目が驚愕に見開かれる。彼は叫んだ。

「メリリャ!」

 


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