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夜露

 

 眼下の暗闇を篝火が一斉に灯されていく。

 ほんのり照らされ夜闇に浮かび上がった街道を、幾つもの騎馬が行き来しはじめた。

 馬蹄の地面を叩く音が夜空に鳴り響く。

 イシュルは下草の覆う草原に降り立つと、ペトラのテントに向かった。

 夜露に湿り気を帯びた草葉が足許にまとわりついてくる。

「剣さま」

 ヨーランシェが行く手に立ち塞がるように、イシュルの前に降り立った。

「何か、あった?」

 優しげな口調。

 彼はあの微笑を浮かべていた。

 いつもの、何かを隠したあの笑みを。

「……」

 イシュルは無言でかぶり振った。

 胸のうちをのたうちまわる苦しみを、悔恨をぐっと抑えつける。

「何でもない。きみの弓射は素晴らしかった。……その時は頼むよ」

「……そう」

 ヨーランシェの微笑に悲しみがほん少し、混ざったように見えた。

 そのまま彼の姿が薄く、闇に消えていく。

 イシュルは一瞬立ち止まり、身じろぎすると視線を厳しく、精霊の消えた夜闇を見据えた。

 ヨーランシェの微笑が辛かった。

 月神について何か問えば、彼はそれに答えてくれたかもしれない。

 だが聞けなかった。

 ペトラのテントに近づくと、篝火の灯りに黒い影となって、多くの人々が集まっているのが見えた。

 その影からロミールの頼りなげな姿が浮き上がった。

「イシュルさん!」

 ロミールはイシュルに近寄ると、緊迫した面持ちで声をかけてきた。

「探していたんです。ペトラさまがお呼びです」

「ああ」

「あの大爆発……、イシュルさんが魔法を使ったんですか」

「いや。俺の召喚した精霊の魔法だよ」

「……凄い」

 イシュルの横を歩きながら、ロミールが独り言のように呟く。

 ペトラの護衛の茶色の服の男たちにクリスチナたちメイド、近くに野営していた諸侯らしき者たち、彼らの間をすり抜けてペトラのテントの前に出ると、彼女の他に、マーヤ、リフィア、ミラの姿があった。

 マーヤたち三人は揃って、この時間になってもペトラのテントにいたらしい。

 こんな夜遅くまで何をして……、何を話していたのか。

 イシュルは苦笑を浮かべるとペトラたちの前に立った。

「おお、イシュル!」

 ペトラの顔が篝火の炎に紅く染まっている。

 リフィアとミラは微笑を浮かべ、無言でイシュルを見つめてくる。

 マーヤはいつもの無表情。

 イシュルは素早く視線を右にやった。

 彼女たちに少し離れて、ニースバルド伯爵親子と軍監のトラーシュ・ルージェクの姿もあった。

 彼らはイシュルから背を向け、周りに集まった騎士たちに何事か、小声で指示を出している。

 騎士らの集団から少し離れた奥の方には、多くの馬の気配がある。騎士たちは皆、諸侯がよこした伝令だろう。部隊の指揮官であるレヴァン・ニースバルドが中心になって、彼らから各隊の状況を聞き、指示を出しているようだ。

