火龍と宮廷魔導師
イマルの話はひとつだけ、イシュルにとって衝撃的な事柄を含んでいた。
宮廷魔導師……。
「その追いつめられたドラゴンと王国軍、この先のどこら辺で戦ってるんですかね」
「さぁ? 火龍に襲われたっていってたラジドだったら、ここから十五里(約十キロ)くらいだけどね」
「ラジドのどこら辺、ですかね」
「うーん。テントにいる王国の兵隊さんに聞いてみたら? でもあの人たちも下っ端だし、詳しくは知らないだろうなぁ」
「今も戦ってるんですかね」
「イシュル…」
イマルは少し呆れた表情になって、イシュルに諭すように言ってくる。
「ぼくはいろんなことに興味を持つのはとてもいいことだと思ってるけど、イシュルの場合は魔法とか魔獣とか、危険なものにも興味を持つよね。それもとっても強く。やめておいた方がいいよ、それは。いつかかならず危険な目に遭うことになる」
「はぁ」
ちょっとしょぼくれて返事をして見せると、イマルはすぐ笑顔になって言った。
「まぁ、イシュルはとっても頭がいいから、ほんとは心配なんかしてないけどね」
別にとりたてて頭がいいわけではない。人生経験がちょっと長いだけだ。ふたつの世界を跨いでだが。
そこへビジェクが馬を連れて戻ってきた。ちょっとほがらかな顔つきをしている。馬に草を食わせながらのんびりしていたのだろう。
だが、何かに気づいたのか彼はふーっと、その緩んだ表情をひきしめると無言で南の空の方を指さした。
川の対岸の雑木林の木々の上に、薄い茶色の砂ぼこりのようなものが舞い上がってるのが見える。
そこそこ距離がありそうだ。もわっと、音もなく薄曇りの空に広がっている。
「まさか、あそこで?」
あの砂埃のようなものは、あそこら辺で王国軍と火龍が戦っている?
「…木々がざわめいている。龍はまだ死んでいない」
ビジェクは指差した方をじっと見ながら、呟くように言った。
イマルらと夕食を食べながら、イシュルは、みんなが寝静まった夜中に、なんとしても王国軍と火龍が戦っている現場を見にいこう、と考えていた。
まわりは足止めを喰らった商人でいっぱいだ。王国軍のテントがあり、歩哨も時々見かける。魔獣や盗賊を警戒する必要はなく、一行から誰かひとり、荷物の近く、荷馬車の荷台で寝るようにしていて、もう夜中に見張りを立てたりはしていない。
夜中にイシュルが起きて、そしてどこかへ行ってしばらく帰ってこないことも、イマルやゴルンはともかく、ビジェクには確実に気づかれるだろうが、それで彼に何らかの疑惑を持たれてもかまわない、もうそんなことを気にかけている状況ではないと思った。
火龍はまだいい、だが宮廷魔導師がどんな魔法を使うのか、どうやって火龍を倒そうするのか、これは是が非でも見ておかなければならないと思った。二百年ぶりに現れた赤帝龍を見ることよりも、今のイシュルには重要なことのように思えた。
近くで酒盛りでもしているのか、少し離れたところから騒ぐ声が聞こえてくる。イマルも、ゴルンも、荷台の上で横になっているビジェクも寝ている。ビジェクの寝息も自然な感じだ。おかしいところは感じられない。
イシュルはそっと起き上がると、下に敷いていたマントを拾い上げた。
だがそこで、やはりビジュクは目を醒した。異様に敏感なのか勘がいいのか、やはり油断のならない男だ。立ち上がったイシュルを荷台から見上げてくる。イシュルはマントを羽織ると、ビジュクに小さな声で言った。
「朝までには戻ってきます。多分」
ビジュクの返事も待たずに、下流の方へ歩いていく。
やはりビジュクに気づかれてしまった。だが、もうそのことは気にしないと決めている。
ただ、もし明日の朝までに帰ってこれなければ、イマルにも心配をかけることになる。その時はおとなしくイマルに怒られるしかないだろう。
足止めをくらって川沿いに陣取っている商人や荷車がまばらになると、イシュルは風を巻き上げ、かるく助走をつけて幅が三十長歩(約二十メートル)はある川をいっきに飛び越えた。
対岸に降りると、街道に出てラジドに向けて走りだす。魔法によるアシストを全開、後ろから追い風も吹かせて、体力自体の消耗はなるべく避けるようにする。月齢が満月に近く、道を照らす月の光が明るい。
道の両側は時々途切れながらも雑木林が続いている。視界は狭い。
イシュルは時々大きくジャンプして、日中に見た砂ぼこりの方に視線を向けた。
ラジド村に入ったのか、走るうちに右手の雑木林が消え、視界が開けてきた。地面は牧草地のようだ。丈の短い草で覆われている。遠くに家屋のような影も見える。
