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潜入 3

 イシュルは先に、目の前の机の上に十数枚の銀貨を積み、その横にマティアス金貨を一枚置いた。

 フロンテーラに行くときに万が一のことを考え、自分の金もそれなりに持ってきている。懐にはまだ銅貨が何枚かと、セヴィルにもらった餞別もある。

「マティアス王金貨……。坊やはお金持ちね」

 先に見せ金を出してきたイシュルの意図を読んだのか、ツアフの薄い唇が醜く歪んだ。笑っているのだ。

「今夜は儲けさせてもらえそうね。ではなんなりと訊いてちょうだい」

 ひひひ、と気味の悪い笑い声がフードの下から漏れてくる。

 生前のステナはまさかこんなにふうではなかったろう。

「この前起きた、男爵のベルシュ村焼き討ちに関することで、いろいろと訊きたいことがある」

 ツアフの皮肉に歪んだ笑みが深くなる。

「大変なことになったわよねぇ。おかげであたしのところも繁盛しているわ」

「だろうな」

 イシュルは内心に沸き上がる不快感と怒りを押し殺して答えた。ベルシュ村に関係のない他所の者にとって所詮は他人事、対岸の火事でしかないだろう。

 ただそんな感情面を抜きにして、いろいろな身分や生業の者がベルシュ村で起きた事、その顛末を知りたがっているのも確かなことだろう。

「それで、知りたいことは何? ベルシュ村で実際にどんな事が起きたか、知ってるのかしら」

「それはいい。ああ、誰が生き残ったとか、そんな情報はあるか」

「あたしのところにはないわね。ただ、ベルシュ村の東側は深い森だから、うまく森の奥にまで逃げて助かったひとはいるんじゃないかしら。森には木こりや猟師小屋もあるでしょうし」

「そうだな。だがそんな一般論じゃ金はやれないぞ」

「もちろん」

 生き延びた者がいるか、こればかりは今は運を天に任すしかない。

 イシュルは手前の机にかるく身を乗り出した。

「村が襲撃された後、エリスタールでもベルシュ村の出身者が男爵の手の者に捕われている、という噂を耳にしたが、それは事実か」

「ええ。数名だけど、実際に捕らえられてお城か騎士団の庁舎で尋問されたようね。ただベルシュ村の村人のように手荒なことはされず、すぐに放免されたみたい。街でベルシュ村と同じようなことをするわけにもいかないでしょうし、男爵もさすがにやりすぎたと反省してるんじゃないかしら」

 ツアフはそこでふふ、と声に出して小さく笑った。

「二百シール(百シール=百銅貨=一銀貨)でいいわ」

 イシュルはかるく息を吐くと、手許の銀貨二枚をツアフの方へ押しやった。

 エリスタールでベルシュ村出身者の身に酷いことが起きていなかったのはよかった。顔も名前も知らない人々でも、同じ村の出身者に不幸なことがなかったと知れただけで、涙がでそうになるくらいうれしかった。

 復讐に燃え、心の内に怒りが渦巻いてる筈なのに、一方でだいぶ気弱になっている部分もあるらしい。

 イシュルは気を引き締め、次の質問をした。

「ブリガールが反省している、というが、実際のところはどうなんだ? 今、ブリガールは何してる? 王家の懲罰を恐れて城に籠って怯えてるんじゃないか」

 ツアフはその口を笑いの形に歪めたまま、答えた。

「ブリガールは今、エリスタールにいないわ」

「なんだと」

 どういうことだ?