 イシュルの視線に気づいたか、まずルースラ・ニースバルドが、続いてトラーシュが振り返った。

「すまない、敵方は皆殺しにした」

 イシュルはペトラから、ルースラへ視線を向けて言った。

「あれはイシュルさまの大精霊がやったのですね」

 ミラが横から言ってきた。

「俺が空に上がった時にはもう、やつらは森の中に逃げ込んでいた。生けどりにするのも面倒だから、ヨーランシェの試射の標的になってもらった」

 イシュルは一同を見回し言った。

「ヨーランシェ……」

 リフィアが低い声で呟く。

「大精霊とは凄いもんじゃの」 

 と、こちらはペトラの少し暢気な感じの声。

「カルリルトス・アルルツァリに負けてないね」

 最後のマーヤの言に、イシュルが固まる。

 マーヤ……。

 いつかのように、カルリルトスの名を淀みなく言い切るマーヤ。

 彼らの名を覚えきれないのは、実は俺だけなのか。

「気にする必要はないですよ、イシュル殿」

 肩を落としうなだれるイシュルに、トラーシュが声をかけてきた。

「輜重を襲ったのはおそらく傭兵です。彼らを捕えても詳しい敵情は得られないでしょう」

 そしてトラーシュは、「長く続く戦乱の故か、連合王国では傭兵がよく使われるのです」と続けた。

 気にする必要はないって、そっちか……。

「なるほど」

 イシュルは苦笑を浮かべ、小さな声で言った。

「しかし……。輜重ばかり続けてやられるのも困ります。イシュル殿の強力な精霊もいることだし、これから夜は輜重隊にも精霊の見張りを回しましょう」

 ルースラが顎に手をやり難しい顔をして言った。

 ……やはり魔導師や精霊の見張りを、輜重隊につけていなかったのだ。相手が影働きや魔法使いでは、歩哨を立てても意味がない。

 今夜の野営は地形上東西に長くなって、哨戒する精霊の数が足りなくなったのだろう。それで見張りの手薄になった輜重がやられたわけだ。

「今晩のような地形で野営をする時は、歩哨線を二重、三重にしましょう」

 たとえ影働きであろうと魔法使いだろうと、二線、三線の見張りにも気づかれず、野営地内部まで侵入するのはなかなか大変な筈だ。

「ええ」

「ほう……」

 ルースラが薄く笑って頷き、トラーシュがイシュルの言に感心したような顔つきになった。

 トラーシュは見張りに縦深を持たせるイシュルの提案よりも、彼の言った「歩哨線」という言葉に反応したのかもしれない。

「それよりも」

 イシュルはルースラとトラーシュに厳しい顔を向けて言った。

「敵の傭兵はどこからこんなところまでやってきたんですか? この状況下で、王国内でまとまった数の傭兵を集めるのは不可能だと思うんだが」

 敵の妨害部隊は多くてもせいぜい十名くらいだろう。だがその程度の人数でも、戦争状態にある王国西部で腕利きの傭兵を集めることはできないだろう。大きな街のギルドに依頼を出しても多分、結果は同じだ。皆すでにラディス王家や領主たちの傭兵となっているか、他国に逃げ出しているかどちらかで、国内にまともな人材は残っていないだろう。

「そうですね。敵の襲撃部隊が傭兵だと断定するなら、その多くは連合王国からつき従ってきた者たちでしょう」

「どこかに敵方の策源地があるのではないか」

 バルスタールからだと距離がありすぎる。どこかに目立たぬよう、少数で移動してきた傭兵や影働きの者たちが集結し、補給を得られるような小拠点が設置されているのではないか。

「そうかもしれません。だがまだ判断するには材料が足りない。オークランスに到着したら情報を集めましょう。いや、手の者を先行させて情報を収集させます」

 トラーシュも考え込むようにして言った。

「わたしもそれに賛成です。妨害工作はイシュル殿に行われたものも含めて、今晩でまだ二度目です。オークランス到着まで様子を見ても良いと思います」

 と、ルースラ。

「……」

 イシュルは無言で首肯した。

 やはり先ほどの火つけ、皆殺しにしたのはまずかったか。

「結論が出たようじゃの」

 ペトラがまるで他人事のように、欠伸を押し殺して言ってきた。

「あくびはだめ」

 横からマーヤがたしなめる。

「まぁ、良いではないか。しかしイシュルの精霊は羨ましい。あの風の弓使いだけで、一軍といえどあっという間に全滅じゃろう」

「そうかもな」

 だがそれは相手に、有力な魔法使いがいなかった場合だ。

「……うむ。それでは妾はそろそろ休ませてもらおうかの」

 ペトラはのんびりした口調で周りを見回しながら言った。

「おやすみ、ペトラ」

 イシュルはふと気づいて、苦笑を浮かべて言った。

 ペトラの隣のマーヤも、ほんの微かに笑みを浮かべている。

 ペトラのこれは()()だ。

 ヘンリクに合流するまで本隊の指揮を執るのはレヴァン・ニースバルドだが、正式な総大将はペトラである。彼女の一挙手一投足が、全軍の士気に影響することだってある。

 彼女が敵の小さな襲撃程度で動揺し、騒いだりしては話にならない。

 ペトラは、一軍の頂点に立つ者は何事にも悠然と構え、むしろ愚鈍に見えるくらいでちょうど良い、と考えているのだろう。

 まぁ、あれはほとんど彼女の()、でもあるのだろうが。

「はははっ。では姫君、今宵も良き夢を」

 伝令に指示を出し終えたのか、後ろから当のレヴァン・ニースバルドがペトラに乗っかってきた。

 周りにいささか場違いな、明るい笑い声が起こった。


 


 層雲が西に流れていく。

 車輪の回る音。馬蹄の音。甲冑の擦れて鳴る音。

 時折空から降ってくる、野鳥の鳴く声。

 大公軍はその長い隊列を地に這わせ、王都へ向けて行軍を続けている。

 シュバルラード号は相変わらず落ちついていて、驚くほどに従順だ。

 彼はイシュルが乗るとすっと寄り添ってきて、気持ちを読んでくる。

 ……しかし昨日はペトラのあの、とぼけた態度に救われた。

 イシュルは馬上でしばし、周囲の様々な動き、音、色の中に身を委ね、思索に沈んだ。

 あの時、メリリヤの流した涙は重い悔恨をイシュルに思い出させた。

 ……月神はなぜ俺の憎悪を煽り、俺の邪魔をし、試練を与えようとしてくるのか。

 俺が風の魔法具を得たのも、赤帝龍がおよそ二百年ぶりに現れたのも、家族を、故郷の人々を失うことになったのも、すべてがあの冷たい月の女神がやったことなのか。

 もしや、俺の転生さえも……。

 いや。それは違う。

 イヴェダによって風の剣を授けられた時、あの時感じた神々の力の源泉は、天界を超え、この世界を超え、時空さえも超えようとするものだったが、前世の、異界さえも紡ぐものであったが、それを感じ見ることはできても、手を届かせることはできなかった。前世の、終わってしまった俺の人生まで届くことはなかった。

