貧民窟の女神官 2
しどろもどろになりながらも、子どもに財布をすられ、その子をここまで追いかけてそれを取り返したこと、その子がこの建物の中に入っていったことを話した。
「まぁ。それはきっと孤児院の子どもたちだわ」
女神官は深い青色の眸を大きく開き、口に手を当てて言った。
「孤児院?」
「はい。当神殿では、この街の恵まれない子どもたちの面倒をみているのです」
その孤児院はこの神殿として使われている、もとは砦だった建物から少し離れたところにあるという。
「その子にはきつく叱っておきます」
女は胸に手を当て頭を下げてきた。
「どうかお許しください」
「いえ、お金は取り戻せましたし。お気になさらず」
つい地が出ていい大人のような口を聞いてしまう。
女神官は顔を上げ微笑む。まわりが一気に明るくなるような、光り輝くような微笑みだ。
「お名前をお聞きしても」
女は微笑みを浮かべたまま聞いてくる。
「い、イシュルです」
「そう、イシュルさま」
彼女はじっとこちらを見つめてきた。
彼女に会釈してそそくさと部屋を出ていく。
なぜか居たたまれない気分になってしまった。
部屋を出ると一度深呼吸する。しばらくぼーっとした。
心を落ち着かせる。
すると、反対側の部屋に複数の人の気配を感じた。
部屋の入り口までそっと近寄り、覗いてみる。
その部屋は机やいくつかの椅子、書棚や壷などが置かれていた。部屋の真ん中にある机の向こう側で老神官と、さきほどのスリの子どもの他、数人の子どもが輪になって何か話していた。
さっきは人の気配は感じなかったのだが。
神官と子ども、彼らが何を話しているのか知らないが、こちらからはもうとやかく言うつもりはない。建物から出て、帰ることにした。
あの後シエラはどうしたろうか。
シエラに一度会って今日の顛末を話しておかないといけない。とにかく彼女には謝っておいた方がいいだろう。絶対に謝っておいた方がいいだろう。
建物を出るところでちょっと気になったので、さっきの女神官がいた、へレスの像があった部屋をもう一度覗いてみた。彼女の存在が消えたような、気配があやふやな感じになったからだ。
もしまだ部屋にいるのなら彼女の美しい姿をもう一度拝んでおきたい、という気持ちもあった。
やはり、とここは言うべきなのか。
女神官の姿はなかった。老神官と子どもたち以外に周囲に人のいる気配は感じられなかった。
そろそろ陽が傾いてきた。イシュルは帰る途中から河岸の道に出、明かりが灯りはじめ、ざわつきはじめた対岸の歓楽街を横目に商会に向かって歩いていた。
たとえ建物の外にいようと近くにいればわかる筈なのに、彼女の存在を感知できなかった。
いきなり目の前に現れ、消えた。どこからあの部屋に入って来、どこへ出ていったかよくわからなかった。
彼女もツアフのように、自らの存在を隠蔽するような魔法具を持っているのだろうか。あの神々しいまでの存在感は、あの貧民街にある小さな神殿にはあきらかに場違いなものだ。なぜあの神殿に在籍しているのか、少なからず疑問を感じないではないが、あの女神官はかなり高位の神官なのではないか。だとしたら魔法具のひとつやふたつ持っていてもおかしくはない。
ツアフの同類だろうか。村にいたころには縁遠い存在だと思っていた魔法具、魔法の存在が、この街にはその底にうごめくように漂い、時折その不確かな姿を見せてくる。