「とはいっても、明日明後日には帰ってくるわ。男爵はヨエルにお忍びで出かけていたの。ヨエルで義父の王国騎士団長と会って、王家に工作をお願いしてたみたいね」

 なるほど、ヨエルは王都ラディスラウスにほど近い街だ。しかもエリスタールからなら王都より近い。伯爵位を持つ王国騎士団長の領地も近隣にあった筈だ。

「辺境伯領のゴタゴタが収まるまで王家に大きな動きはないわ。その間に義父に宮廷工作をお願いしたんでしょうね。王国騎士団長である伯爵家と男爵家の婚姻をまとめた大臣はもう故人だし、男爵本人や王国騎士団長の人脈程度じゃ、王家に運動したからといってたいした効果があるか疑問だけど」

「ふん」

 イシュルもうすく笑う。

「で、政治的にヤバい立場にたたされてしまった男爵さまが、わざわざ急ぎ戻ってくるとはどういうことだ? 収税時期で領主がいないとまずいからか。男爵主催の収穫の宴もやはりやらないとまずいのか? いつもならもうやってないとおかしい頃だと思ったが」

 話のつなげ方が少し不自然だったろうか。イシュルはもっとも訊きたかったこと、ある意味もっとも勘ぐられたくない質問を、前の話題につけ足すようにしてツアフにぶつけた。

「そうね。領内をこれ以上不安定にはできないし、これまで以上にきちんと領主の務めを果たさないと。収穫の宴も三日後にしっかり行われるわ。街の有力ギルドや金持ち連中に招待状が送付されているのは確認済みよ」

 ツアフは歪んだ笑いを引っ込めると言った。

「男爵の動きと収穫の宴の情報、ふたつで一千シールね」

 お城で収穫の宴が行われるのは確定か。三日後か。これは朗報だ。やつの政治的立場、最悪領地や爵位を取り上げられる可能性もあるんだろうが、そんなことはどうでもいいことだった。どうせ王家の裁定がおりる前に殺してしまうのだから。

「…それと、辺境伯が男爵に出した、風の魔法具の所在確認の命令はどんな文面だったんだ?詳しくわかるか?」


 ツアフのまわりの空気が変わった。さきほどまでの幾分侮蔑の混じった皮肉な態度が、真面目で緊張感をはらんだものに変わった。

「坊や、まだ若いのにえらいわねぇ。どんな方々とおつきあいがあるのかしら」

「そんなこと聞いてどうする」

 イシュルは威嚇するような笑みを浮かべてみせた。

 たとえ依頼主だか雇い主がいたとしても答える筈がなかろうに。

 ツアフとは以前にジノバの件で取引した事がある。あの後ジノバがどうなったか。こいつが知らぬ筈がない。当然あの時のことは憶えているだろう。

 ツアフがイシュルの、彼の背後にいるかもしれない存在に関心を持つのも仕方がないことなのかもしれない。

 辺境伯が男爵に出した書簡がどのようなものだったのか、命令だったのか、要請か、依頼程度のものだったのか、ある者にとってそれは大きな関心事となりえる。

 男爵家の旗頭として、主に軍事面で命令権を持つ辺境伯が、例えばベルシュ家や村全体を対象に、どんな手段をもちいてもよいからかならずレーネの風の魔法具を探し出せ、などと厳しい命令を出していたら、ベルシュ家にも村にも風の魔法具を秘匿していた事実がなかった以上、今まで領主に歯向かうこともなく、納税も滞ることなく続けてきた模範的な村を壊滅させた責任は、より強く辺境伯にも及ぶことになる。

 その内容が穏便な要請や依頼程度であれば、辺境伯が追求されるのは形式上の男爵の監督責任だけで済む。正式な命令でなければ、村の壊滅は男爵の暴走だ、男爵の残虐性故だ、などといくらでも責任逃れができるだろう。繰り返しになるが風の魔法具が見つからなかった以上、模範的な自領の村を敵国の村でもないのにいきなり壊滅させてしまうなど、やることが尋常ではない。

 ベルシュ村壊滅の責任が辺境伯にまで及んだ場合、王家とも遠戚関係にある辺境伯に何かの処罰が下される可能性はほとんどないとしても、辺境伯の王国内での政治的な立場に微妙な影響がでることは避けられない。赤帝龍のクシム銀山襲撃で辺境伯は王家の力も借りることになるのではないか。辺境伯は王家に大小の借りをいくつもつくることになる。辺境伯と王家の力関係は以前とは違ったものになるだろう。