 風の剣を得た時。

 あの時俺はただ昔の、幻を見ただけだったのかもしれない。

 ただ自分の記憶が、自分の心の視界に投影されただけだったのかもしれない。

 だがあの力は本物だった。

 全身を、心を、魂を揺さぶる何かだった。

 でもそれは……。

 この世界の神々は俺を前の世界から、こちらの世界に転生させる能力は持っていない。

 あの力に触れることで、そのことも知ることができたような気がする。

 俺の転生に関与できないのなら、俺の身に降りかかった災厄も、失われた多くの人々のことも、全て月神が仕組んだとは言えないだろう。

 ……主神ヘレスは、俺が転生者であることを知っているのだろうか。

 たぶん、彼女は知っているのだろう。

 いや、やはり俺の心に、記憶に刻まれた、この世界にとって異質なものを知ることができないでいるのだ。そうに違いない。

 だから彼女は俺に接触し、俺の命を助け、俺を観察している……。

 そもそもヘレスと他の神々の関係、月神レーリアと風神イヴェダの関係はどうなっているのだろう。

 主神の間に降臨したイヴェダの、俺にとった態度に嘘偽りはないだろう。

 一方、レーリアは俺を焚きつけそそのかし、邪魔をしてくる。

 イヴェダは俺の味方。レーリアは俺の敵。

 そしてヘレスは彼女たちの上に立つ存在でありながら、それをただ傍観しているだけのようだ。

 神々はヘレスの下にいず、主神からなかば独立した存在なのだろうか。

 だがそれは、はるかな古代から続く神々に関する教え、聖堂教の教義に根本から反するものだ。

 風神も、月神もヘレスが動かしているのなら、彼の神は何を考えているのか。

 それがまったく読めない。わからない。

 それとも、赤帝龍が言った名もなき神、名も知れぬ神の正体を知ることで、すべてが明らかになるのだろうか。

 名もなき神が、それとも主神ヘレスが黒幕なのか。

「ふっ……」

 神さまを“黒幕”呼ばわりか。それはまずいんじゃないか?

 イシュルはわずかに顔を俯かせ、唇を歪めた。

 目の前、すぐそこにシュバルラードの黒い首が、真っ黒のたてがみがある。

 黒い色は暗闇を、月神の現れたあの暗黒を想起させた。

 昨晩から幾度となくイシュルをさいなんできたもの。……それは闇の中に光ったメリリャの涙だ。

 視界に、心のうちに広がる悲しみに、再びイシュルが飲み込まれそうになった時、端からあざやかな金色の色彩が踊るように差し込んできた。

 そしてもう一方を、きらきら輝く銀色の光がさざめいた。

「イシュル、どうした? 何か考えごとかな」

 右側からリフィアが馬を寄せ、声をかけてきた。

「……」

 視界を、そして心を侵してきた闇が引きちぎられ、かすんで消えていく。

「イシュルさまはいつも誰よりも深く、先のことを考えているのです。むやみと邪魔するものではありませんわ」

 イシュルの左側からはミラがつんとして、リフィアに文句を言ってくる。

「へぇ。そうなのか? イシュル」

 リフィアが横目に、ミラにではなくイシュルに言ってきた。

 彼女はよくこうしてイシュルをからかい、気を引こうとしてくる。

 からかいながら甘くやさしい、輝くような笑顔を見せてくる。

「そんなこと当たり前ですわ。リフィアさんも、昨晩のイシュルさまと軍監殿のお話を聞いていましたでしょう? 歩哨線、なんて言葉、わたくしはじめて耳にしましたわ」

 ミラもリフィアの思惑にかまわず、ふたりの間に割り込んでくる。

「わたしも債権発行、などという言葉、はじめて耳にした」

 リフィアは囁くような小さな声で呟くと、ミラを横目に一瞥し、イシュルに続けて言った。

「昨晩はあんなことがあったからな。いくさのことでも考えていたか、イシュル」

 リフィアがイシュルを横から見つめてくる。

 いつでも相談に乗るぞ。いくらでも力になる。頼ってほしい……。

 そんな気持ちのこもった視線だ。

「イシュルさま? 何かお考えがあるのならわたくしにもお聞かせください。お命じください」

 ミラも負けじと、イシュルをじっと見つめて言ってくる。

「……」

 イシュルは忙しく、何度も首を左右に振ってふたりの少女の顔を見た。

 そして前を向き、笑みを浮かべた。

 ……彼女たちに救われた。

 いつまでも過去を想って、打ち沈んでいる時ではないのだ。

 だがこれは……。

「うっ」

 前を向くと、先を行く戦車チャリオットの背からこちらをじっと見る、ふたつの顔があった。

 四つの眸が無言で、じっとこちらを窺っている。

 空は広く、遠くに漂うもやは野火か、人煙か。

 ぺトラとマーヤが、俺を見ていた。



 昨晩の襲撃の故か、今日からぺトラの周りの隊列に少し、変化があった。

 フロンテーラの大公城から出陣した時は、ペトラとマーヤの乗るチャリオットの前をリフィアが、左右を茶色の上着の剣士たちが、その後ろにイシュルとミラ、シャルカが配置され、続いてメイドたちが馬車に乗り、最後をマリド姉妹が守る隊列だった。

 だが翌日には、メイドたちが乗馬用の裾の長いキュロット・スカートに着替え、短剣や長剣を吊るし、馬車から各自、馬に乗り換えた。

 クリスチナもセルマも、他のメイドたちも、イシュルとは比較にならない、しっかりとした乗馬の心得があるようだった。

 シャルカは初日はサイドサドルでメイド服のまま、器用に馬に乗っていたが、彼女も翌日からキュロット・スカートに着替え、横乗りをやめている。

 それが昨晩の襲撃後、今日になってマリド姉妹がチャリオットの前に移動し、両脇を守る茶色の上着の剣士たちが四名に減り、リフィアが後ろに回ってイシュルの右側に来て行軍することになった。

