フロンテーラへ 2
翌日、オーフスの街に着いた。
オーフスはオーヴェ伯爵の居城があり、エリスタールよりやや小さいくらいの街である。伯爵の居城は街の南西にあり、街中に入りつつある街道沿いからも見える。一応丘の上にあり、周囲に城壁も巡らしているが、天守に当たる部分は四階建てのお屋敷といった感じで、建物の四隅に生える塔も細く華奢だ。明らかに軍事拠点というよりは貴族の住居もしくは政庁としての城だった。
イシュルらは一度街道をそれ、聖堂教会の神殿を中心とした広場から、ひとつ脇道に入ったそこそこのグレードと思われる宿屋に宿泊した。宿屋ではこちらの思うような部屋の空きがなく、イマルとイシュルが個室、ゴルンらがふたり部屋になった。イシュルの部屋は狭く質素なものだったが、ベッドはしっかりしたつくりのもので長旅にはありがたかった。
夕食でも久しぶりにしっかりと調理された肉料理を食べることができた。長旅では時にいい宿屋に泊まっておいしい食事を摂り、いい酒を飲み、疲れを癒すことも必要だ。
食後は酒盛りになり、イシュルは酒は飲み慣れていなかったので、果実酒を水で薄めてちびちびと嘗めるように飲んだ。当然のごとくこの世界には飲酒の年齢制限などはない。子どもにきつい酒は飲ませない、くらいのものだ。ゴルンは酔うと饒舌になり、幾分陽気になったイマルと話が弾んでいた。
ビジェクは相変わらず寡黙で、だが酒は好きなようで黙々と杯を口に運んでいた。
彼は無口でおとなしく、最初は印象の薄い感じだったのだが、いっしょに旅をするととても真面目で、だが油断のならない人物だということがわかってきた。
馬の面倒もよく見てくれ、野宿をする時にはその準備を率先してやるし、夜の見張りもうたた寝など一切せずにきっちりこなす。黙々と与えられた仕事以上のことをやり、とても真面目な人らしいとわかってきたのだが、一方で、なんでもない日中の移動時に、案外油断のならない人物だと思わせるような出来事があった。
移動時はビジェクは何もしゃべらず、ぼーっと前を向いて眠そうに目をすぼめ、日没までそのまま何の変化もなしに歩き続けるのだが、たまたま彼の後ろを歩きその後ろ姿を見ていると、前、前斜め右、左、近く、遠く、と絶えず微妙に、ほとんどわからないくらいに首を動かして、常に前方を警戒しているのがわかった。
ある時、彼はそのこまめに動かし続ける頭をかなり離れた前方の雑木林の一点に固定した。
あの木々の間に何かいるのか。イシュルには距離がありすぎてわからなかったが、道を歩きながらしばらく見ているとそのビジェクの視線の先、木々の間から狐の親子が姿を現したのだった。親狐に子狐が数匹。ビジェクは彼の視覚によるものなのか、何かの直感か、イシュルの感知できる距離よりも遠くにいる動物の存在を察知したのである。
彼は北の森の村の出身だ。おそらくその弓もふくめ、狩人としての伎倆は相当なものがるのではないか。
イシュルは魔法をその身に隠し持つ身である。油断のならない、鋭い勘や観察力を持っていそうなビジェクにちょっと怖さを感じた。
翌日、イシュルが宿の一階の食堂兼ロビーに降りてくると、以外にもイマル以下全員がすでに顔を揃えていた。
イシュルは早々に部屋にもどって寝床についたが、ゴルンらは相当遅くまで飲んでいたらしい。酒が入ってもしっかりしていて、酒量も底の知れない感じだったビジェクはともかく、ゴルンやイマルはてっきり遅れてくるかと思ったが、ふたりとも朝早くからしっかり起きて来た。だが、やはりというかふたりの顔色がすぐれない。
「二日酔いですか」
と聞くと、ふたりは顔の表情を曇らしたまま、首を横に振った。
「ちょっと悪い噂を耳にしてね」
イマルが心配そうに言うと、
「クシムの銀山が何日か前に赤帝龍に襲われたらしい」
と、ゴルンも同じ心配そうな声音でイマルの言を引きついだ。
「クシムが…」
クシムの銀山とは辺境伯領にある、辺境伯家どころか王国の屋台骨をささえているといっても過言ではない、重要な銀鉱山である。辺境伯領の南東部の山岳地帯にあり、鉱区は聖王国にもまたいでいて、広域に分布している。
クシムから産出する銀だけで、大陸で産出する銀の半分以上にはなる筈だ。そもそもあの辺りに魔獣討伐の賞金稼ぎ、ハンターや傭兵らが集まるのは、ただ魔物たちが人里に降りて来るのを防ぐだけでなく、銀山の防衛も兼ねているわけである。銀山を直接運営する辺境伯と御用商人、銀山ギルド、それらを保護し投資する王国、それにオルスト聖王国側でも、彼らを集めるために多額の資金を投入していた。
イマルとゴルンが深刻そうな表情をしているのも、クシムの銀山が赤帝龍に襲われ大きな被害が出たり居座られたりすれば銀の産出が止まってしまい、辺境伯が窮地に陥るのはもちろん、王国全体の経済に大きな影響が出るのを心配してのことだった。銀の採掘が止まれば王国の国力そのものが打撃を受け、国全体で景気が悪くなるのは確実だ。農家はともかく商人やその護衛をする傭兵には深刻な話だった。
ただ、居座られるのは最悪として、当然銀山を襲ってもすぐに別のところに行ってくれれば、被害は最小ですむ。
「まだ詳しいことはわからないんだけどね」
と、イマル。