 命令か否か。それを気にするということは王家と辺境伯の力関係の変化に強い関心をもつ者、ということになる。

 対象は王家や宮廷に出仕する大臣ら、王国内の大貴族、周辺国の然るべき立場の者、聖堂教会の中央に近い者、あたりになるだろうか。

 ツアフに漂いはじめた緊張した空気、それはイシュルの背後に大物の存在を嗅ぎ取ったからだろう。

 この街の歓楽街の顔役でしかなかったジノバに関する取引の件も考慮すれば、その点疑問が残るところだが、当のジノバは襲撃したイシュルを聖堂教会の秘密組織の者と勘違いした。ジノバ邸襲撃はエリスタール城内にある主神殿の神官どもや、男爵の家令であるヴェルス、もし男爵本人も関わっていたら、彼らには強烈な威嚇になったろう。

 ただもちろん事実はまったく違う。イシュルの関心は辺境伯が復讐の対象に含まれるか、否か、ということだ。

 イシュルは笑みを浮かべたまま、ツアフの推理を後押しするようなことを言った。

「見てのとおり金はある。おまえが信用できる情報を持ってるのなら、支払いに糸目はつけないぞ」

 ツアフはめずらしく固い口調で答えた。

「辺境伯がブリガールに出した手紙には、レーネの風の魔法具、“イヴェダの剣”をかならず探し出せ、ベルシュ家が隠匿しているのならどんな手段をもちいても奪え、とあったわ」

「それは本当か」

「ええ。あたしが入手したものは写しだけど。信頼できるものだわ」

「……」

 イシュルは何も言わず、値踏みするような目つきでツアフを見つめる。

「男爵家には取引きさせていただいてるお客がたくさんいるのよ。上から下まで」

 皮肉めいた台詞の内容とは裏腹に、ツアフは真剣な口調で言った。

 辺境伯の書簡の中身、それは男爵にごく近い筋からもたらされたものなのだ。

 男爵家の、上から下まで。顧客の素性を晒す危険なひと言、ともいえるかもしれない。そこまで晒してこちらに信用してもらいたいわけだ。買ってもらえるような信用を得たくば、わざわざ情報提供者の素性を明かさずとも、その写しを見せて文面から判断してもらう、ということもできる筈だ。支払いに不安があるのならその手紙の写しを見せる前に前金を多めに請求すればいいだけだ。

 やはりこいつの行き着く先も、ステナと同じことになるかもしれない。

 情報屋だからこそ、口を堅くしなきゃいけない事もあるんじゃないか。

 こいつは金が欲しいわけじゃない、情報を教えたいのだ。ただひたすら情報のやりとりをしたいのだ。

 誰かと秘密を共有する、秘密を世間にバラまく、そんなことじゃない。情報のやりとりをする狭間に垣間見える、その奥にあるかもしれない危険な何かを直に見たいのだ。触れたいのだ。見れば目が潰れるかもしれない、触れれば火傷するかもしれない、それでも。

 魔法具の、魔法の、呪文の秘密。それを知ろうとしている俺とどこに違いがあるだろうか。

 一瞬、昨日の、夜の川面に照らされたモーラの顔が浮かんだ。

 イシュルもツアフを厳しい視線で睨んだ。

 わざと一拍あけて話す。

「いいだろう。その情報、買ってやろう。ただし後日、その手紙の写しを見せろ」

「わかったわ。明日にでも用意できるけど。写しそのものはいらないの?」

「いらない。現物を手配できるのならべつだが」

「それは……」

 さすがにツアフも言葉につまる。

 俯いたツアフを横目に、イシュルは他に知りたかったこと、獄舎の間取り図に関してはその必要性がなくなったが、城の居館の間取り図や城の秘密の抜け道について質問すべきか考えた。