 シャルカとメイドたちの隊列は変わらず、茶色の服の剣士二名は情報収集を行うためにオークランスへ先行している。

「何か策を思いついたなら、妾の横に来て説明せえ」

 ペトラがチャリオットの背に顔を半分ほど出して言ってくる。

 隣のマーヤといい、その仕草はまるで子供のようだ。

「いや、別に」

 イシュルは視線を明後日の方に向け、すっとぼける。

「何も思いついてないぞ」

 そしてペトラに視線を戻して言った。

「ちゃんと前向いて座ってろよ。危ないぞ」

「ちっ」

「お姫さまがそんな汚い言葉遣いしちゃ、だめだろ」 

「ふん! じゃ」

「……」

 イシュルがペトラの舌打ちを注意すると、彼女は鼻をツンと上げて前を向いた。

 マーヤもイシュルをちらっと見つめると、無言で前を向いた。

 ……あれだ。あのマーヤの視線。

 昨日からマリド姉妹が前に来て、リフィアが後ろに下がって、隊列が変わった。

 はっきり言って、昨晩の輜重隊への襲撃と何が関係しているのかわからない。隊列変更の指示はペトラかマーヤ、軍監のトラーシュが出したのだろうが、どういう意図によるものかがわからない。

 野営地から出発する時、横に来たリフィアに聞いてみたが、ただ「変更になったから」と言うだけで、特に理由は話してくれなかった。

 たいしたことじゃないんだが……。

 あのマーヤの意味ありげな視線がどこかおかしい。

 ただ隊列が変わっただけではない。今日の行軍から、何となく周りの空気が少し変わったような気がするのだ。

 リフィアもミラも時に鼻歌でも歌いそうな、機嫌の良い表情をする。

 周りの空気が微かに弛緩しているような、微妙にぬるい感じがする……。

 王国が危機に瀕し、これから戦場に赴こうとしているのに。

「……」

 イシュルは視線をちらっと左右に走らせた。

「いいのか?」

「何かありますか? イシュルさま」

 すかさずリフィアとミラが反応する。

 リフィアの「いいのか」は、先ほどの続きだ。彼女は「相談しなくていいのか」と言っている。

「いや……」

 イシュルは困惑気味にふと視線を前にやった。

 ん?

 マーヤの帽子にペトラの明るい金髪、チャリオットの先を行くマリド姉妹が馬上から揃ってイシュルを見ていた。

 ふたりはイシュルと視線が合うと、アイラは少しバツが悪そうに前へ向き直り、リリーナは余裕のある微笑を浮かべ目で会釈して前を向いた。

 ふたりは俺を見ていた……。

 やはり、何かあったんだ。いったい何が?

「あっ」

 イシュルは小さく、声を発した。

 そういえば昨晩、彼女たちはペトラのテントで夕食をともにし、その後も夜遅くまで一緒にいたのだ。

 ペトラのテントの前にはマーヤはもちろん、リフィアもミラも、ペトラのすぐ傍に立っていた。明らかにあの騒ぎの後、一緒に外に出てきたという感じだった。

 マリド姉妹はペトラの近習である。彼女らもペトラたちと同席はしなくとも、同じテントにいたろう。その時の会話は、彼女たちにも筒抜けだった筈である。

 何かを、何をペトラたちは話していたのだろう……。

「どうした? イシュル」

 その時、リフィアの声がした。

 その声が妙に近く聞こえる。

 右を向くと、リフィアの顔がすぐ横にあった。馬を寄せ、上半身をイシュルに傾けている。

 リフィアはイシュルと一瞬目を合わすとすぐに逸らした。

 長い睫毛が揺れ、唇の端が微かに引き上げられる。

「……」

 イシュルがどきりとして逃げるように前を向くと、視界の隅を再び、金色に輝く色彩が踊った。

 ミラの方を振り向くと、彼女も心持ち顔を上向け、眸を細めて横目にちらっとイシュルを見やると、すぐに逸らして口角を引き上げた。

 機嫌のいい時の彼女の表情だ。

 ……いったい何が起きているのか。

 気にしすぎか。

 イシュルは視線を遠く、西の空を仰いだ。

 馬蹄の重なり、車輪の音に甲冑の掠れる音。辺りは進軍の音に包まれている。



「……やはりおかしい」

 襲撃のあった日から数日経った夜。

 イシュルは顎に手をやり考え込みながら、硬い声で呟いた。

「何がです?」

 横に座るロミールが言った。

「いや」

 ……聞こえてしまったか。

 イシュルは素焼きの火鉢に視線を落とし、小さな声で言った。

 火鉢にくべられた炭がほのかに紅く、辺りを照らしている。

 今晩は野営になり、イシュルはロミールとともに、就寝までのひとときを火鉢に当たってのんびり過ごしている。

 同じテントで寝起きしているとはいえ、イシュルの従者であるロミールは本来、彼の寝所に気安く出入りはできない。だが当のイシュルはそんなことに構わず、ロミールを寝所に呼びつけこうして一緒に暖をとったり、ペトラや軍監のトラーシュに呼ばれない時など、食事をともにしていた。

