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決闘

 

 大陸の乾いた空が広い。秋空は冴えた青さをいや増している。

 イシュルは呆然とリフィアの名を呟いた。

「ふふ……」

 イシュルの声が聞こえたか、リフィアの笑顔がより大きく輝く。青空も霞むほどに。

「この娘は気を失っているだけだ。大丈夫だ」

 リフィアは左脇に抱えていた少女を両手に抱きかえ、イシュルに差し出した。

 少女の金髪が下にすべり落ちる。眠る少女の顔は穏やかで、目立った外傷も見当たらない。

「あれはどうする?」

 イシュルが未だに惚けた顔で少女を受け取ると、リフィアは投げ捨てた男の方を見て言った。

「そ、それよりなぜ、おまえがいる」

 イシュルは何とか驚愕から立ち直ると途端に目を怒らせ、低い声で言った。

「ごあいさつだな、イシュル。久しぶりに会えたというのに」

 リフィアの双眸から赤い輝きが消えた。その眸がわずかに細められる。

 かわってイシュルの頬に微かに朱が差した。

 リフィアへのさまざまな想いが心のうちで渦巻く。

 彼女を助け、騙し、利用し、そして愛した。そして彼女の父を殺し、彼女を切り捨てた。

 イシュルは一瞬、苦痛に堪えるような顔になるとぐっと顎を引き、その想いを抑え込んだ。

 そしてより低く、静かな口調で言った。

「クシムはどうなった? 領地を放っておいていいのか」

「ああ。そちらはおまえのおかげで順調だ。うまくいってる」

「……債権は? 金は集まったのか」

「……」

 リフィアは笑顔のまま頷くと、イシュルに近づき顔を寄せてきた。

「ペトラさまがおまえをお呼びだ。わたしはペトラさまに頼まれ、大公家の名代として参ったのだ」

 はぁっ?

「ペトラだと?」

 いったい何だ? こんな時に。……それに、顔が近い!

 イシュルは堪えきれなくなって、頭を後ろへ仰け反らした。

 おまえはきれい過ぎるんだよ……。

「今、おまえが何にかかわっているか、それは承知している。だがどうだ? そろそろそちらの件も片がつくんじゃないか? さっさと終わらして戻ってこい、ラディスに」

「そんなこと、おまえに言われる筋合いはない」

 イシュルがさらに視線を鋭くして言うと、リフィアは笑みを僅かに歪めて言った。

「用件はペトラさまのことだけではない。わたしもおまえに用事があるのだ」

 リフィアは後半を声を落とし、囁くように言った。リフィアの眸に不敵な、そして今まであまり見ることがなかった、妖しい光が混ざる。

「くっ……」

 リフィアの美貌に凄みが増していくのに、イシュルはぐっと堪えた。

 しかし、こいつの“用事”か……。それはまさか……。

 その時、イシュルたちを遠巻きに見ていた群衆の輪が揺れ、ざわめきが起こった。

「……!!」

 イシュルは背中を固くした。

 もうひとり、恐ろしいものが近づいてくる。

 ……後ろから。


 ミラは表情を消した、人形のような顔つきをしていた。

「わたくしは聖オルスト王国が五公家、ディエラード家の者です。どうやらあなたさまに、当家の者を助けていただいたご様子。感謝いたしますわ」

 ミラはそう言うと片手をあげて自らの髪を払った。リフィアに負けじと、くるくる巻かれた豪奢な金髪が舞う。

 彼女はイシュルの方を見ようとしない。

 赤いドレスがまるで、血の色のようだ。

 イシュルには、彼だけにはそう見えた。

「これはこれは公爵家の。わたしはリフィア・ベーム。ラディス王国はベーム辺境伯家の者だ」

「ええ。存じ上げておりますわ」

 ミラはその形の良い唇の端をぐい、と引き上げ笑みを浮かべた。

 人形の顔が笑った。

「そう……。あなたがあの辺境伯家の」

 ミラの眸が冷たく燃え上がる。

「そういえば……、辺境伯さまのご不幸には、衷心よりお悔やみ申し上げますわ」

 そ、そ、それを今、ここで言っちゃうのか。

「……」

 リフィアの笑みは変わらない。だがその眸の色が僅かに変わった。

 ……赤く。

 明らかに、ふたりの間には見えない火花が散っている。 

「……」

 イシュルはこの上ない恐怖に震撼した。

 両手に抱えるメイドの少女を取り落としそうになる。

 こ、これは戦争だ。戦争が始まる。

 ああ……。これは、この世の終わりが来たのか。

「……!」

 だが新たな恐怖をイシュルが襲った。

 ミラの首が機械仕掛けの人形のようにカクカクとイシュルの方に回転し、声をかけてきたのだ。

「この方の父君は、イシュルさまが討ち取ったのでございましょう?」

 そしてミラの首が再びリフィアの方へ回っていく。

「イシュル、さま? だと」

 リフィアの呻きが。こちらはこちらで燃えるように熱い……。

 お、おまえ。父親のことより、ミラが俺を「さま」づけで呼んでいる方が気になるのか?

 そ、それっておかしいだろう。

 くっ、ううう……。

 なんだ。いったいなんなんだ。

 周囲の群衆は粛として動く者さえおらず、まるで時間が止まってしまったかのようだ。  

 辺りは異様な殺気が充満している。

「あなたさまはまさか、敵討ちにいらしたの? いえ、イシュルさまの敵討ちに対する敵討ちだから、重ね、ですわね」

 そ、そうか。

 ミラは初見の相手になんて失礼な、なんてことを言うんだ!