 今の、ステナになったつもりでいるツアフが、イシュルを傭兵ギルドに登録した、フロンテーラ商会に勤める商人見習いの少年であると認識できていないのは確かだ。なら、情報屋であるツアフのイシュルに対する今の誤解、イシュルの背後に大物が存在するかもしれない、というツアフの推理をそのままにしておいた方が都合が良いのではないか。

 王国国内の有力者が、わざわざエリスタール城の居館の構造や城の抜け道に関心を持つだろうか? 王家や宮廷にはその程度の情報など古くから把握されているだろう。

 エリスタール城の居館の間取り図や、城の秘密の抜け道などに関する質問はその意図があまりに露骨すぎて、薮蛇になりかねない。イシュルの目的に関する撹乱どころか、その目的を容易に悟られてしまうだろう。

 その後のことはともかく、男爵を殺すまでは情報屋に間違った判断をしてもらっておいた方が安全だ。目の前の情報屋は、男爵家と顧客としてしっかりつながりを持っている。

 イシュルは質問するのをやめることにした。

「では明日、また来よう。支払いはその時でいいか」

「前金で二千頂戴。残りは三千。写しを見せた時に」

 金貨を渡すとツアフはしっかりおつりを渡してきた。イシュルの目の前に小さな銀貨の山ができる。

「おまえこそ金持ちじゃないか」

 イシュルは腰のベルトに吊るした革袋に、おつりの銀貨を詰め込みながら言った。金貨は使いづらいがかさばらないのが良かった。

「ふふ。そう思うなら、ぜひとも売って欲しい情報があるのよ。いくらでも払うわ。もし坊やが知っているのなら、だけど」

「なんだ?」

 丸くふくらんだ革袋をマントに隠れるよう腰の後ろにやりながら、イシュルは興味なさげに答えた。

「それはもちろん、今、王国の当事者たちの間で一番関心を集めていること」

 イシュルが目を上げる。

「風の魔法具よ。イヴェダの剣、が今どこにあるのか。誰が持っているのかしら」




 イシュルはツアフの店を出ると、いつかのスリの少年のように、人気のない裏道をジグザグに進みながら、貧民街の方へ向かった。

 いつからか霧のように細かい雨が降り始めた。イシュルはフードをかぶり、暗い夜道を歩きながら今日の寝床をどこにするか思案した。

 まさかフロンテーラ商会に戻るわけにはいかない。あそこは見張られている可能性がないとはいえない。少なくとも定期的に家主が帰ってきていないか、男爵家の者が見に来ているだろう。

 今着ている服も、着替えの分も丸ごと取り替えたいし、自室には残りの金貨を隠してある。城で行われる収穫の宴の前に一度は寄らないといけないだろうが、商会に寝泊まりするなんてことはとてもできない。

 男爵家の収穫の宴まであと三日、潜伏するのならやはりその場所は貧民窟がいいだろう。あそこは領主の持つ領民の徴税台帳に記載のない者が集まるところだ。貧民窟に暮らす者、あそこに建つ家々はそのほとんどが租税の対象になっていない。男爵家はどんな者があの区画にいるか把握していないのだ。

 どの地でも貧民窟の存在は為政者にとって必要悪として黙認される。普段は最下層の労働力の供給源として、何かあれば真っ先に差し出され、何かのかわりに切り捨てる存在として使い道がないわけではないのだ。

 貧民窟に入ると、街の川沿いにいくつか木造の橋が架けられている。イシュルは雨宿りのためにそのひとつの橋の下にもぐりこんだ。

 霧雨のせいで橋の下には先客がたくさんいた。イシュルは横になっている何人かの浮浪者をまたぎ、空いてる場所を見つけてマントを自分のからだに巻き付け、横になった。

 あたりに漂う悪臭は予想していたほどではない。あと丸二日、我慢するしかない。

 ツアフに風の魔法具の在処を知らないか、と聞かれた時、イシュルはその情報はとてもおまえに払える金額ではないだろう、と揶揄した。そこでツアフはいつもの調子を取り戻し気味の悪い笑みを浮かべたが、あの時のイシュルの発言と態度はあまり誉められたものではなかった。

