旅立ち 3
翌早朝、エルスとイシュルはルーシの両親の許を辞し、村の中心の広場に向かった。
セウタ村の広場は早朝から喧噪につつまれていた。ベルシュ村など近隣の村から納税の品が運ばれると翌日は臨時の朝市が立つからだ。だが今日はいささかその趣が違った。
広場の一画、騎士団の分屯所の前に、厳つい馬鎧を装着された大きな馬が三頭、繋がれていたからだ。
少し離れて子どもたちを中心に、村人が集まって来て見ている。朝日を受けた馬鎧があたりに鋭い光を放っていた。
「おーい」
分屯所の横にまとめて止めてあった荷車の方に、もうベルシュ村の男たちが集まっていた。
それからイシュルは朝市で、村から持ってきた物品の売却や購入、主に油や塩、麻や綿などの布地などになる——の手伝いをした。
塩の購入金額をごまかそうとする商人に鋭い指摘をし、逆に値引きさせようと意気込んでいた時に、屯所の正面の大きな両開きの扉が開き、首から下を鉄製の甲冑で固め、兜を小脇に抱えた三人の騎士たちが出てきた。続いて馬上槍や鉄盾を抱えた従者たち、軍用の大きな弓を持ち、矢筒を背負った弓兵が十人ほどぞろぞろと出てくる。
広場の喧噪が一瞬静まり、それがざわめきに変わった。
「騎士団の重装騎兵だ……」
横にいたエルスが呟く。
どうやら騎士団では昨日の魔獣の出現をかなり重く見たようだった。男爵の騎士団には重装騎兵なんてせいぜい二十騎程度しかないだろう。あの三騎は分屯の全力かもしれない。
全身鎧の騎者にランス、鎧で固めた騎馬はいわば重戦車のようなものだ。ラディス王国軍は三百騎の重騎兵を持ち、防御面での中核を成す重装歩兵とともに王国の主要な決戦兵力となっている。
王国軍と諸候の軍の、槍兵、弓兵、竜騎兵(軽騎兵)などの通常兵力に重装騎兵と重装歩兵の決戦兵力、そして特殊戦力としてのごく少数の魔導師、という構成はその他の大陸の主要国でも同様である。
重装騎兵三騎に弓兵が十名、従者たちも槍などで戦うとなると、昨日の魔獣、大牙熊を充分に圧倒できるだろう。
いや、重装騎兵を出したのは領民を安心させ、男爵家の武威を示すためのデモンストレーションと考えてもいいのかもしれない。大牙熊相手ならあの弓兵と槍兵がいれば充分な筈だ。
「エルス!」
分屯所の前の雑踏からポーロが出てきた。目ざとくこちらを見つけ歩いてくる。
「急いでくれ。あの騎士団といっしょに帰るぞ。村まで護衛してくれるそうだ」
イシュルは塩の入った壷を足下に置き、もっともらしく秤を使って弁明していた壮年の男に向かって、少年らしくない表情ですごんで見せて言った。
「全部で二百シールにまけろ。いいな? 重りに書かれている数字を足すと、おまえの言うとおりにはならないんだよ。つまらない嘘ついてんじゃねぇよ」
騎士団は兵士の他に、二頭立ての大きな荷車も用意した。荷車には丸太や縄、小刀、鉈などが積まれていた。ベルシュ村の者たちを送る途中かその後、魔獣の死体を運ぶためだろう。あの騎士らは村びとの護衛だけでなく、帰りには周囲の偵察も行うということだった。
滅多に現れないとはいえ帰りにもしまた魔獣が現れたら、村の者たちだけではどうなるかわからない。ちょっと心配だったから帰りも村の近くまで、何か理由をつけて無理矢理いっしょについていこうかと考えていたので、騎士団の護衛はとてもありがたかった。
騎馬の鎧は耳も隠していたが、あの魔獣の鳴き声の大きさだとたとえ軍馬でも動揺するだろう。ポーロに馬の耳に布を巻くなど対策した方が良い、と話すと、ポーロは、
「昨晩の話で何かやってるとは思うがな。一応確認しておこう」と頷き、
「これ、イマルに渡してくれ」と、小さな巻物を渡してきた。
イマルとはポーロの息子の名だ。エリスタールのセヴィルという商人のもとで働いている。イシュルも商人見習いとしてセヴィルの経営する商店で働くことになっていた。
「ファーロさまに書いていただいたのだ。息子によろしくな」
騎士団の隊列が広場を動き出すと、ごつい手をイシュルの頭に置いてぐりぐりとやり、後に続く村の車列の先頭に立って、広場を出て行った。
イシュルに向かっておのおの手を振ったり、別れの挨拶を言ってくる他の村人たちも車列とともに広場を去っていくと、後、残るのは父だけになった。
「気をつけてな」
エルスはセヴィルさんに渡してくれと、家で飼っているニワリトもどきを一羽つぶしてつくった薫製を渡してきた。そして、母が貯めてきた金だといって小さな布袋を渡してきた。中には銅貨と銀貨が数枚ずつ入っていた。