 ……と思ったが、俺に対する重ね敵討ちを警戒していたのか。彼女は冷静なのだ、多分、きっと。

 いや。まさかそれを名目に、リフィアを排除しようとしているのか。

 ……ああ、やはりこの世は地獄か。

「……」

 リフィアは笑みを崩さない。リフィアも負けてはいない。

 眸は相変わらず鋭いが、そこには微すかにミラに対する揶揄が混ざっているようにも思える。

「重ね仇討ちとは、感心いたしませんわ」

 ミラが同じ言葉を繰り返す。彼女の眸がさらに細められる。

「……なるほど。これはおもしろい……」

 リフィアはちらっとイシュルを見、ミラの方に視線を戻すと、囁くような小声で言った。

「何がですの」

 ミラの顔つきがさっと変わった。

 まずい! ……これ以上はまずい。

 イシュルは広場の周囲に張った風の防壁を解除した。風の魔力が精霊の住む異界へ流れ、消えていく。

「おお、これは……」

 リフィアは今気づいた、とでもいった感じでわざとらしく周囲を見回すと、イシュルに顔を向けた。

「これはまた随分と腕を上げたな、イシュル。もはや人の技ではない……これこそ神業というべきか。素晴らしいじゃないか。イシュル」

 リフィアはにっこり笑顔で、ミラとは対照的に妙にやさしい、親しげな口調で言った。

 なっ、こいつ。ミラへの対抗心、丸出しじゃないか。それじゃ、おまえらの注意を逸らそうとした俺の意図が……。

「……!」

 同時に、ミラの方から声にならない叫びが放たれた。

 何かが壊れ、割れるような音が聞こえてきた、ような気がした。

 やばい!

 彼女もリフィアの口ぶりが、目映い笑顔が気に障ったのだ。とっても。さらに。これ以上もなく。

 どうする……!?

「リフィアさま!」

 そこで、周りを遠巻きにしている群衆の中から数人の男女が姿を現し、リフィアの方へ駆けてくる。

「……」

 イシュルはそっと息を吐いた。

 ……危なかった。一触即発とはこのことだ。ほんとに危なかった……。

 あれはリフィアの従者たちか。ん?

 リフィアに向かって駆けてくるのは男がひとり、女が三人。男は剣士、女たちは街中の娘らと同じような格好をしている。だが、彼女たちもそろって剣を吊っている。

 彼らはリフィアの傍までくると一斉に跪いた。

「……!」

 女たちは、クシムからアルヴァへ帰る途中に知り合った、辺境伯家のメイドたちだった。マリカ、ラドミラ、それにヨアナだ。男の剣士の方もどこかで見たような……。

「リフィアさま。これを」

 跪いた男が肩にかけていた革袋をリフィアに差し出した。

 赤茶の上質な革の袋は、口の部分を黄茶の光沢のある紐で結んである。

「うむ」

 その男がリフィアに革袋を渡しながら、イシュルにちらっと視線を向け、目礼してきた。

 あっ……。

 イシュルはふいに思い出した。

 この男。あの時、マーヤを馬に乗せてきた男だ……。

 あの時とは以前、イマルらとともにフロンテーラに向かう途中、ベルシュ村襲撃の凶報をセヴィルから聞いて街道を引き返した時、追いかけてきたマーヤとはじめて対面した時のことだ。

 ……それならこの男は大公家に仕えている、ということになる。マーヤはあの時、大公家に派遣されていた。そして今、大公家の名代として聖都に来た、というリフィアの従者をしている……。

 イシュルはちらっと男の腰から伸びている剣に目を向けた。あの時と同じような細身の長剣。かなり腕が立ちそうだ。

 続いてマリカがリフィアにフードつきのマントと、私物の入っているらしい小袋を差し出した。こちらはどちらも、ありふれた地味なものだ。

 ちなみにリフィアは今、生成りのチュニックを明るい茶色のベルトで締め、下は焦げ茶のズボンに黒いブーツ、細身の長剣をベルトから吊るしている。剣も外見そとみは派手なものではなく、これも剣士としてはよく見かける、ありふれた格好をしている。

 いかにも小領主のお転婆娘が下僕を引き連れ巡礼に来た、といった感じだ。あまり目立たないようにしているのだろうが、どのみち彼女の美貌では目立たない、というわけにはいかない。

 リフィアはそれらの荷物を片手にまとめて持つと、彼らに少し腰を落として言った。

「今までありがとう。世話になった。そなたらは、これから直ちにフロンテーラに戻るように。後はわたしひとりでいい。大公殿下とペトラさまには、首尾よくイシュルと会うことができたと伝えてくれ。わたしもなるべく早くイシュルを従え、そなたらの後を追う」

「ははっ」

 男がかしこまる。リフィアのメイドたちが彼女を見つめ、名残り惜しそうな顔をする。

 だが、彼女らはイシュルには一切、視線を向けてこない。

 そりゃそうだ。彼女らにとって、俺は主君を殺した男だからな……。

 イシュルは唇を微かに歪めた。

 しかし、イシュルを従え、ってのはどうなんだ? 俺はそんな気はないぞ。それに従者を全員帰しちゃうなんて、どういうことなんだ?