今のところ、何かが光ったり、これといった振動や音も感じない。イシュルは走る速度をあげた。
しばらく走ると道の左手、雑木林の木々の影の向こうに空が明るくなっているところがある。
あそこか。
イシュルはさらにスピードを上げると跳躍し、道の左側の林の中に飛び込んでいった。木々の枝の上を伝って林の中を進んでいく。
やがて地鳴りのような低い音と、キーンと空気を震わす高い音が入り交じった奇妙な音が、木々の間からかすかに聞こえてきた。
あれはきっと火龍の鳴き声だ。
今、おそらくこの先で王国軍と火龍がやりあっている。
しばらく進むと木々がまばらになり、前方に大きく空気の揺らぐ、ただならぬ気配が押し寄せてきた。やがて視界の左側に火龍と、右側に展開する王国軍が見えてきた。
やや王国軍よりに、そこそこの距離を保って木々の上を移動する。周囲ではところどころ小さな火事が起こっている。その灯りに金色の鱗を輝かせて、牛舎だろうか、半壊した細長い建物を背に火龍が踞っていた。明らかにゾウやサイなどより大きい。博物館で見る大型恐竜の骨格に肉付けするとこれくらいの大きさになる、そのまんまな感じだ。
火龍は片方の翼を怪我でもしているのか折りたためずだらりと下げ、長く伸びた首をもたげ、時おり低い唸り声を上げて右側にいる王国軍を威嚇していた。
王国軍は、二百長歩(約百三十メートル)ほど離れて、前面にタワーシールドを並べた重装歩兵が展開し、その奥にかるく散開した弓兵の集団、そしてその間に槍兵や、指揮をとってるのか徒歩の騎士の姿がちらほらと見える。
散発的に火龍に向けて弓が放たれているが、とても龍の鱗を貫通できるようには見えず、効果があるようには見えない。火龍のからだに弓矢や槍が刺さっているようには見えない。
ただ火龍は翼の片側をやられ、牛舎と思われる牧畜農家の建物に半ば押し込められ、だいぶ弱っているようだ。牛舎の裏は疎林が広がり、この場所に火龍が追いつめられた状況であるのは確かなようだ。
膠着状態なのか、今現在双方に大きな動きはない、と思った瞬間、王国軍の、弓兵の集団に隠れた一画から火球がふたつ浮かびあがった。火球はぼーっと炎のはぜるような音を立てながら火龍の方に飛んでいき、火龍の首の付け根あたりに命中した。
火球は龍のからだに当たるとぼわっと燃え広がり、火龍の鱗を焼く。火龍が不快そうに低い唸り声をあげた。その凶暴な音色は虎やライオンの同じ唸り声の比ではない。
火球の浮かびあがった辺りに、それまで目につかなかった、黒いフードを頭から被り、大きな、複雑な彫刻のなされた木の杖を持つ魔法使いがいた。
からだが小さい。森の魔女、レーネのように年老いた魔法使いだろうか。イマルの言っていたあれが宮廷魔導師なのか。はじめて魔法使いがいかにもな攻撃魔法を使うのを見た。迫力も威力も今イチのような気がするが。しかも火龍にたいして、火の魔法か。
魔法使いをよく見ると、その横に少し離れて黒いローブを着た、おそらく男の魔法使いが倒れていた。王国軍の兵隊らしき者が数名とりつき、介抱しているようだ。あれは魔力切れのような状態だろう。魔法を使いすぎていきなり昏倒したのか、意識を失った状態のようだ。彼はどんな魔法で火龍と戦ったんだろうか。
さきほど火球を放った魔法使いが両手に杖を捧げ持ち、何事か呪文を唱え始めた。杖に魔力が火のように灯るのがわかる。魔力の密度がどんどん高くなっていく。
対する火龍も全身に魔力を漲らせ、首の付け根あたりに集中させ始めた。おそらく火を吐こうとしている。
魔法使いは杖を立てるとその先から鋭い火を放った。それは空を飛びながら円錐状に広がり、火龍の手前で渦を巻き始め、轟音をたてながら龍の形になった。炎でできた龍はよく響く、それでいてすーっと闇夜に溶けていくような不思議な声で雄叫びをあげた。王国軍の兵士たちから「おおっ」と、歓喜と畏怖の入り交じったどよめきが上がった。炎でできた龍は空中を火龍に向けて飛んで行く。
火龍は最後に大きく空気を吸い込み、溜めていた魔力を口から放出するように炎を吐いた。その顎から放たれる炎は何かで見た、火炎放射器の炎に良く似ていた。火龍の放った炎は空を駆ける同じ炎でできた龍に浴びせられ、はじけ飛んで消えた。少しおくれて熱気がこちらの方まで押し寄せてきた。
魔法使いの生んだ炎でできた龍は、火龍の放った炎にたいしたダメージは受けなかったようで、そのまま火龍の首に喰らいついていく。火龍も負けじとからだをお起こし炎の龍の首に噛み付こうとする。
両者は互いの首をねらい、うねるようにからみついて格闘をはじめた。
これが魔法……。
