凶報 1
火の魔法を使った宮廷魔導師の女の子が、兵隊に背中を支えられながらこちらを見ていた。
バレたか?
イシュルは後方に大きく飛ぶと、木の枝伝いに、急いで来た道を引き返した。とりあえず誰かが追ってくる気配はない。
かなり離れていたのに目が一瞬合ったような気がした。夜だし、こちらのいた方が暗かったから、顔を覚えられるほどでなかったと思うが……。
投げたナイフはいい。足がつくことはないだろう。王国に前の世界の警察組織のような捜査能力などある筈もない。それは心配していないのだが、こちらの使った魔法をあの複雑な状況下で、魔法使いのあの少女は認識できた可能性が高い。
まぁ、面が割れてなければ大丈夫だろう。
彼女らもいわば王国のお役人だし、しばらくは事後処理で忙しいだろう。
興奮して、意識が高揚しているのかなんとなく楽観的な気分でそう思った。
イシュルは林を抜け、街道に出ると全速で北上した。
しかし、ゴルンの話に出て来た鏡の魔法具といい、炎でできた龍を生み出したあの宮廷魔導師の魔法といい、あれじゃぁ、もうなんでもありじゃないか。自然科学とか、物理法則とか、それって何?って話だ。
イシュルは夜の街道を駆けながら、己の頬が緩むのを、次第に笑いがこみ上げてくるのを押さえきれなかった。
明け方、まだ暗い間にイマルたちのところに戻ってくると、イシュルは何事もなかったようにマントを脱ぎ、下に敷いて横になった。
ビジェクは薄目をあけて、帰ってきたイシュルをちらっと見たが何も言わなかった。
朝も、ビジェクはもちろん、ゴルンもイシュルが夜中、長い間いなくなっていたことに気づいていたようだが、特に何も言ってこなかった。
その日の午後、街道の封鎖が解かれた。
「混んでるなぁ」
イマルがぽつりと呟く。今はそろそろ夕方、ラジド村に入ろうかという辺りである。街道の右側、西側は木々がまばらになり、牧草地の広がりが南の方に広がっている。
イシュルたちの荷車の前にも後ろにも商人たちの荷車が並んでいる。今は止まり、時々動き、少しずつだがなんとか前に動いている、そんな状況になっている。
封鎖が解かれると、足止めされていた商人の車両がいっせいに動きだしたが、皆固まって進むうちに自然と車間が広がって、ここまで街道は混み合うというほどでもなく、イシュルたちは順調に進んできた。
それがラジド村に入ったあたりで状況が変わってしまった。この先、街道から左側、東に少しそれたあたりが昨晩、火龍と王国軍が戦っていたところだ。そこでは今朝方からおそらく倒した火龍の解体や、その場で負傷者の治療なども行われ、付近の街道は王国軍の輜重関係の車両などで埋まっているだろう。
さらに火龍が討伐されたことで、フロンテーラに逃れていたラジド村の人々も村へ戻ろうとしているだろう。
数は少ないみたいだが、北のセニト村に避難していた人もいたようで、時々、子どもを連れた夫婦などが大きな荷物を背負って、イシュルたち商人の車列を追い越していった。
「こりゃぁ、しばらく無理だな。今日は行けるところまで行って、そこで野宿だ」
と、ゴルン。
「戦争になるとこんな感じになる。火龍討伐は戦争と変わらない、ってこった」
街道の車列は今のところ、ゆるゆるとだが少しずつ進んではいる。
イシュルは朝からいつもの雑用を、街道の封鎖が解けてからは出発の準備をやりながら、昨晩のことをずっと考えていた。
火龍と王国軍、というよりは火龍と宮廷魔導師の戦い、あの女の子の宮廷魔導師の使った魔法に関してだ。
あの宮廷魔導師によって生み出された炎の龍、あれは明らかに“生きて”いた。彼女の意志に従う疑似生命というべきか、あるいはひとの目には見えないという精霊を召還したのか。いずれにしろ、魔法使いの使う、本当の?魔法は自分の考えていたものとはいささか違っていた。いや、風の魔法具を得て自ら感じた魔力をそのままに使うだけのものとは違った。ツアフの使う姿や気配を消す魔法とも、また違うもののような感じがする。
魔法、魔力自体はもともと非科学的な存在だとしても、自分は風の魔法を自然科学の、現代人の常識や感覚をもって使ってきた。今まで、空気を圧縮してその反発力を利用したり、とかそういうふうな使い方ばかり考えてきた。自らに宿る魔力をそのように使うものだと感じていたからだ。だが、それはそれとして、魔法具の種類や、呪文の内容によってはさらに次元の違う、物語にでてくるような完全に自然科学や物理法則から逸脱した魔法を使うことができる、これが確実となった。
ゴルンの話したことが本当なら、彼の話に出て来た、「鏡の魔法」など、もうそこには科学的な根拠など一切存在しない。それはもう科学的な現象とか概念とかを自由に「書き替え」「差し替え」てしまっている。あの炎でできた龍もそうだろう。まるで言葉遊びのように科学的現象と概念を混ぜ合わせ、組み替えてしまっている。
言葉遊び、といえば、呪文もある種そのようなものか。呪文という言葉の組あわせが魔法具の触媒として、科学的現象と概念を破壊し、時に物語上の、空想的な現象へと再構成していく。
この世界は、自然科学にそって存在する前世のような、自分にとっては通常の世界を元に、魔法のような非科学的なものが上書きされた世界だ。