 リフィアが従者たちと別れの挨拶を交わし、彼らの後ろ姿が群衆の壁に消えていくと、彼女はミラの方へ向き直って、今までのいがみ合いなどまるでなかったかのように態度を改め、硬い口調で言った。

「確か聖王家の第一王子は今、ディエラード公爵家に滞在しているとか。わたしはアンティオス大公、ヘンリク・ラディス殿下の聖王家宛の書簡をお預かりしている。お手を煩わせ恐縮だが、わたしを貴女の屋敷に案内してもらえまいか」

 ミラは相変わらず氷のような冷え冷えとした顔つきのままだ。だがヘンリクの名を出されると小さくため息をつき、頷いて見せた。

「ヘンリク・ラディス……。そういうことなら仕方がありませんわね。サラの身を助けていただいた、お礼もしなければなりませんし。では当家へご案内いたしましょう」

「ミラ。あの男はどうするんだ?」

 あれはまだ微かに息がある。武神の魔法具を持っているのなら回収したい。

「放っておきます」

 ミラはつんとして冷たい声で言い放った。

 はは。やはり機嫌が悪い……。

「武神の魔法具は——」

「どうせ刺青ですわ」

 ミラはそれでもちらっとイシュルに視線を合わせてきた。

 それもそうか。

「……」

 むっ。リフィアの視線を感じる。俺とミラのやりとりを観察している?

 イシュルがリフィアに振り向こうとした時、ばらけはじめた群衆の中、左右からふたつの黒い影が空中に飛び出した。

 イシュルが魔法を使う間もなく、リフィアよりも早く、ふたつの黒い影が血煙に染まり、大小の肉塊となって吹き飛ばされる。

 ミラの背後で、ずっと無言で佇んでいたシャルカが両手を左右に広げていた。

 彼女が無数の鉄球を、散弾のように敵にぶっ放したのだった。恐るべき早さだ。

 ざわめきの中、広場の遠方で微かに悲鳴の上がるのが聞こえてくる。血まみれの肉塊が落ちた辺りだ。

 敵はやはり群衆の中に潜んでいた。彼らは弾け飛ぶようにして襲ってきた。こちらを恐れ攻撃するのをずっと躊躇い、後がなくなりついに事に及んだ、という風に見えた。

 それも仕方がないだろう。これだけの面子がいるのだ。あの男、リフィアの従者も相当な遣い手のようだったし。誰だって気後れして、捨て鉢になって当然だ。

 だが、それよりも、だ……。

 イシュルはシャルカの顔を見つめた。

 シャルカは厳しい視線をリフィアに向けていた。

 ミラの心が伝わったのか。まさかずっとそうやってリフィアを睨みつけていたのか。

「……」

 イシュルは少し顔を俯かせ、小さくため息をついた。

 ミラがシャルカに「屋敷に帰りましょう」などと声をかけている。

 ……いや、シャルカが緊張し、警戒するのもわかる気がする。相手は“武神の矢”なのだ。

 イシュルがリフィアに顔を向けると、彼女はふっ、と笑みを浮かべた。

 イシュルは僅かに眸を見開いた。

 彼女はシャルカの視線など気にしていなかった。……たぶん最初から。

 なんの屈託もない微笑みだった。




「あいわかった。……といいたいところだが、イシュル・ベルシュ殿には故あって我が聖王家、それに聖堂教会、ディエラード公爵家にも力添えいただいている。今すぐに、というわけにはいかない」

 サロモンはヘンリク・ラディスの書簡に目を通すと、彼の正面に跪くリフィアにやや硬い口調で言った。

 そしてリフィアの背後に控えるイシュルに視線を向け、微笑んでみせた。

「しかしヘンリクという人は、なかなか食えぬお人のようだ」

 サロモンは隣に座るルフレイドに手紙を渡すと、くだけた口調で言った。

「宛名がわたしとルフレイドの連名になっている。父の名はどこにもない。そしてこの手紙の日付はひと月ほど前だ」

 場所は先日と同じサロモンの居間。公爵邸の晩餐室は今、テーブルなどが片づけられ、魔導師たちの待機室、兼指揮所として使われている。

 あれからイシュルはメイドの少女、サラを抱き上げ、リフィアには肩に手をかけてもらい、ミラたちとともに公爵邸に帰ってきた。

 イシュルたちが屋敷に帰還した時には、国王派の攻撃は一端止んでいたが、その後も小規模な襲撃が断続的に続いている。

 ミラは屋敷に戻るとすぐにサロモンに面会を求め、リフィアを引き合わせた。彼女にはイシュルとミラも付き添い、ミラがどうしてラディス王国大公家の使者と出会うことになったのか、事情を説明した。

 サロモンの居室には今、サロモンとルフレイドに執事が一名、サンデリーニ公爵家から戻ってきた揺動の魔法使い、マグダ・ペリーノしかいない。

「……ひと月ほど前というと、わたしがまだルフレイドを窮地から救い出す前のことだ。わたしは勘ぐり過ぎなのかな、な? ルフレイド」

 サロモンはルフレイドを横目で見やり苦笑を浮かべている。

「ふふ……」

 ルフレイドもサロモンに苦笑を浮かべている。

 そしてサロモンはルフレイドから視線をはずし、意味ありげにイシュルを見てきた。ルフレイドも同じ視線でイシュルを見つめてくる。

「へっ?」

 まさかヘンリクが俺から情報を得ているとでも……。

 イシュルはぎょっとした顔になって、何度も首を横に振ってみせた。

「俺は大公とは繋がっていませんよ」

 それでも足りないかと、あえて露骨に口に出して言った。

「だがヘンリク・ラディス殿の手紙は、彼の愛娘のペトラ嬢にせがまれて書かれたものであろう。きみに早く故国に帰ってきてくれ、と書かれてあるのだからな。ヘンリク殿の手紙にはベルシュ村の入植も進んで麦畑の手入れもすでに終わり、今年から収穫も見込める、とも書かれてある。ペトラ嬢がきみにご執心なのはわたしたちも知っている」