それは今まで自分の得た風の魔法ではできないと感じていた、魔法の新たな姿だった。呪文を唱え、自分の知らないなんらかの方法で魔術を行使することで、魔法はある境界を越え、その先の領域に至るのだ。自然科学の法則に縛り付けられた前世界の常識を超越し、いわば物語の世界へと。
もつれあう二匹の龍は、まるで血を飛び散らせるようにまわりに炎をまき散らし、うねるように格闘を続けている。
火龍はこの場に向かう途中で聞こえてきた、地鳴りのような低い音と、キーンと空気を震わす高い音が入り交じった独特の声で咆哮をあげると、再び全身に魔力を漲らせ、炎でできた龍を己が首で万力のように締め上げた。
突如、炎の龍がその形を失い、形を失った炎が火龍のからだに落下してそのからだを燃やし始めた。火龍が苦しそうな呻き声を上げた。
やがて火龍のからだを焼いた炎が消えていく。火龍のからだのところどころから煙が立ち上っている。あの炎は火属性の攻撃にはめっぽう強いだろう、火龍のからだを燃やしたのだ。
火龍は再び苦しそうに踞った。炎でできた龍を倒したとはいえ、かなりのダメージを受けたのは明らかだった。
魔法使いの方に目をやると、なんだか上体が揺れて、ふらふらしている。だいぶ精神力を消耗したようだ。と、いきなり後ろに倒れ込む。まわりにいた兵隊に抱きかかえられた。頭を覆っていたフードが後ろへめくりあがった。
え?
てっきり、レーネのような老魔法使いかと思ったら、まだ若い、というか子どものような女の子だった。ボブカット、と言っていいのか黒っぽい短めの髪に白い肌。眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情をしている。
あの子、俺より若いんじゃないか。
宮廷魔導師にあんな若い女の子がいるのか? なんか意外だ。
呆然としていると、踞った火龍が再び魔力を発しはじめた。また炎を口から吐くつもりなのだ。
火龍にはまだそれだけの力が残っていたのだ。
これはまずい状況になった。王国軍側にあの火炎放射が行われたら、それを防げる魔法使いは彼女の他にいないだろう。あの女の子に今、何か有効な魔法を使える力が残っているだろうか。
派手に魔法を使うのはまずいが……、とりあえず火龍が火炎を吐くのを邪魔しよう。
王国軍に義理立てする理由など特にないが、目の前で死傷者が出るのは見過ごせないし、何より火龍を始末しないと、こちらもいつまでたってもフロンテーラに行けない。
イシュルは右手でズボンのベルトに刺していたナイフを取り出した。エリスタールでジノバの護衛をしていたナイフ使いから奪ったものである。大きさや重さ、握りの感じなど投擲に適したものだった。
木の上からこちらを向いている火龍の右目をねらう。距離は約百二十長歩(八十メートル弱)、命中どころか絶対に届かない距離だが、当然魔法を使う。
イシュルはナイフを投げると自らつくった風の流れに乗せ、ナイフの小さな鍔と握りの底部に風を集中させて、火龍の右目に向けて加速させていく。
ナイフは、何かの誘導弾のように不自然な放物線を描き火龍に近づくと、その手前で一直線に加速し、火龍の右目に突き刺さった。火龍は見えなかったのか、自ら火炎を吐くために集中していて気づかなかったのか、まったくの無警戒だった。
火龍は首を大きくもたげると、また高音と低音の入り交じった苦しげな叫び声を上げた。からだをめぐっていた魔力が消えていく。集中力を妨げられたのだろう。
そこへいきなり、がしゃん、と木と鉄の激しくぶつかる音がして、国王軍側からほぼ水平に、何か大きい棒のようなものが火龍に放たれた。
それが痛みに首をもたげ、露出した火龍の首の付け根付近に突き刺さった。火龍が今度は断末魔の低く弱々しい声を上げた。火龍のからだの下側は鱗が薄いか、生えていないようだ。
視線を右にやるとバリスタ、攻城戦に用いられる大型の弩があった。わざわざ火龍退治のために運んできたのだろう。あれが切り札だったのか。宮廷魔導師らは牽制かつ、火龍を弱らせるために戦っていたのかもしれない。火龍の動きが弱まり、弱点の下腹部をさらす機会をずっと狙っていたのかのかもしれない。
確かファフニールの竜も腹部が弱点ではなかったか。
大きな槍を首の付け根に受けた火龍は、そこからちろちろと火の燃える油のような血を大量に流し、踞ったまま動かなくなった。
王国軍側から歓声があがる。それはすぐ勝鬨の声にとって変わった。
終わったな。
イシュルが去ろうとした時だった。
誰かに見られている。
その視線は王国軍の方から向けられていた。