 失敗したかな、とイシュルはマントの内側の暗闇の中で呟く。

 あれで、ツアフはイシュル自身とその背後の存在をだいぶ絞りこんだかもしれない。今や風の魔法具の在処は男爵や辺境伯だけでなく、王国の権力者たちの関心事のひとつになっている。それを揶揄しそっけない態度で返してしまえば、イシュルとその背後の存在は風の魔法具の情報に関心のない者、ととられることになる。

 王国内の大物、というよりは単に辺境伯の失墜をねらう層、あるいは逆に、風の魔法具の存在などたいして気にする必要もないほど大きく遠い存在、他国の王家や聖堂教会の総本山あたりか。それと、すでに風の魔法具の在処を知っている、もしかしたら所有している者……。

 勘ぐりすぎか。

 男爵家とつながってること以外、ツアフを警戒する必要はない。やつが俺の情報を男爵に売ろうが、男爵に何ができるのか。今、この時期、男爵の動向を調べている大小の勢力は他にもたくさんあるだろう。ブリガールだってそれくらいの事は承知しているだろう。まさかそれで収穫の宴を中止するなど考えられないことだ。ツアフには風の魔法具を所持していること、男爵家を滅ぼそうと考えていることはバレていない。


 すでに風の魔法具の在処を知っている者といえば、フロンテーラの手前で火龍討伐に活躍した少女、大きな杖を持った火の魔法使い、彼女の言ったことが思い出される。名も知らないあの魔法使いは宮廷魔導師だった。

 彼女自身の存在と彼女の発言は、まさしくイシュルにとっては重大事だ。あの時、フロンテーラの手前でベルシュ村へ向かうイシュルを追いかけてきて、彼女とふたりきりで会話をしたあの時、彼女はイシュルが魔法を、おそらく風の系統魔法を使えることを火龍討伐の時にすでに見破っていて、そしてイシュルがベルシュ村の出身であることも、直前にセヴィルらから聞いて知っていた。

 彼女も王国の宮廷魔導師であるからにはレーネの過去の事蹟をそれなりに知っているだろう。

 これらのことを繋ぎ合わせれば、イシュルがレーネの風の魔法具の所有者かもしれない、ぐらいの推理は容易に成り立つ。

 彼女はあの時、「イシュルは大事な用事がある」、「がんばれ」と言ったのだ。 

 彼女のあの時の物言いは舌足らずというか、とてもわかりにくいものだったが、イシュルがベルシュ村へ向かう真の目的が、村で起きたことに関する情報収集よりも、むしろエリスタールで男爵家に報復することではないか、と看破しているように感じられた。イシュルがレーネの風の魔法具を持っているのなら男爵とその騎士団など恐るるに足りない。男爵家を潰すことなど容易いと彼女も考えたろう。

「わたしはしばらくフロンテーラにいる」

「イシュルは大事な用事がある。それをすましたらわたしに会いに来てほしい」

「こちらも大事な用事」

「待ってるから。イシュル、がんばれ」

 彼女の言った言葉、「イシュルは大事な用事がある」が男爵に対する報復の事だとすると、彼女の「大事な用事」とは何だろうか。おそらく赤帝龍討伐の事だろう。イシュルが戻ってくるまで彼女はフロンテーラに留まり王領の警備をしながら、赤帝龍が万が一王領に侵入してきた時に備える。

 イシュルが合流したら、彼は“イヴェダの剣”の所有者である。戦力の充実が成った時点でいよいよ赤帝龍討伐に乗り出す……。

 あくまで推測、いや、ただの憶測かもしれないが、彼女は暗に男爵への報復を認め、いや見逃してやるから、フロンテーラに滞在する自分のもとに来て赤帝龍討伐に力を貸せ、と言っていたのではないか。