 サロモンの口調にはそこはかとなく、イシュルに対する揶揄がふくまれている。

 ルフレイドの方は、まるでサロモンのようにヘンリクの手紙をつまみ上げ、イシュルに振ってみせてくる。

 ……この兄弟は俺とヘンリクはともかく、ペトラとは繋がっているだろう、彼女が俺を離さないだろ? と言っているわけだ。

「……」

 このふたり、完全に俺を弄って楽しんでいる。それもここで、ペトラの名を出してくるとは……。

 となりのミラからなんだか邪悪な気配が漂ってきてるじゃないか。

 そして前に跪くリフィアの背中は震えている。

 こいつはこいつで、笑いをかみ殺しているんだろう。

 とほほ。

 イシュルはほんとに泣きそうになった。

「しかしわたしはイシュルが羨ましい。ラディス王国大公家のご息女殿に恋い慕われ、内々とは言えその使者になんと、武神の矢が遣わされてくるのだ。ベーム殿、もしやその使者として自ら名乗り出たのかな?」

「仰せの通りでございます」

 リフィアは堂々と、なんの悪びれることなく言い切った。

 しかもその声音には、さきほどまでしていた忍び笑いが微妙に混じっている。

 イシュルはがっくり肩を落とした。

 ミラはミラで、いらいらを募らせてるみたいだ。

 どいつもこいつも。……もうどうとでもなれ。

 ……ん?

 しかしそこで、一瞬で周りの空気が変わった。

 イシュルは思わず頭を上げる。

 サロモンが眸を細め、リフィアを凝視していた。

 サロモンの、品定めしているような目つき……。

 とうとう聖王国一の美青年が彼女に食指を伸ばしてきたか。

 イシュルはお門違いだと思いながらも、心の奥底に重くわだかまるものを感じた。それを抑えることができない。

 だが、サロモンの興味は別にあった。

「辺境伯代理殿、我々には今はまだイシュルが必要だ。それは総神官長さまとて同じこと。どうかな? きみの力を我々に貸してくれないかな? イシュルを手伝ってやってほしいのだ。どうだろう」

 サロモンめ……。

 リフィアの気持ちを読んだ上で、彼女も味方の戦力に加えようとしているのだ。

 だが、確かに彼女の力は欲しい。とても欲しい。それも最大の山場、切所の聖冠の儀において、最も欲しい人材だ。

 聖冠の儀でどう動くか、その初動に関しては先日、主神の間を下見した時、ウルトゥーロやデシオと打ち合わせ済である。誰を連れていくか、参加人数に関しても話し合った。

 当日は俺ひとりでは厳しい。ビオナートやマレフィオアとの対決、太陽神の座の防護、それにその場にいるウルトゥーロやデシオらの身も守らないといけない。だが、彼らは当日の決戦に参加する人数に対し、厳しい制限を加えてきた。場所が場所だし、どのみちそれほど多くの人数を参加させることはできないが、彼らのできるだけ少数で、という希望に沿うのなら、少しでも戦力になる者を連れていきたい。

 対決時にミラとシャルカを参加させるのはいいとして、他にどうしても、武神の魔法具を持つ腕利きの剣士が数名、最低でも二人くらいは欲しかった。ビオナートも当然、他に護衛を引き連れ、主神の間の周囲に潜ませてくるだろう。ウルトゥーロら儀式に参加する神官たちの護衛と、やつの連れてきた配下の者らを退ける役目を負う者が、どうしても必要になる。多少の広さはあるが屋内地下、ほぼ密閉された空間で状況によって魔法が封じられるのなら、有力な剣士の存在がどうしても欠かせない。

 ミラとはネリーとルシアを参加させる方向で検討していたが、もしリフィアが参加してくれるのなら、これ以上は望めない最高の戦力となる。彼女は剣士としても王国では名の知れた存在だった。

 それに、彼女の武神の矢に対抗できる存在など、この聖王国でも数えるほどしかいないだろう。リフィアなら聖王家の至宝、ビオナートの持つ“イルベズの聖盾”も打ち砕くことができるかもしれない。

 しかも、だ。同行させる者を、ネリーとルシアのかわりにリフィアひとりに絞れば、こちらは当日、とても動きやすくなる。先日ウルトゥーロらと決めた事も、よりやりやすくなる……。

 ただ、問題はある。

 それは、果たしてリフィアの参加をミラが了承してくれるか、ということだ。彼女の意志を無下にはできないだろう。

 けっして彼女が恐いから、だけじゃない。……多分。

 リフィアはサロモンの問いに顔を上げ、胸を張って答えた。

 イシュルからは彼女がどんな顔をしているか、わからない。

「わかりました。仰せのとおり、イシュルの力になりましょう。もとよりその覚悟で聖都まで参った次第」




 午後の爽やかな空が窓から見える。

 朝から断続的に続いていた国王派の襲撃も今は止んでいる。

 ところ変わって今、イシュルは自室の居間にいる。

「……」

 部屋の真ん中あたりに長椅子が二脚、間に低いテーブル、壁側にひとり掛けの椅子が一脚、ある。

 イシュルは青い顔で、からだを硬直させてひとり掛けの椅子に座っている。

「……」

「……」

 長椅子にはミラとリフィアが互いに向き合って座っていた。

 ミラは背筋を伸ばし、両足を揃えて美しい姿勢で座っている。対してリフィアは肘掛けに上半身をあずけ、長い足をテーブルの下まで伸ばし、楽な姿勢で座っている。

 メイドがお茶を入れ退出すると、ミラは鋭い視線をリフィアからイシュルに向け、おもむろに口を開いた。

「イシュルさま、よろしゅうございましたわね。ベーム殿が力添えしてくださることになって」

 ミラはそこまで言って視線を落とし、お茶を飲んだ。

 リフィアの助勢は、いわばサロモンが命令したようなものだ。それはミラも従わなければならない。だがサロモンは、聖冠の儀での対決にリフィアも連れていけ、とはっきり言ったわけではない。