風の魔法具を得て超常の能力を得たが、その時点でこの世界と前の世界が違うことはわかっていた。そのことは充分に認識していた筈だ。だが、この世界には、その言葉遊びのように科学やその概念をぶちこわし、再構成し、弄りまわす、さらにぶっ飛んだ要素が元から存在していたのだ。
だとしたら、……いや、今は前の世界の常識を、科学の領域を、その境界を飛び越える感覚を知りたい。それが感じることのできるものならば。そしてその先を見極めていく。
やはり魔術書を手に入れることが必要だ。自分の感じたものとはおそらく違う、魔法の仕組みを学ばなければならない。呪文を知り、覚えれなければならない。風の魔法の呪文を。
「おい、あれ、魔法使いだよな」
そこで横を歩いていたゴルンの声が耳に入ってきた。
街道を少しずつ進んで、いつのまにか昨晩の火龍が討伐された場所の辺りまで来ていた。
前方には王国軍の多くの兵隊がいる。道の横にとめてある荷車に木箱や布袋を運んだり、打ち合わせでもしているのか談笑しているのか、何人かで固まって立っている兵隊もいる。ゴルンより低いイシュルの目線からは、魔法使いらしい人物は見えなかった。
左の方を見ると、木々のまばらに繁る奥に多くの兵士が固まっているのが透かし見えた。多分、あそこに昨日の火龍の死体があるのだろう。おそらく龍の牙や爪、鱗などを剥ぎ取り回収しているのだ。龍のからだの部位の多くが希少で高価なものだ。龍の鱗などは美しく光り、また軽くて強く、ほんのわずかだが魔法に対する防御力も有するので、貴人のマントや女性用の高価な防具などに使われる。すこぶる見栄えの良い強力な防具となる。
さらに少し進むと、イシュルにも兵隊の群れに隔てられていた魔法使いが見えてきた。街道の脇に幾つか置かれた木箱のひとつに座っている。すぐ後ろにはお付きの者か護衛の者か、平服に細身の剣を差した男がひとり立っている。
その魔法使いは昨晩、火の魔法を使っていた女の子だった。昨日と同じ黒いローブを着、フードを後ろにやって顔を出している。これも昨日と同じ、あの大きな魔法の杖を自分の肩に立て掛け、足をぶらぶらさせて、一本のナイフを片手にその柄を握ったり、刃を傾けて陽を反射させたりして弄っている。あれは昨晩、イシュルが火龍の目に投げつけたナイフだった。
げっ。
あの子は、街道脇でああやって座って、火龍にナイフを投げつけた者が道を通ったりしないか、ずっと監視でもしていたのか。
まさか、そんな。
あのナイフは魔法具でもなんでもない。そんな事はナイフの柄を握ったりすればすぐにわかる。彼女は魔法使いなのだから、魔法具を持っているのだから見ただけでもわかる筈だ。
それなのに、何の変哲も無いナイフを自ら手にして持っていた。やはりあの時に使った魔法を彼女はしっかりと知覚したのだ。それが誰か気になっている。火龍の解体を待つ間、道端に座って、もしやそれらしき者が道を通らないか、なんとなくだろうが見張っている……。
ただ、もちろんそうとは限らない。ナイフを持っているとはいえ、道端にいる事自体は単に他の誰かを待っているとか、たまたまあそこで火龍の解体が終わるまで時間を潰しているだけなのかもしれない。こちらが意識しすぎているだけかも知れない。
だが、もしあの時顔を見られていたら?
このまま彼女の座っているところまで車列が進んで、自分の顔をしっかり見られて、目が合ったりして、「このナイフ、あなたが投げたのね?」なんて、声をかけられたらどうする?
まずいことになったかもしれない。どうしようか……。
その時だった。
「セヴィルさん?」
後ろからビジュクが声をかけてくる。
は?
前斜め、右側を見ると疲れた顔をこちらに向け、悄然と立つセヴィルとフルネがいた。
ふたりとも、疲労困憊、消耗した様子だ。肩に大きな袋をぶら下げ、フルネは杖をついている。衣服も薄汚れていた。
封鎖が解除され街道を進み始めてから、避難していた北のセニト村からラジド村に戻る人が時々いて何度か追い越されていたので、セヴィルとフルネもそんなひとたちだと思って気にも止めなかった。
いや、道の先の方にいる魔法使いのことで頭がいっぱいだった。
いきなりだ。どうして?なぜ彼らがここにいる?
「どうしたんですか!」
御者をしていたイマルが荷馬車から飛び降りて来た。
「はは、こんなところで出会えるとはな」
セヴィルが力なく笑う。
「火龍が出て、ずっと街道が封鎖されてたんです。それで遅れてしまって…」
イマルが恐縮して言う。だが。
「いや、いいんだそれは。オーフスでちらっと耳にしていたからな…とにかく出会えて良かった。みな元気そうで良かった」
セヴィルはイマルに向けて寂しそうに微笑んでみせ、皆の顔をあらためて見渡し、表情を引き締めて言った。
「みな、落ち着いてな、聞いてほしい」
フルネが泣きそうな顔になる。
夕日がふたりの顔をふちどり、影をより濃くしていた。
「ベルシュ村がブリガールに襲われてな、村の者はほとんど殺されたらしい。エリスタールでも、ベルシュ村出身者は捕われて城に連れていかれるって噂が流れて、怖くなってな。フルネを連れて逃げ出して来た」