 あの時、名前も身分も名乗らなかった彼女の口ぶりからすると、「イシュルの秘密はまだわたし自身の推測でしかないし、わたしの心の内に留めておく、男爵のことはわたしに関係ないから煮るなり焼くなり好きにしてくれ、そのことももちろん黙っておくから、その後でわたしに力を貸してほしい。すべてわたし個人の判断だから、あなたも個人の判断で手助けしてほしい」というような意味がこめられていなかったか。

 いろいろと面倒な問題点を、ふたりの個人的な関係に置き換えて半ばなかったことにしてしまい、ことを進めようとする。だとしたらさすがに宮廷魔導師、なかなか頭の良い子、ということになるが、一方でイシュルは男爵を殺した後に、城を半壊させるくらいまで派手に風の魔法を使ってやろうと考えていた。そうすればレーネの風の魔法具、“イヴェダの剣”の所有者が特定され、王国内外に広く知れ渡ることになる。他のベルシュ村出身者や、もし男爵の襲撃に生き残った者がいれば、以後彼らに風の魔法具に関する嫌疑をかけられる事はなくなるのだ。このことは男爵への復讐同様、イシュルがどうしてもやっておきたい事だった。

 “イヴェダの剣”の所有者として特定され、男爵を殺害し城を破壊した王国の大罪人であるイシュルを、彼女は同僚や王家から庇いきれるだろうか。

 イシュルはマントの中で身じろぎした。

 いや、違う。彼女はその事も計算に入れている。

 彼女には、王国がイシュルのやった事を不問にしてでも、“イヴェダの剣”を自国のものにしたい、と判断することがわかっているのだ。彼女は、イシュル自身の王国への帰属をエサに王家や宮廷と交渉し、男爵を殺害し城を破壊したことも不問にし、赤帝龍討伐に協力させることも了承させようと考えているのではないか。


 ほんとうに彼女がそこまで考えているのか?

 それはわからない。だが、彼女の目的、それが赤帝龍の討伐であること、俺をレーネの風の魔法具の継承者と読み、力を借りたいと考えていることだけは確かだ。

 問題は、俺自身を殺せば“イヴェダの剣”が手に入るかもしれない、ということを彼女や王家の関係者が知っているかどうかだ。もしそれを知っていれば、俺はどこかのタイミングで殺されるだろう。ただ、彼女のあの時の言動からすると、少なくとも彼女自身はその事を知らないように感じられた。殺意はまったく感じられなかった。俺を殺すなら、ふたりきりになったあの時が絶好機ではなかったか。

 魔法に関して学べる利点があるとはいえ、どのみち王国に仕え、宮廷魔導師になる気なんかさらさらないが、彼女以外の王国の魔導師に接触する時は警戒する必要があるだろう。特に王国の中枢にいるような、昔の事蹟をよく知っていそうな老齢な魔導師など。

 男爵家を滅ぼした後、フロンテーラに行き、とりあえずセヴィルらに会ってベルシュ村で起きたことを報告し、商会を辞めることを伝え、その後は彼女と合流し行動をともにする。

 ツアフから得た情報で辺境伯も復讐の対象となることがほぼ確定した。赤帝龍とどう戦うか、どう避けるか、難しい問題もあるが彼女と行動をともにすれば、いずれ辺境伯と直接面会する機会も訪れるだろう。

 男爵を始末した後どう動くか、これで先が見えてきた。

 困難な、油断のならないことはこの先もいろいろと起こるだろう。だが、辺境伯を殺るまですべてうまくやってみせる。

 イシュルは暗闇の中でほくそ笑んだ。

 まずは男爵だ。収穫の宴は三日後の夜に行われる。まだ時間はある。エリスタールの街の者が驚嘆するような演し物にできないか、その間、少し考えてみることにしよう。



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