「武神の矢であればまさに百人力。これほど心強いことはありませんわ」

 ミラの声が冷たい。

 もしミラがリフィアの参加を認めたとしても、彼女らが反目しあっている今の状況では、まともなチームワークなど成り立たない。それでは当日の勝利も覚束ないのではないか。

「……」

 ……そういえばミラと会って間もない頃も百人力がどうのこうの、といった話をしたような気がする。

 イシュルはぼんやりと、今はどうでもいいようなことを考えた。

 ミラからなんとも形容しがたい、重たい圧力が押し寄せてくる。

 イシュルは寒気を感じて薄い磁器のカップを手にとり、お茶を口に流し込んだ。

 いよいよだというのに。公爵邸にも、断続的な攻撃が続いている状況だというのに。……もう、まともな思考ができる状態ではない。

 香りなんか、味なんか、ぜんぜんわからない。

「ディエラード殿はなぜ、イシュルを“さま”付けで呼ぶんだ?」

 リフィアはその細く長い指を口許にそわせ、余裕のある、むしろ温かみさえ感じる声音で言った。

 だがその眸の奥には冷たい色が潜んでいる。俺にはわかる。

「イシュルさまは神々の加護を一身に受けられた方。そのようなこと、当然ですわ。それに」

 ミラの眸に力がこもる。

「わたくしはイシュルさまの信奉者、なのです」

 信奉者、か……。

 彼女は、俺が神々の加護を持つ者だから、ただそれだけで信奉しているわけではない、と言っているわけなのだが……。

 リフィアにそれが伝わるか、それをどう捉えるのか……。

「ほう」

 リフィアが薄く皮肉な笑みを浮かべる。

 おまえもそんな顔、できるんだ……。

「ならわたしが女として、こののちイシュルと契ってもかまわない、ということだ」

 リフィアがいきなり、強烈な爆弾を投げてきた。

「はぁ?」

「なんですって!」

 ち、ちょっと待て!

 イシュルとミラが同時に立ち上がる。

「な、なんでそうなるんだ」

 お、俺がどんな思いをしておまえの許から去ったのか。それじゃ、なんの意味もないじゃないか!

 それにリフィアもリフィアだ。それでいいのかよ、おまえ。

 俺はおまえの父親を殺したんだぞ……。

 リフィアは胸の前で腕を組み、鼻をつんと上げてにんまりしている。

 いや違う。こいつは確信犯だ。ミラの気持ちも俺のことも見透かして、わざとあんなことを言ってきたんだ。

「……そ、それはだめ、ですわ」

 対するミラは少しはずかしそうに頬を染め、しかし一方で両手をぴんと伸ばし、拳を固く握りしめている。

「ふっ」

 リフィアもミラに対抗するように立ち上がった。

 睨み合う両者。

 やばい! やばいぞ……。こ、ここは俺がなんとかしなければならない。 

 逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……。

 と、リフィアは自身の横に置いていた革袋をとりあげ、中から巻紙をひとつ取り出しイシュルに渡してきた。

 巻紙は金糸で編まれた細い紐で結ばれている。

 ヘンリクの聖王家のふたりの王子宛の非公式の親書、も同じ革袋に入っていた。

「へっ? ……これは?」

 イシュルは巻紙を受け取ると惚けた声を出した。

 こ、恐かった……。危なかった……。

「それはおまえ宛のペトラさまからの手紙だ」

 ペトラの? そういえばこいつはペトラに頼まれて俺に会いに来た、と言っていたな。

 ヘンリクももちろん、ペトラにせがまれただけで聖王家宛の親書をしたためたわけではないんだろうが……。

 イシュルは紐を解き、巻紙を広げた。

 これは……。

 巻紙には、最後の一番下のところに小さな魔法陣が描かれている。

 ペトラからの手紙を読みはじめたイシュルは、だが別の意味で眉をひそめた。

 彼女の手紙は時候や互いの安否などの挨拶も、王家や貴族などが使ってくる隠語らしきものも吹っ飛ばし、「そなたが赤帝龍討伐に出立する時、城門の前で見送った妾の着ていたドレスが何色だったか、憶えているか」などと、冒頭からいきなり、本当にどうでもいいことが書かれてあった。

 しかし、ペトラの手紙を読むにしたがい、イシュルの眸は真剣な色を帯びてきた。

 手紙の文面には、彼女の地の契約精霊であるウルオミラが、イシュルに直接会って話したいと言っている、どうも地神のこと、特に地神の魔法具に関係することのようだ、という内容が記されていた。

「……」

 いったい何なんだ……。だが、これは捨て置けない。

 地神と、その魔法具に係ることなら無視できない。

 あの時、今では遠い昔のようにも思える一件、豪雨の中に佇む、仙人のような格好した老人の姿が脳裡に浮かぶ。

 イシュルは広げた巻紙から顔を上げると鋭い視線でリフィアを見、ミラの顔を見、またリフィアに視線を戻して言った。

「わかった。収穫祭が終わったら王国に戻ろう。フロンテーラに行く」

「ふむ……」

 リフィアはひとつ小さく頷くと微笑を浮かべた。

「ペトラさまの契約精霊がとても重要なことでおまえに会いたい、と言ってるそうだ。精霊が契約者や召喚者以外の人間と話したい、など前代未聞のことだな」

「まぁ……」

 ミラもさすがに驚いているようだ。

 本当は聖都の一件が終わったら、パレデスへ、レニを訪ねに行こうか、などと考えていたのだが……。

 イシュルは再びペトラの手紙に視線を落とし、続きを読みはじめた。

 彼女の手紙には、「そういうことでなるべく早くフロンテーラに戻ってきて欲しい。このことは他言無用、手紙を読み終えたなら、下の魔法陣に指先で触れて『万物はすべて土に還るものなり』と唱えよ」と書かれてあった。そして、「あの時、当日妾が着ていたドレスの色は橙色だいだいいろじゃ! 妾のことを忘れたらいかんぞ」との文章で締めくくられていた。