ただ、彼女から受けた不思議な、強い存在感はツアフなどとはまったく違う、例えばあのエリスタールに向かう途中で会った、消えてしまった頭のおかしな老人に感じたものとなんとなく似ているように感じられた。
もう貧民街も抜け、川向かいの歓楽街も視界の後ろに去っていった。ごく普通の民家が建ち並ぶ、街の住宅街の一画に入っている。
シエラに今日会いにいくかどうかは、商会に着いた時点で決めよう。あまり遅くに、夕食時にでも行くとちょっと迷惑かもしれない。それなら彼女に会いに行くのは明日にした方がいいだろう。
河岸を歩き続けるとやがてフロンテーラ街道へと続く、石造りの立派な橋が見えてきた。橋とは反対に、左に曲がればすぐに商会に着く。
橋に近づくと、目の前を見知った男が通り過ぎていった。男は橋を渡っていく。
何の因果か。その後ろ姿は魔法具に関する疑惑のもうひとり、ツアフのものだった。
ツアフは橋を渡ると対岸の道を右に曲がった。そのまま歩いていけば歓楽街だ。
まぁ、彼が、妻がいようがいまいが中年の男が、この時刻にひとり歓楽街に行くのは別におかしいことではないだろう。女遊びなどせず、誰かと仕事がらみで酒を飲むのかもしれない。傭兵ギルド長なら歓楽街とはいろいろと深い関係もあるだろう。
一瞬見過ごすことも考えたが、すぐにツアフの後をつけることにする。彼は今、例の疑惑の魔法具を使っていない。ツアフが自らの存在を隠蔽する力を持つ魔法具を本当に持っているのなら、彼の身辺を一応調べておく必要があるだろう。彼のことをなんでもいいから知っておいて損はない。
ツアフは案の定、歓楽街に向かっている。河岸の道を、歓楽街の真ん中を走るメインの通りに入っていった。
夕方の歓楽街の通りは人も増え出し、通りはもうたくさんの明かりで照らされている。ツアフは横見もせず、前を向いて通りを真っすぐに歩いていく。どうやら彼の目的地は前もって決まっているか、通い慣れた場所のようだ。
しかしスリの子どもといい、ツアフといい、今日は人を追いかける、尾行ばかりしている日だ、などとちょっと皮肉な感慨にひたっていると、ツアフが道を左に曲がった。
ツアフが曲がったところまで走る。ツアフが曲がった道を角からそっと見ると、壷や椅子、布切れの束などが道の左右に積み上げられた、小さな裏道だった。何かの店があるようには見えない。そしてツアフの姿も消えていた。
姿だけが消えたわけではない。付近に彼の存在を感じない。
くそっ、やられた。
その場でどうしようか、一瞬逡巡したがその裏道を入っていくことにする。
もうだいぶ暗くなってきている。足許に気をつけ静かにゆっくり歩いて行く。まわりに不自然な人の動きは感じない。裏道を奥の方へと進む。両側には店の裏口か、いくつか祖末な木の扉がある。その扉の向こう側にも人の存在は感じない。
やがて道の突き当たりまで来た。突き当たりは奥にある家の洋漆喰の壁だ。
だめか。完全に見失った。
ツアフがこちらの尾行に気づき、魔法具を使ってどこかの物影にひそんでいる可能性もある。もしそうだとしたら、今のこの自分の姿をどう見られているだろうか。次にギルドで顔を会わせたらどんなことになるだろうか。ちょっと気が重い。
行き止まりから裏道を表通りの方へ引き返す。
ん?