「落ち着いたら母さんとルセルに手紙を出すんだぞ。エリスタールの商人ギルドで聞けば村に行く商人を教えてくれるだろう」
その商人にいくらか手間賃を払えば、行商でベルシュ村に行く時に手紙を配達してもらえる。
「昨日の件があるからな。もしやと思うがもし魔獣に襲われそうになったら、急いで近くの林や薮の中に逃げ込め。なるべく大きな木に登って一日でも二日でも我慢してやり過ごせ」
父も、彼が村へと帰るエルスたちを心配していたように、イシュルのことを心配してくれていたのだった。
「大丈夫だよ。うまくやるから。心配しないで」
笑顔でしっかり頷いて見せると、エルスも何度も頷き返し、イシュルを一度抱きしめると、身を翻して村の車列を追いかけていった。建物の影に消える時、最後に手を振ってきた。
セウタ村を出ると、昨日と同じ、雑木林が点在する草原が続いた。途中、セウタへ向かう、軽装の騎馬数頭とすれ違った。昨日の魔獣の出現と関係したものだろう。
昼過ぎ、イシュルは道端の適当な木陰に入って、母の両親が持たせてくれた硬いパンと干し肉、果物を食べ、少し豪華な昼食をすませた。目の前には街道の向こうに適当な広さの草原が広がっている。
イシュルは木陰から立ち上がると街道に立ち、周りを見渡した。視界に人影はない。周囲に怪しいものも感じない。
イシュルは草原の方に目をやり、道をはずれてその草原の中へ歩きだした。
天気も薄雲が少しあるがほぼ晴天、視界は広く、付近に人はいない。セウタ村からもエリスタールの街からも離れている。絶好の機会だった。ちょっと試したいことがあったのだ。
しばらく草原の中を歩き、立ち止まる。意識を集中して、魔力を爆発させるような勢いで周りにまき散らし、激しい風を一気に起こす。それを上へと引き絞り、大きな竜巻に形づくっていく。
轟音を立てて草を巻き込み、地面を掘り起こして薄く茶色に染まった竜巻が前方、二百長歩(スカル、約百三十メートル)ほど先にある。高さは千長歩くらいはあるだろうか。だいたい五百長歩くらい離れたあたりから魔力が通らなくなってくるので、それから上は力が弱まり、おそらく六百長歩くらいで魔力はほぼ0、さらに上の方は風の勢いでなんとか竜巻の形を維持している、という感じだろう。
次にそれを前方へ動かしていく。そしてやや斜め方向に、右手にある雑木林の端にもって行く。あの林の草木は滅茶苦茶になるだろう。ちょっと気分が悪いがそうそう試せる機会はない。地表では渦の直径は五十長歩ほどはある。竜巻をその雑木林の端に引っ掛けるようにして停滞させた。木々が激しく揺れ、小枝が折れるより早く、その元のもっと太い枝や幹の上の方が引きちぎられていく。轟音にバキバキと木の折れる音が混じる。ついにやや小さめの木々が地面から引っこ抜かれ、身を捩り、葉をまき散らして螺旋を描きながら空高く上がっていった。
土煙と葉や草にまみれてもだえ狂う木々を、密集隊形をとった王国の重装歩兵の集団に置き換えて想像してみる。風に巻き上げられる全身を鉄の甲冑に固めた歩兵、紙切れのように舞う鉄の大盾。潰乱し逃げ惑う歩兵を、竜巻を前後左右に動かしてかたずけていく。おそらく、こう…円弧を描くようにして動かすのがいいだろう。
さらに竜巻を前方に移動していく。次に想定するのは朝に見た重装騎兵の集団だ。突撃前に隊列を組んだ二百騎ほどの部隊。実際、破壊された雑木林の先には草原しかないのだが。
竜巻が騎馬集団に激突する。馬がいななき、騎士がふるい落とされ、重装騎兵は人馬まるごと風に巻き上げられ、部隊は潰乱し…と、急激に竜巻が「手」をはなれ、勢いがなくなっていく。やがて竜巻は目に見える形を失いつむじ風のようになって、草原に消えてしまった。
そうなのだ。竜巻は前に進めることで自分からどんどん離れていき、その距離はもうすでに五百長歩(約三百メートル)を越えていたのだった。自分の魔力が減衰せずに届く範囲を越えてしまい、竜巻は急速に力をなくし、おそらく八百長歩を越えたあたりで最後は小さなつむじ風となって消えてしまった。
この後なんの対応もできなければ、今ごろは生き残った重装騎兵に蹂躙され串刺しになっているだろう。
歩兵ならともかく、機動力のある騎馬隊相手では距離が短くてあまり有効には使えないだろう。広域に使える強力な魔法なのに、その「足」がたりない。