 ペトラめ……。

 イシュルはがっくり肩を降ろすと、手紙の魔法陣に人差し指を当て、「万物はすべて土に還るものなり」と唱えた。

「……」

 するとペトラの手紙は下から細かい粉のように、砂粒のように崩れ形を失い消えていった。

「土の魔法、ですわね。イシュルさま、手紙には他になんと? わたしにも教えてくださいませ」

 ミラがイシュルに聞いてくる。ことがことだけに彼女の顔は固いままだが、険しさ自体はだいぶ薄れている。

「待て。手紙の内容は他言するな、とペトラさまから聞いているぞ」

 リフィアが横からかぶせるように言ってくる。

「いいんだ。ミラには」

 イシュルがそう言うと、

「……♪」

 ミラはひさしぶりにか、にっこり笑って表情を緩めた。

 ミラが勝ち誇ったような視線をリフィアに向ける。……しかしこれはしょうがない。

「ふたりとも座ろうか」

 イシュルはふたりにソフトな笑顔で言った。

 三者とも、特にミラとリフィアは鼻を突きつけるようにして、立ったままでいた。

 イシュルがミラにペトラの手紙に書かれてあったことを話すと、ミラはその均整のとれた顎先に指先を当て、難しい顔をした。

「大公ご息女殿の土の精霊が、地神のこと、それも魔法具のことでイシュルさまのお力添えを願っている、ということですわね……」

「お力添え、というのはわからないが、まぁ、そうだな」

「イシュルさま。その左手のもの、ベーム殿に見せてあげましょう」

 ミラはリフィアの顔にちらっと視線を向けて言った。

「なんだ?」

 イシュルがミラにペトラの手紙の内容を話してしまい、少し不服そうな顔をしていたリフィアが、イシュルの左手の穴開き手袋に視線を落とす。

「いいのか? これは聖王家と教会の秘密事項だろう」

 イシュルはふたりに左手を持ち上げて見せた。

「もう今さら、ですわ。みやこの主立った者で、イシュルさまが地神ウーメオに選ばれた存在であることを知らない者などおりません」

 それはそうだ、……のだが。

 確かに正義派はこれまで、俺が地神の魔法具を手にできる者であることを、地神に選ばれた存在であることを他派閥に喧伝してきたのだ。

「なに!? どういうことだ?」

 リフィアが腰を浮かして厳しい顔つきになる。

 イシュルは手袋を取って、彼女に左手の甲に浮き出た紅玉石を見せた。

「な、そ、それは、手に張り付いているのか」

 リフィアがなんの戸惑いもなく、イシュルの左手を握って手許に引き寄せ仔細に検分しはじめた。

「これは……。しかしこの紅玉石ルビーは本物なら、相当高価なものだな。わたしもこれほど大きく、きれいな紅玉石は今まで見たことがない……」

「この紅玉石はただの宝石ではありませんのよ」

 ミラは微かに笑みを浮かべて言った。

「あなたに教えてあげましょう。わたくしがなぜイシュルさまを聖都にお連れしたか。そこから」

 ミラは聖王家と聖堂教会をめぐる国王派、王子派、正義派の争いを、そして聖石神授を機に、クレンベルに滞在していたイシュルに会いに行ったところからから、今までのことをリフィアに話した。

 イシュルが神の魔法具を集め、彼らに会おうとしていること、どうしても問いただしたいことがあることも。

「……なるほど。しかしイシュルがな……」

 リフィアの眸が不思議な煌めきを帯びて、イシュルを見つめてきた。

「わたしはおまえが神々に何を聞きたいか、何を知りたいか、なんとなくわかるような気がする。それはおまえが風の魔法具を継承したこと、地の魔法具の所有者として選ばれたこと、それだけじゃない。赤帝龍がおよそ二百年ぶりにクシムに現れたこと、その結果何がおきたか……それらのことも、含まれているんじゃないか?」

 イシュルは思わず視線を鋭くしてリフィアを見つめかえした。

 リフィアめ……。こいつもとびきり頭が切れるやつなのだ。

 だがリフィアはイシュルから視線をひょい、とはずすとミラに顔を向けた。

「もちろん、ディエラード殿の気持ちもわたしにはよくわかるぞ」

 リフィアは僅かに歪んだ、いや、ミラにでもなく、誰にでもなく挑戦するような不敵な笑みを浮かべた。

「それならわたしも、あなたとイシュルのことを見過ごすことはできないな。わたしの父がイシュルに殺されることになった、そもそもの原因はイシュルが風の魔法具を得たこと、そして赤帝龍がクシムに現れたことだ。もしそこに運命の神、レーリアの御意志があるというのなら」

 リフィアは笑みを引っ込め、真剣な表情になってイシュルとミラの顔を見渡した。

「わたしも是が非でも神々に問いただしたい。……イシュルとともにな」


「……」

 ミラがしまった、という顔をしている。

 彼女は俺との特別な関係を、神々に臨む、この世の神秘を垣間みることをともにすると誓約した関係にあることを、誇示したかったのだろう。もちろん、それだけの間柄ではないことも……。