 ロミールがいるからというのもあるかもしれないが、明らかに襲撃のあった日から、リフィアやミラ、マーヤたちがイシュルの許を訪ねてくる頻度が減った。

 街道沿いの村や街に宿営する時は、イシュルもリフィアやミラとともにペトラの泊まる村の取り次ぎ役や、小領主の館に同宿することが多いのだが、その場合もペトラの晩餐に呼ばれることはあっても、彼女たちからイシュルの泊まる部屋に訪れることが少なくなった。

 彼女たちがイシュルの部屋を訪れる、といってもほとんどはメイドに代わって食事に呼ぶとか、何かの用事がある時に限られ、イシュルとお茶を飲むとか、ただ話をしたいから、などという特にはっきりとした目的のない訪問は皆無になった。

 この変化の理由は何か。イシュルには皆目見当がつかなかった。

 大戦おおいくさが迫っている。だから彼女たちはみな節度を守って、大一番に備えているのか。

 それともまさか、イシュルは彼女らから嫌われ、距離を置かれているのか。

 しかし行軍中にしろ、休憩時にしろ、彼女たちは以前と同じ態度でイシュルに接してくる。彼女たちのイシュルに向けてくる表情も声音も、何も変わらない。

 心惑わすリフィアの輝くような眼差しは、ミラの甘い眼差しは変わらない。

「わからない……」

「えっ、わからない?」

「いや、何でもない」

 ちょうどロミールは火鉢に手のひらをかざし、「ここ数日は寒くなってきましたね」「夜は特に冷え込むようになりましたね」などと話しているところだった。

「イシュルさん、何か悩みごとですか」

「え? うんうん、大丈夫だから」

 イシュルはロミールの問いに、小さく笑ってごまかした。

 視線を落として、火鉢にくべられた木炭の赤く熾るさまを見つめる。

 ……彼女たちの間に何かがあるのだ。そんな気がしてならない。

 明らかに空気が変わった。彼女たちの間が、俺と彼女たちの間が。

 決してまずい状態ではないし、気にかける必要はないのだろうが……。

 なぜか知りたいと思う気持ちを抑えられない。

 知っておかないとまずいような気がするのだ。

「ふむ」

 どうするべきか。彼女たちの間に流れる微妙な空気感、態度。その変化。

 あの晩、ペトラのテントで何かが起きた。何かが話し合われたのは間違いない。

「……」

 イシュルは顎をさすって視線を彷徨わせた。

 単純にその時のことを、あの場いた誰かから聞き出せば、それでいいのだが……。

 リフィアやペトラはだめだ。あのふたりだと、ただこちらが弄られて何も聞き出せずに終わるだけだ。

 ミラは俺が強く言えば話してくれるかもしれない。だが、彼女は根が真面目で一本筋が通った性格だ。すんなり話してくれるか、微妙な気もする。

 それに知りたいことは要は、女の子たちの夜の会話の中身である。あまり強く出るのもおかしいし、変だ。

 残るはマーヤとマリド姉妹だ。昼間の姉妹の感じからすると、彼女たちも何か知っているのは確かだ。

 案外、彼女たちなら話してくれるかもしれない。それに何となく聞きやすい気もする。そう思えるのは、彼女たちが当事者ではないからである。

 だが一方で、マリド姉妹はペトラの従者である。つまりあるじの秘密に関わることであれば何も、一言たりとも話してくれないだろう。

「ふーむ」

 イシュルは背筋を伸ばし両腕を胸の前で組んだ。

 横ではそんなイシュルを、ロミールが呆然と見上げている。

 ……残るはマーヤだ。

 あいつが一番怪しい。というか、あいつがこの謎の核心だ。特に理由はないが、それは絶対間違いない。

「うーむ」

 イシュルは小さく唸り声を上げる。

 マーヤはあれで、人と人の間を取り持つ調整能力が抜群だ。ただ彼我の立場の違いや利害を調整するだけでなく、当事者たちの心向きや感情にまで踏み込んで、よりよくまとめようとする。

 ひとの心を読む観察力や、いろいろな事柄に対するバランス感覚、それらに優れるのはもちろんだが、彼女のあれは生来から持つ美質とも言えるものだ。

 マーヤはたぶん、何が最も大事か、それをわかっているのだ。ひとの心の大切さだとか、そんな根本的なことを、どんな場面でも忘失することがないのだろう。

 だが、しかし。

 こちらの器量が小さいせいか、人間ができていないせいか知らないが、彼女がよく冷笑的な雰囲気を漂わせている、彼女からそれをちらちらと感じてしまうのも確かである。

 そう、彼女の冷笑。

 ……やはりここは中央突破、事の核心であるマーヤに当たってみるべきだ。

 彼女は口が固い。だが一方で、彼女が一番話してくれる気もする。

 なぜなら心を開いて正面から向き合えば、いつも必ず彼女は真摯に応えてくれるからだ。

 彼女の冷笑は、こちらの人間の至らなさを映した鏡のようなものなのだ。

 多分、きっと。

「……よし!」

 イシュルが大きく頷くと、ロミールがにこにこして言ってきた。

「考え事、なんだかまとまったみたいですね」

「うっ」

 イシュルはロミールの顔を見て固まった。

「はは。……ごめん」

 イシュルは小さく笑って取り繕った。

 火鉢に手をかざして言った。

「さ、最近は、……夜も冷え込むようになったよね」

 

 