竜巻の通った跡は、地面の土が掘り起こされて草地が消え、黒い土が露出し、竜巻をぶち当てた雑木林の端の部分は、枝が落ちて枯れ木のようになってしまった木々が数本立っているだけの寒々しい姿になっている。
強力な、広い範囲で使う魔法なのに、近距離でしか使えない。せめて一、二里(一里は千長歩)くらい離れてもコントロールできないと、あまり意味がないのではないか。
この中途半端な感じはなんだろう。違和感を感じる。故意にハンデをつけられているような感じか。何かが足りないのか。
ひと息吐くと眉間を揉む。それほどの疲れはないが、二度目はやめておこう。昨日の魔獣の件もある。
両肩をまわしてからだをほぐすと、街道に向かって歩き出す。先ほどの竜巻をふたつ同時に、あるいはひとつずつ二回続けて連続でつくり出すことも充分に可能だが、その後は何もできないほど消耗するだろう。
あれをふたつ同時にやれば、それなりの兵力の部隊を壊滅できそうだが…いや、ひとつを攻撃に使い、もうひとつは自分を中心にまわりに発生させて防御に使えば完璧か。
まぁ、状況次第だ。戦う相手を見極め、状況判断し、自らは傷ひとつ負わずに完璧に相手に打ち勝つ、そこには失敗が絶対許されない冷徹な厳しさがある。一度でも失敗すれば後はない。命を賭けて戦うということはそういうことだ。
あの竜巻が影響したのか、ぽつぽつと雨が降りはじめた。さっきより雲の色が濃くなった。だが空は明るく、太陽の光は雲を照らし、あるいはその雲の間から地上に降り注いでいる。
おそらく本物の、自然の竜巻ほどでなくても、強制的に上昇気流を発生させている形になるだろうから、上空の一部の雲を発達させて雨が降りやすくなる、ということはあるかもしれない。
雨が少し強くなってきた。少し歩を早める。街道脇の木の下でしばらく雨宿りでもして様子を見るか。母がつくってくれた焦げ茶のマントを、背中に背負った背嚢の紐をゆるめて取り出し、頭からかぶった。
街道に徐々に近づくと、道にひとり立っている人が見えた。白い服を着ている。
あれ? あんな人いたか?
さっきまで人影ひとつなかったのに。
雨が激しくなり、土砂降りになる。街道まで走り始めた。
これはまさか、もうさっき起こした竜巻とは関係ないだろう。あの程度の竜巻ひとつで、こんなに激しく広く雨が降り始めるなんて考えられない。あの白い服を着た人はいつからいたんだろう。魔法で起こした竜巻、見られてしまったろうか。
白い人は東の方を向き、身動きひとつせずその場に立ち続けている。その人の方へ寄っていく。
白い人は、明るい灰色のローブを着た老人だった。片手に祖末な木の杖をもち、足は裸足だった。頭ははげ上がり、白い長い髭をたくわえている。顔は深い皺に覆われていた。かすかに口を動かし、何かしゃべっていた。
もの凄い違和感を感じた。見た目は仙人だか、聖人だか、そんな感じだ。前にどこかで見たような既視感がある。何を見、何をしゃべっているのか。正面から近寄ってみる。
老人はこちらを無視し、小声で何かしゃべり続けている。
「……」
やたら早口で、何を話しているのか聞き取れない。正面から老人の目を見てもなんの反応もしない。
狂人か。
「おい、じいさん」
反応がない。
「ずぶ濡れじゃないか。木の下にいって、雨宿りしようよ」
長く伸びた眉毛から雨水がしたたり落ちている。
老人は何かを小さな声でしゃべり続けている。それは時々とぎれ、すこし間が空いたりして、ここにいない誰かと会話しているようにも感じられた。
これはダメだ。相手にならない。
仕方がないので、老人から離れ、ひとり近場の木の下に行き雨宿りをすることにした。
明るい空に激しい雨、道に佇む気の狂った白い老人。まるで幻覚を見ているようだが、あの老人の顔の眉を落ちる雫、全身から感じる確かな存在感は現実、そのものにしか思えない。
木の下から老人の方にちらちら目をやるが、相変わらず身動きひとつせず、何かを話し続けているようだ。
やがて雨脚も弱まり、空が一段と明るくなってきた。雲が流れていく。さきほど竜巻をおこした平原の方に、薄く虹がかかっているのが見えた。
何か不思議なところにいて、現実に戻ってきたような気がした。
虹を見ながら、さい先いいかな、と思ったりする。
まだ細かく微かに雨が降っているが、そろそろ行くか。
ふと視線を虹からはずし老人の方を見ると、老人の姿がなかった。
あたりを見回してもいない。姿が見えない。
老人は消えてしまったのだった。