 イシュルは腕を組んで沈思した。

 リフィアの言うことは一理ある。彼女の、我欲のために無理矢理こじつけている、ということでもないだろう。

 彼女の父をなぜ俺が殺すことになったか、その遠因は確かに彼女の言うとおりだろう。

 だが、俺とリフィアの因縁は……。

 彼女にとって俺は父の仇、俺にとっても彼女の父は復讐の対象、仇だった。それでともに同じ道を歩んでいくことができるのか。ともに心を通わすことができるのか。

 いっしょにいたって彼女は幸せになれないだろう。そう思ったから俺は彼女を切り捨てたのだ。

 そのことに神々の意志など存在しない。俺が決めたことなのだ。

 そしてもう、終わってしまったことなのだ。

 だが、この展開は……。

 リフィアはそれでいいのか? おまえは父の悲劇に、俺とのことにもう決着をつけた、ということなのか……。

 イシュルがそこまで考えた時だった。

 リフィアは突然、とんでもないことを言い出した。それは後から考えればまるで天啓のような、いや、彼女もイシュルと同じようなことを考えていたのかもしれなかった。

「イシュルはナイフを持っているか?」

「へっ?」

 イシュルがリフィアを見やると、彼女は小刀を取り出し、その刃先を握って柄の方をイシュルに向けていた。

「!!」

 ミラが唖然とした顔になって、飛び上がるようにして立ち上がった。

「どういうことですの!」

「それは……」

 ナイフの柄を相手に向けて差し出す……これは大陸における決闘申し込みの作法だ。相手も自らのナイフの柄を差し出せば、決闘を受諾したことになる。

 ……リフィア。

「今は持っていないが」

 イシュルがなんとなく、ナイフを取りに行こうとしてか席を立つと、リフィアが例の革袋からまた巻紙を取り出し、イシュルに差し出してきた。

「それならこれ。決闘の申し込み状だ」

 決闘の作法に関しては他に、本人か代理人が決闘の申し込み状、つまり果たし状を相手に渡す、というのがある。

「ベーム殿! それは重ね敵討ち……」

「わたしがおまえに会いに来たもうひとつの用事、それがこれだ。……わたしは決着をつけたいのだ。これはけじめだ。だいぶ時間が経ってしまったが」

 ミラが叫び、リフィアは立ち上がって静かに語りかけてくる。

「受けてくれるか? イシュル」

 これは逃げることはできない。

「お待ちになって。それならわたくしが……」

 ミラが必死な顔になって遮ってくる。

 確かに、明後日の早朝には聖冠の儀が始まる。今は静かだが、公爵邸には敵側からの攻撃が断続的に続けられている。ミラがいきり立つのも当たり前だ。この状況で決闘、などあり得ない話だ。

「いいんだ、ミラ」

 イシュルは手をあげてミラを制止するとリフィアに言った。

「受けてたとう」

 だが、俺はおまえに負ける気はない。負けてやる気はない。



 

 午後の陽が公爵邸の練兵場を照らしている。

 秋になって、周りの草木の影が幾分長く伸びるようになった。

 陽の光は少しずつ鋭角になり、熱を失いながら一方で尖鋭さを増していく。

 イシュルとリフィアが五十長歩(スカル、約三十m)近くも間合いを取って、南北に向かい合っている。逆光になる有利な南側はリフィアに譲った。イシュルは北側に立って全身を太陽に向けて晒している。

 少し離れてミラがシャルカを後ろに従え悄然と立っている。シャルカはいつもの表情に戻ったようだ。精霊には周囲の気配だけでなく、ひとの心の動きに敏感な者もいる。シャルカはとりあえず、リフィアの存在がミラにとって危険なものではないと判断したようだ。