 ……剣さま。火の魔女が動いたよ。

 脳裏にヨーランシェの声がこだまする。

「……!」

 イシュルは素早くベッドから飛び起きると、上着を羽織った。

 仕切りの布をめくり、いつかの夜のようにぐっすり眠るロミールを跨いでテントの外に出た。

「王家の姫君のテントの右隣のテント、その裏にいる。他に男が数名いる」

「わかった」

 心なしか低い声で、ヨーランシェが知らせてくる。

 イシュルも小さな声で呟くように答えると、大小のテントが特に密集する、大公息女の寝所の方へ向かった。

 前回の野営時、夜間に襲撃のあった日から五日経っている。その間は街道沿いの村、大小の集落に宿営し、敵側からの目立った妨害工作はない。

 夜半に何度か怪しい者、数名が野営地に近づいてきたが、ヨーランシェが出る間もなく、諸侯に仕える魔導師の精霊に撃退されている。そのうち二名ほど捕縛されたが、尋問の結果、取るに足らない野盗の類で、傭兵でさえもなかった。とても敵軍の工作と関係があるとは思えない輩だった。

 あれからリフィアやミラたちの態度も相変わらず、変化はない。イシュルたちは厚遇され、ペトラの護衛も兼ねているためか、彼女の寝所となる村長むらおさや小領主の屋敷と同じ建物に宿泊する場合が多かったが、リフィアやミラはもちろん、マーヤやペトラもイシュルの泊まる部屋を訪れることはなかった。

 イシュルはそんな中、大公軍本隊が野営する夜に絞り、マーヤと一対一で接触できる機会を狙っていた。

 マーヤは出陣してから、一日のほとんどをペトラと行動をともにしている。

 彼女がひとりになる時間は限られる。イシュルひとりで彼女を監視し続けるのは無理で、その時はヨーランシェに代わってもらった。

 ヨーランシェは普段、クラウほど細かく人間の判別をしようとしない。イシュルはマーヤを、いつも王家の土の魔女の側にいる、火の魔法を使う魔女と説明した。

 周囲の外敵に対する見張りと同時に、火の魔女の動向も見張ってもらうようにお願いした。

 ヨーランシェはあの不可解な笑みを浮かべ、イシュルにちらっと意味ありげな視線を向けると、「わかった。まかせて」と応じてくれた。

「ヨーランは知っているのかな。ペトラのテントであの夜、何があったのか……」

 あの敵の襲撃のあった夜に、ペトラのテントに集まったリフィアたちが何を話していたか、ヨーランシェには聞こえていたのだろうか。

 イシュルが呟くように言うと、彼はその笑みを深めて、

「ぼくは何も聴いてないよ。王家の少女のテントに、何人か集まっていたのは知っているけど」

 と言った。

 そして、「女の子たちの会話に首を突っ込むのは、あまり感心しないな」と続けた。

「……」

 イシュルはその時いささか鼻白んだ顔になった。

 ……やはりそっちの方だった? 女子会? みたいなものでもやっていたのか。

 それがリフィアやミラたちの、あの態度になったと。

 それじゃ詮索するのもあれだし、何だか関わっちゃいけない、危険な感じがしないでもない……。

 調べるのはやめておくか、とイシュルが思った時、ヨーランシェが顔つきを改め加えて言ってきた。

「でも、剣さまがあの夜、彼女たちの話していたことを知りたいと思うのは最もなことだ。彼女たちはきっといくさに関わることも話したろう。それなら剣さまも知っておくべきだ」

 そう言うと、ヨーランシェは再び笑みを浮かべた。

 ……こいつ、本当は聞いていたんじゃないか。

 イシュルが睨みつけるのも構わず、ヨーランシェは続けて言った。

「彼女たちは剣さまの仲間、なんだろう?」



 ヨーランシェにマーヤの見張りを依頼した時には、そんなやり取りがあった。

 ……実は俺は、彼女たちが何かよからぬことを企んでいるんじゃないか、俺に対して何か仕掛けてくるんじゃないかと、むしろそちらの方を危惧していたわけだが……。

 リフィアとミラが、自らの気持ちに嘘をつかない、諦めたりしない、と言ったことは記憶に新しい。聖冠の儀の直前のことだ。

 しかし、ヨーランシェの「仲間なんだから」のひと言にイシュルは考えを改め、最初に決めたどおりに、あの夜のことをマーヤから聞き出すことにした。

「火の魔女は、王家の少女のテントの右側に少し離れて、何人かの男たちと小声で話している」

 ヨーランシェの小さな声が耳許でする。

「ああ」

 ペトラのテントも、マーヤの位置もこちらの感知範囲内だ。

 イシュルはテントの影に身を低くして潜み、外側から大きく回り込むようにして、マーヤと男たちの側面から近づいた。

 夜露に濡れた下草がうまく足音を消してくれる。テントの影の合間には篝火の炎がまばらに揺れ、辺りの暗闇をさざめかしている。

 歩哨線は野営地のもっと外側にあって、他に人の気配はない。

 ヨーランシェが他の精霊を近づけないようにしてくれている。他に魔法の使われている気配はない。

「……」

 イシュルはテントの影から、マーヤと男たちのいる方を覗き見た。

 わずかな篝火の灯りに照らされ、闇から浮き上がるマーヤと跪く男たちの姿が見えた。

 立っているのはマーヤだけ。彼女は男たちから何らかの報告を受け、何らかの指示を出しているようだ。その詳しい内容までは聞こえてこない。

 ……なるほど。

 赤帝竜討伐でフゴに赴いた時、当地で彼女は王家の影働きを指揮していた。彼女はただのペトラ付き宮廷魔導師ではない。王家の影働きのうち、少なくとも大公家に所属する者たちを直接指揮する、おそらくは元締めのひとりなのだ……。