昨晩、あれからイマルやビジェクが自室に去った後、ゴルンは彼と同じように遅くまで飲んでいた同業者といっしょに飲み始め、その同業者から赤帝龍が銀山を襲ったという話を聞いたということだった。赤帝龍が銀山で何をしたのか、被害の大きさなどはわからないが辺境伯領では騒動になっているという。
「とりあえず、フロンテーラへ急ごう。フロンテーラに着けば、より詳しいこともわかるだろう」
イマルがイシュルらを見回して言った。
その後、一行はオーフスを出発、南下を続けた。翌日にはオーヴェ伯爵領を抜け、その後騎士爵を持つ小土豪の領地をいくつか通過、途中豪雨で二日間足止めされ、六日後にシーノ男爵領に入った。
赤帝龍が銀山を襲った話を聞いてからはみな心なしか歩を早め、途中雨に降られたものの、旅程はここまで予定より幾分早く、順調にきている。
しかし、シーノ男爵領での宿泊地、セニト村まであと十里(スカール、六〜七km)ほどのところで、ついに魔獣と遭遇することになった。辺りはまだ畑も人家もまばらな草原である。草原の左手、少し高台になった雑木林から、白い狼のような動物が三匹、姿を現した。最初に気づいたのは案の定ビジェクである。
時刻は夕方近く、暗くなる前に村に着こうと一行が急ぎ始めた時、ビジェクが急に立ち止まった。
「どうした?」
ゴルンがすかさず聞く。
ビジェクは黙って前方やや左側の遠くの方を指さした。
「遠いな。おそらく……赤目狼だな。ありゃ」
ゴルンが手を額にかざして言った。
かなり遠く、以前にビジェクが狐の親子を見つけた距離と同じくらいは離れている。距離はおそらく六百長歩(約四百メートル)以上はある。三匹の赤目狼は西に傾いた夕日を受け白く輝いて見えた。じっと動かず、おそらく彼らもこちらを見ている。
腹が満たされているのか、距離があるからなのか、以前の大牙熊のように一心不乱に向かってくる、という感じではない。
この距離では、相手が激しい動きをしていたり、魔法を発動でもしていない限り、イシュルの能力では感知するのが怪しくなってくる。
イマルも馬車を止め不安そうに見ている。馬は落ち着かない感じだが今のところそれほど怯えてはいない。
そこでビジェクがいきなり弓を構え、矢をつがえた。俯角を四十度くらいに上げ、赤目狼に射とうとする。
「おい、いくらなんでも無理だろう」
ゴルンがビジェクに声をかける。
確かに無理な距離だ。手前でも赤目狼の近くに落ちれば威嚇にはなるだろうが…。
ぎりぎりと弓が鳴り、ビジェクの露出した二の腕から筋肉が浮きあがる。
ビジェクは本気なようだ。
すかさずイシュルも上空に風を集めた。気圧を高めた空気の弾をつくる。ビジェクの矢がどこまで届くかわからないが、同じタイミングで着弾させて、赤目狼に対する威嚇の効果を上げようと思った。あの距離はイシュルの魔法の「手」が抜けて、魔法の効果もほとんど消えてしまうぎりぎりの距離だ。
耳もとでヒュン! と音がした。ビジェクが矢を放った。
ついでに飛んでいく矢に後ろからかるく風を当てる。多少飛距離が伸びるだろう。ただしやりすぎては不自然になる。
矢は山なりに高くあがると、今度は落下しはじめる。飛距離はぐんぐん伸びている。タイミングを合わせて上空に待機させていた空気の弾を、矢の落ちる辺りに加速させていく。
空気の弾の動きを少しずつ調節していき、ビジェクが放った矢の落ちる辺りより少し奥に、赤目狼の足許に落とした。途中で魔力の「手」を離れてしまったため、たいした威力はない。赤目狼の一匹がかるく前足を上げ後ろに飛び退いたようだ。ちょっと驚かせたくらいの感じだ。ビジェクの矢はその直前に、赤目狼より少し手前の草地に刺さった。いいタイミングだ。
三匹の魔獣はこちらをちらちら見ながら林の奥に姿を消して行った。
彼らはこちらの魔力を感じとったろうか。
あの三匹からは狩りや戦闘の体勢ではなかったからか、それらしいものは何も感じ取れなかった。
「よし、やつらは逃げていったぞ」
ゴルンがうれしそうに叫ぶ。
「よくやったビジェク」
「凄いなぁ」と、イマル。
「たとえ三匹でも強敵だからな」と、続けてゴルン。
「凄いですね」
イシュルがビジェクに声をかけると、無言のビジェクがじーっと、イシュルを見つめてきた。
まさか気づかれたか?
その後もビジェクは無言だったが、ちらちらとイシュルの方に視線を向けてきたようだった。イシュルはしばらく彼の方に顔を向けられなかった。
セニト村で一泊し、いよいよフロンテーラまであと数日、シーノ男爵領と王領の境を流れる川の手前で、イシュルたち一行はいきなり足止めをくらった。道の先、川にかかる木造の橋の手前に丸太で組んだ柵が設けられ、横に六角形の大きなテントが張られている。テントの上にはエンジの地に金の縁取り、その中に左右から獅子が王冠を捧げ持つおなじみの絵柄、ラディス王国の旗がひるがえっていた。
テントの前には一頭、立派な体格の馬がつながれている。テントの右側、少し離れたところに荷車が一台、道にそれて横側にもう一台。その荷車には近隣の行商の者か、薄茶のマントに白い帽子をかぶった男が腰掛け、細長い木のパイプを加え、煙草を吸っている。
付近に王国の兵隊か、役人か、王国に関係する者の姿は見えない。
「なんだか、まずいことになってるみたいだな」
ゴルンが呟いた。