 イシュルは不安気なミラの顔を見つめた。

 だが、ミラ。おまえの心配は無用だ。

 今の俺にとってリフィアの強さなど、いかほどのものではない。たとえ彼女が音に聞こえた武神の矢、であろうとも。

 ふたりの向かい合う東側には外側に向かって複数の土塁が築かれ、守りにつく兵士や魔導師たちがイシュルたちの方を静かに見つめている。

 屋敷の中庭の上空にはクラウが姿を現し、彼もイシュルたちの方を見ている。

 クラウは何も言ってこない。

 敵の攻撃は止んだままだ。

 それはそうだろう。屋敷の外には俺にミラとシャルカ、そして敵方から見ればいわくありげな、謎の女剣士まで出てきたのだ。

 こんな時に攻撃をしかけてもなんの意味もない。公爵邸のいったい誰を、消耗させることができるというのか。

「でははじめようか、イシュル」

 リフィアが声をかけてくる。

「よし、来い」

 イシュルは無表情に、短く答えた。

「よろしくたのむ」

 リフィアはそう言うと剣を抜き、握りを自身の顔の前に持ってきて、剣を天に垂直に掲げた。同時に彼女の双眸が赤く瞬く。

 するとリフィアの姿が忽然と消え、光り輝く魔力の光輪がイシュルに迫ってきた。

 瞬間、ドーンと轟音が鳴り響き、地面が揺れた。

 周囲の木立から鳥の群れがいっせいに飛び立ち、悲鳴を上げた。空に無数の小さな影が広がっていく。

 ふたりの戦いを見ていた者すべてがその衝撃に身をすくめた。

 リフィアが剣を突き立て、イシュルの数歩手前で止まっていた。

「くううう」

 リフィアが歯を食いしばり、苦しそうな呻き声を上げる。

 イシュルはただ、彼女の前に風の魔力の壁を降ろしただけだった。

「このっ」

 リフィアは一端後ろへ飛び下がるとぐっと腰を落とし、裂帛の気合いとともに再び突撃してきた。

「やああああっ」

 ドスン、と彼女の恐るべき力がイシュルの元へ伝わってくる。

 だがイシュルからは攻撃しない。

 彼女のやいばがイシュルに届くことはない。イシュルはただ、彼女がその力を使い果たすまで待つつもりだった。

 リフィアは正面から、まっすぐに挑んできた。ただひたすらまっすぐに。

 ……リフィア。

 イシュルの顔に苦しげな色が浮かんだ。

 おまえは……。

「やぁ」、「とう」、「このっ」

 リフィアは必死の形相で何度も何度も、同じ攻撃を繰り返した。

 ただひたすら己をぶつけてきた。

 そのたびに地が揺れ、空気が震え、彼女の汗と涙が飛び散った。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 リフィアは己の剣を捨てると、今度は両腕を前に突き立てぶち当たってきた。

 ド、ドーンとひときわ大きな衝撃がイシュルにも伝わってきた。

 彼女の足は地面に食い込み、周囲には亀裂が走っている。

 リフィアは赤く光る双眸から涙を流し、必死の形相でイシュルを睨みつけてきた。

「……」

 イシュルは顔を蒼白にして、それでも感情を一切、おもてに出さず無言でリフィアを睨みつけた。

 ……おまえの力は俺には届かない。

 だが、違うのだ。彼女が俺に、俺にぶつけてきているものは違う。

「くううう」

 リフィアがイシュルの張った壁を破ろうと、渾身の力を振り絞ってくる。彼女の全身が細かく震えている。

「これでもっ、これでもか!」

 リフィアの眸は涙でいっぱいだ。

 ああ、なんという切なさよ。

 おまえが俺に、伝えようとするもの……。

 風の魔力は壁の中を、この世とあの異界を行き来し流動している。この壁を破るには風の、この世界の自然の摂理を凌駕しなければならない。

 でも彼女にはそんなことはどうでもいいのだ。

 リフィアは己の悲しみを、苦しみを、怒りを、悔恨を、そしてイシュルへの想いをぶつけてきていた。

 彼女は父の仇としてイシュルに挑んだのではなかった。

 ……リフィアはただ、俺に彼女の想いを、心を伝えたかっただけなのだ。

 イシュルは天を仰いで青空に輝く太陽を見た。

 陽の光が眸を焼こうとしてくる。

 目を瞑るとリフィアの愛が、イシュルを刺し貫いてきた。

 ……これがおまえのけじめか。

 辺りを伝わる武神の矢の力。リフィアの叫び。イシュルは顔をおろすとリフィアの闘う姿を見つめた。



 

「うううっ、ううっ」

 目の前にリフィアがしゃがみ込み、顔を俯かせ肩を震わせ泣いている。

 彼女からは地がめくれ、ささくれだって周囲に広がっている。

 太陽は西に傾き、辺りの景色は暖色の影に沈み込もうとしている。

 とうとうリフィアが力つきた。彼女からはもう、一切の闘気が消えている。

 そして彼女はゆっくりと顔をあげてイシュルを見、囁くように言ってきた。

「わたしの想いは伝わったかな」

「ああ」

 イシュルは小さく頷いた。

 そこへふっと、赤いものがイシュルの前を横切った。

 ミラがリフィアの横に来て、腰を落とし、彼女の小さくなった背を抱いた。

「リフィアさん、これを」

 ミラが白いレース編みの手布、ハンカチをリフィアに差し出した。

 ミラもまた泣いていた。

 リフィアの想いはミラにも伝わったのだろう。彼女もそれを放っておけなかったのだ。

 ミラにもその想いが何なのか、よくわかっていたのだから。

「……」

 イシュルは嘆息して彼女らを見つめた。

 ふたりの少女のなんと強く、清い心よ。

 俺は甘く見ていた。彼女たちを、すべてを、自分自身を。いちばん俺が駄目だった。

 俺はふたりの愛に、どう応えたらいいのか。

 ふたりのどちらかを選ぶ? だが、どちらかを捨てることなどできはしない。

 そうしなければいけないのはわかっているが……。

 だが、彼女たちのことを思えばこそ、俺は目指すものを成すまでは、その結論を出すべきではないだろう。

 俺も、彼女たちも、いつ果てるとも知れぬ身なのだ。

 どんなに強く清いものであろうと、それが成就されるかわからない。

 ……そんな思いはもう味わいたくない。その苦しみを彼女たちに与えてはならない。

 前世でも、今世でも、俺はどれだけ大切なものを失ってきたのか。

 俺には死んでいった者の気持ちでさえわからない、ということはない。

 なぜなら俺は前世の記憶を持った、転生者だからだ。

「イシュル、わたしは逃げたりしない、たとえいつか死ぬことになろうとも。だからおまえも逃げるな。いつ終わるか知れぬとしても、いや、だからこそ咲かせる花もあるのだ」

 リフィアが涙に濡れた顔に、微笑みを浮かべた。

 となりでミラも頷く。

 リフィアが言わんとしていることは……。

「だがな。俺はこの先、おまえたちを守りきれると確信できなければ、何もしないぞ。俺からは何も」

 イシュルは唇を引き絞って、強ばった顔で言った。

「かまわないさ。わたしはわたしだ。やりたいようにやらせてもらう」

 リフィアがほがらかに笑う。彼女の眸に西に回った夕陽の光が差した。

「わたくしもですわ。イシュルさま」

 ミラもこの上なく逞しく、それでいて上品に笑った。


  

 


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