 瞬間、紫尖晶のおさだったフレードの顔が思い浮かぶ。

 マーヤめ。喰えないやつだ……。

 秘密の会合は終わったのか、マーヤの前から、誰かの従者や諸侯軍の平騎士らしき格好をした男たちの姿が消える。

「ん?」

 すると同時にイシュルの背後に突然、魔力らしき光が鋭く煌いた。

 振り向くと目に前の暗闇に、細かな光の粒子を吹き出しながら空間が裂けるようにして、熱く燃えるような魔力が溢れ出ようとしている。

 火魔法の系統だ。マーヤの火精か……。

「目障りだ。剣さまの前からさっさと去ね」

 その時どこからか、ヨーランシェの今まで聞いたここともない、峻厳な声が響いてきた。

 目の前の、なかば炎と化した魔力がさっと暗闇に消えていく。

「ひどいよ。イシュル」

 背後から、イシュルに向かって歩いてきたマーヤの低い声が聞こえた。

「今晩は、マーヤ」

 イシュルはにやりと笑うと何の悪びれる様子もなく言った。

「真夜中なのに忙しそうじゃないか、マーヤ」

「む〜」

 マーヤはイシュルの前で立ち止まり、顔を横に逸らして唇を尖らした。

「ベスコルティーノが怯えてるよ」

「ふん」

 イシュルはかるく笑ってマーヤの言を流した。

 マーヤの精霊が、俺が見張っていることを彼女に教えたんだろう。

「で、こんな時間で悪いんだが、マーヤとちょっと話したいことがあってさ」

「……また空を飛んで、えーと。デートでもしてくれるの」

 マーヤの眸に悪戯な色が微かに浮かぶ。

「ふふ」

 デートなんて言葉、まだ憶えていたか。

 イシュルはマーヤに微笑むと言った。

「いや……。今この場で聞きたいことがあるんだ。すぐに済む」

「なに?」

 マーヤがじっとイシュルを見つめてくる。

 彼女の眸に、あの夜の時のような揺らめきは見られない。

「本隊がはじめて野営した日のことだ。輜重隊が襲撃された夜のことだ」

「イシュルの精霊が大魔法を使った晩のこと?」

「そう」

 イシュルは唾を飲み込み、マーヤの眸をじっと見つめた。

 あの夜、マーヤにペトラ、リフィアとミラが集まって何を話したか。あるいは地雷を踏むかもしれない……。

「マーヤたちはペトラのテントに集まって、夕食後も長い間、何か話していたろう?」

「ああ」

 マーヤがほんの微かに笑みを浮かべて頷く。

「次の日から君らの態度が、ちょっと変わったような気がするんだ。空気が変わったというか」

「なるほど」

 マーヤがもう一度頷く。

「……あの晩わたしたちが何を話したか、イシュルはそれを知りたいんだね」

 マーヤの微笑が消える。

 だがそれで真剣な表情になった、というわけでもない。

「リフィアや、ミラ殿には聞かなかったの?」

「ああ。おまえに聞いた方がいいと思ってね。しかもふたりきりで」

「ふーん」

 マーヤはそこで、再び悪戯な眸の色を見せた。

「わたしに聞きに来るとは、なかなかだね、イシュル」

「……」

 まぁな。おまえは裏でいろいろ動くタイプだからな。

 きっとおまえが鍵だ。

「でもそれは言えない。あの夜の盟約のことは」

「盟約? 何だそれは」

 イシュルは思わず大きな声で言った。

「声が大きいよ」

「ごめんごめん」

「あの夜決めたことは、あくまでわたしたちの問題。イシュルが気をかける必要はないよ」

「あっ、そう」

 イシュルはかるく上体を後ろに逸らした。

 これは失敗した。盟約、というのが何なのか知らないが、これはやはり女の子どうしの決め事だったわけだ。

 さっさと撤退しよう。これは絶対、踏み込まない方がいい。

 本能が逃げろ、と叫んでいるような気がする。

「イシュルはただ、連合王国の敵将を斃すことだけを考えて。わたしたちはもちろん、この先もイシュルを助けるから」

「ん? ……ああ」

 よくわからんが……。ヨーランシェが「仲間だから」と言っていたのはこれか。

「リフィアもミラ殿も詳しくは教えてくれなかったけど」

 上半身を仰け反らしたイシュルにマーヤがぐっと近寄り、顔を近づけてきた。

「イシュルには大望があるんでしょう? わたしもペトラも協力するから」

 そして声を潜めて言ってきた。

「そ、それはありがとう……」

 な、なんだかこれは……。

 イシュルはマーヤに向かってこくこくと何度も頷いてみせた。

 いやな予感が……。結局危ない領域に踏み込んでしまったような気がする。

「いつか教えてね、わたしたちにも。そうしたら、わたしたちの秘密も、少しだけ教えてあげる」

「わ、わかった」

 いや。……別に知りたくないけど。

 きっと知らない方がいいんだ。女どうしの秘密の約束事など、それを知っても何もいいことはないような気がする。

 だが、顔を引きつらせビクつくイシュルに、マーヤは意外なことを言ってきた。

「わたしも信じてるから、イシュルのこと。今度もきっと勝って」