道の中ほど、右側の木の扉の奥の方で急に人の存在が「現れた」。今まで何も感じなかったのに、その扉の奥の方で、どこからか移動してきたのではなく、急に人の存在を感知した。
やった。ここか。この扉の奥におそらくツアフがいる。
木板を合わせてつくられた扉には店の表札のようなものはもちろん、なにかの印や模様なども刻まれていない。一見したところ、表の通りに面した大きな建物の裏口のように見える。
扉の内側は空気の流れがほとんどなく、どのような空間になっているのか今ひとつはっきりしない。
ツアフを見つけたのはいいとして、彼はこの扉の奥で何をしているのか。
どうしようか。今日はここで帰るべきか。また後日調べるべきか。
それとも、思い切ってこの扉を開けてしまおうか。
扉の向こうではツアフの動きはない。ひとつところから動いていない。おそらく椅子に座って何かをしている。
こんなところで何をしているのか。とっても気になってきた。
扉を開けてしまおうか。
扉の前で悩んでいると、表通りからこちらへ入ってくる者がいる。
いったん扉から離れ、奥の方へ移動し、道に置かれている壷の裏に身を潜める。
商人風の服装の男がこちらへ歩いてくる。男は中にツアフの居る扉の前で立ちどまり、ノックもせず扉を開け中へ入っていった。
どういうことなんだ?良くわからない。
扉の前まで戻って耳を済ます。風の魔法具を得てからも聴覚そのものは特に変わらないが、人がしゃべれば周囲の空気は振動するので、その内容までははっきりわからなくとも、喜怒哀楽、真面目な感じ、緊迫した感じなどそれとなく雰囲気は感じとれる。
扉は見かけよりも厚いのかあまり音は聞こえてこないが、さっき入っていった男とツアフが向かいあって何かしゃべっているのはわかる。
何かの密談か、そんな感じだ。談笑している感じではない。酒を飲んでいる風でもない。
ツアフが夜になるとここに来る目的は何なのか。今、中でツアフと面会している男はなぜ、ここに来たのか。
中ではごく真面目な会話がなされているようだ。
ここはひょっとすると、何でも屋、傭兵ギルドの出張所のようなものではないだろうか。夜の、歓楽街の出張所。
あまり表立って請け負えない、裏の仕事を引き受けている……。
中に入って行った男が扉に向かってくる。用談が終わったのか。もう一度扉から離れる。男は外に出てくると表通りの方へ歩いて行った。
これは中に入ってみるしかないだろう。もし裏の仕事を引き受けているのなら、それはそれで構わない。
どうせ相手にされないだろうし、こんなところに来るなと怒られるだけだ。なんだかんだ言ってこちらはフロンテーラ商会の関係者だ。彼にとっては客筋である。悪いことにはならないだろう。
ひと呼吸おいて、扉を開けた。
「いらっしゃい」
その部屋は廊下のような、奥に細長い部屋だった。出入り口以外に扉はない。窓もなかった。奥に椅子がひとつ、その奥に机があり、その机のさらに奥に、黒いフード付きのローブを来たツアフ、老婆のようなしわがれた高い声音でしゃべるおそらくツアフ、が座っていた。
ツアフの座る机のまわりは、机の上の蝋燭や、天井から吊るされたカンテラなどがあってまぶしいくらいに明るい。
今までに嗅いだことのない香の匂いがした。濃い甘い匂いだ。
どういうことなのか。
何でそんな格好している。変装しているつもりか。
ツアフはフードを深くかぶっていてその目は見えない。フードから長い金髪が見えている。かつらをかぶっている? しかも口には薄く紅をひいているようだ。
「ここははじめてかしら」
ふふ、とツアフは笑った。
こいつ……こんな趣味があったのか。だが、いや、変装する必要がある、ということか。まるで見た目は魔法使いのようだ。
「こちらに来て座りなさいな。お若いお客さん」
しかも、俺のこと知らない? というか、知らないふりをするつもりか。
いや、変装しているくらいだから、知らないふりはするか。
気持ち悪いが仕方がない。ツアフの前まで行って椅子に座る。
「それで、坊やは売り、それとも買い、どちらかしら」
「……?」
なんだそれは?言ってることがよくわからない。
「あら、まさかここがなんの店か知らないで来たの?」
「い、いや…」
なんだかあまりしゃべりたくない。ここにいたくない。扉を開けて失敗したような気がする。
ここはひょっとするとかなりやばいところ、そっちの方のお店なのか。
こいつ、自分の趣味だか性癖だか知らないが何かやばいことを斡旋してるんじゃないのか。
だが、それは違った。そんないかがわしいことではなかった。
いや、ある意味、もっとやばい商売をしているともいえた。
「あたしはね。情報屋よ。情報を買い、売ってるの」
フードの下の薄い唇がにーっと笑いを浮かべた。