 目の前のマーヤの眸に、不思議な光が灯る。

「そして……。どうかイシュルの望みが叶いますように」 



「昨晩、イシュルさまはマーヤ殿と何を話されましたの?」

 翌朝、イシュルがテントから出てくると、ミラとシャルカがそのすぐ前に立っていた。

 ミラはイシュルの顔を見ると、さっと身を寄せ囁いた。

「なぜそれを……」

「シャルカが教えてくれましたわ」

「……」

 イシュルがシャルカを見やると、彼女は何の意味があるのか、ただ無言で頷いた。

「イシュルさまは何も気にかけることはないのです。わたしたちは決してイシュルさまの邪魔をするようなことはいたしません……いえ、わたしはいつでもイシュルさまの味方ですわ」

 ミラはイシュルの胸にそっと手を添え、むしろ甘い声音になって続ける。

 ミラは昨晩のマーヤとの会話について、おおよその見当がついているようだった。

「……」

 見上げてくるミラの顔が近い。甘い吐息が俺に……。

 朝からこれは、強烈すぎる。

 イシュルはミラに無言で小さく頷き、喉を鳴らした。

「何をしてるんだ?」

 ふっと辺りの空気が動いて、リフィアがシャルカのすぐ横に姿を現した。彼女の眸が一瞬、赤く煌く。

「むっ」

 シャルカが反応できず、驚きにからだを横に逸らす。

「おはよう、イシュル。それにミラ殿」

「あら……」

「ミラ殿はお忘れかな、あの夜のことを」

 リフィアが薄い笑みを浮かべてミラを見つめる。

「忘れてなどいませんわ。これはそういうことではありません」

 ミラもイシュルから離れ、薄い笑みを浮かべてリフィアを見やる。

 寒々しい、空疎な笑顔で相対するミラとリフィア。

 ふたりはしばらく互いに睨みあうと、揃って同時に、イシュルに爽やかな笑顔を向けてきた。

 澄んだ空気の清廉な朝に相応しい、美しい笑顔だ。

 周りではテントをたたみ、種々の荷物を荷馬車に乗せ、従者や使用人たちが慌ただしく動き回っている。

 イシュルもふたりになんとか、笑みをつくって見せた。

 ミラとリフィアはイシュルの笑顔を見て満足したか、「またな」「では後ほど」などと声をかけると、自身の馬を繋いでいるテントの方へ去って行った。

「……」

 全身が硬直している。

 ……何が盟約だ。

 うつむいた視界に、夜露に濡れた草の葉が光った。

 その時、昨晩のやわらかな下草を踏みしめた感覚が甦ってきた。

 そしてマーヤの、小さな祈りの言葉。

 ……いや。彼女たちの想いは夜露のごとく、俺の心を濡らすのだ。

 イシュルはリフィアとミラ、シャルカの後ろ姿が人ごみに消えていくと、小さく息を吐き、無言で天を仰いだ。



   

 大公軍本隊はその後も順調に行軍を続け、四日目に無事、王都とフロンテーラを結ぶ要衝、オークランスに到着した。

 オークランスは街道の北の丘に立つ主城を中心に、古い城壁を周囲に張り巡らした城塞都市だった。昔、ウルク王国の滅亡時に、東進を狙うラディス王国軍の拠点になったと伝わる街だ。

 大公軍は出迎える住民の歓呼のなか華々しく入城し、一部は再び城外に出て各隊それぞれ、街の内外に陣を張った。ペトラたち大公家主従と、軍監のトラーシュ・ルージェク、本体の指揮を務めるニースバルド伯爵と彼らの近侍はオークランス城に宿泊することになった。

 オークランス城はオベリーヌ公爵の居城だが、当の公爵はヘンリクよりも早く王都防衛に出陣し、今はいない。城には城代としてオベリーヌ公爵夫人が留守を守り、彼女は城門にてペトラ一行を出迎えた。

 城門が開かれると背後に数名の騎士を従え、夫人がひとり前に出て跪いていた。

 陽は西に傾き城内を所どころ、長く黒い影が染めている。公爵夫人の着た明るい桃色のドレスが、その黒い影からぼんやりと浮き立って見えた。

 対するペトラもひとり、前に進み出た。彼女はすでにチャリオットから降りていた。

 ペトラのすぐ後ろに立つマリド姉妹からは、緊張している様子が伝わってくる。

 オベリーヌ公爵夫人からは正体不明の、重い緊迫感が漂っていた。

 イシュルは顔を上げ城門から城壁へ、その先の紅く染まった夕空にそそり立つ、城塔の影を見渡した。

 特に怪しい気配は感じない。ヨーランシェも何も言ってこない。

 公爵夫人は顔を上げると挨拶の口上もそこそこに、ペトラに重要な知らせを告げた。

 彼女の身にまとう緊張が何か、それで明らかになった。

 夫人はペトラに、国王マリユスⅢ世の出陣を告げた。

 彼は籠城戦を捨て出陣し、野戦を選んだのだ。

「先ほど、ヘンリクさまより早馬が到着しました。マリユスさまは王城に集まった軍勢を率い、王都を進発したとのことです。陛下はみやこの北に鉄壁の陣を敷き、連合王国軍を迎え撃つとのことです」

 


 

 


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