曹操の出自考察でおま
かなり長くなるかも、という覚悟で、書いてみようと思います。
今回の文章はド素人が、勝手に考察してみた物ですので、あまり鵜吞みにはしないでくださいね。
※ ほい。後日の床擦れです。本文中で「曹操の遺骨のDNAうんぬん」と言ってますが、元が中国語の文章ということで、AIも使って誤読がないか再度確認したところ、誤解がありました。お伝えします。
まずDNA鑑定に使った遺物ですが、曹操のものと思われる遺骨は、使っていません。使ったのは曹鼎のものと思われる歯と、中国各地の曹家の末裔とされる家、千名以上のDNAです。
また別に、各家庭に保存されている家系図なども、信憑性の有るだろう物を絞り込むなどしました。
検査結果、父系のDNAに曹鼎らしき歯から採取したDNAと共通する、特徴的な要素があり、家系図と照合した結果、曹操の父系は夏侯氏では無さそう……ということだそうです。
つまり、各末裔が曹操の系列であるとするのなら、曹鼎と共通するDNAが、曹操にもあったのではないか? (つまり曹操は、もともと曹氏の血胤ではないか?)というのが、今回参照した研究過程だったわけですね。
そのことも踏まえて、後文を読んでいただければ、と思います。
ではどうぞ。
さて、ふと気になり
──そういえば曹操のDNA研究ってどうなったんだ?
という処から、百度百科(ベイドゥ:中国版ウィキペディア)の項目を読んでおりました。
そちらでは、主に成果として二点
「曹操は曹参の末裔で無く、かつ夏侯氏の出自でも無い」
「曹操の父方の家系は、曹氏、つまり曹鼎(伝文上の曹操の養祖父である、曹騰の血縁)へ辿れる」
と、いうものがありました。
となると、妄想家の私としては
──じゃあ、曹操の出自はどこなんだ
と考えざるを得なくなり、手軽に見れる資料から考察しようと思い立ったのです。
今回、使用したのは主に
・百度百科
・ウィキペディア
・ウィキソース「後漢書(范書)」「三国志」
・三国志集解
となっています。
参考資料と私の頭脳の性質上、荒もあると思いますが、ご了承ください。
考察の前に、各資料にある曹操周辺の血縁人物の関係を、整理してみます。
出てきた所から行きましょうか。
まずは曹操。
今回の主人公です。
曹騰。
宦官であり、伝文上の養祖父です。裴松之の注釈(以下:裴注)に「曹騰の字(通り名)は季興」とありますから、記述から少なくとも、四男であろうと思われます。
曹嵩。
伝文上の、曹操の実父です。夏侯氏から、曹騰が養子に取ったとされています。また、夏侯惇の叔父だともされます。
曹鼎。
曹騰の弟(後漢書蔡衍伝)、または兄(裴注の記述より)、または兄の子(ウィキペディアの注釈中『曹操──魏の武帝』内にあるらしい。私は当該書を持っていないので詳細は不明)という説があり、後述する曹洪、曹休とも血縁があります。
曹熾。
父の名は曹襃であり、曹襃は曹騰の兄とされています。曹熾自身は長男です。
曹洪。
曹操の従弟です。伯父に曹鼎がいる、と書かれています。
曹仁。
こちらも曹操の従弟です。父は曹熾です。
曹休。
曹操の族子です。祖父は呉郡太守とありますが、この祖父を曹鼎とする説があります。
曹徳(あるいは曹疾)
曹操の弟です。父は曹嵩。
大体、今回の仮説に使う曹操の縁者は、この通りです。
夏侯惇や夏侯淵は、今回の入り口からして「夏侯氏でないと説明する」目的があるので、曹嵩の縁者だという以外は、無視しています。
また曹真は、父についての異説があり、曹操との関係がハッキリしないため、今回は省いています。
でもって、いま挙げた人物を使って
「曹操は夏侯氏の出ではない」
「曹操は曹鼎と、血縁の可能性がある」
という状況に当てはまりそうな状況を、考察してみようと思います。
まずざっくりと、曹操がどんな位置にいるのか、確認します。
(伝文上の)父は曹嵩です。その近親には夏侯惇がいるらしい。
ただ、DNA解析の結果が正しいとするのなら、曹操との血の繋がりは無い可能性があるはずです。
曹嵩の養父は曹騰であり、曹騰は宦官ですから、生殖能力を有していません。ですから、曹騰が養子として曹嵩を取ったというのは、疑わなくて良いように思います。
そして、曹騰ですね。兄が少なくとも三人います。そのうちの一人が曹鼎、あるいは曹鼎の父であり(のちのち説明します)、曹襃も近縁です。
また、曹襃の元子(長男のこと)は曹熾、曹騰の兄は曹襃という水經注中の碑文の記述から、ほぼ確実に、曹熾と曹騰は(恐らく)叔父と甥の関係でしょう。
曹鼎の甥には、曹操の従弟である曹洪がいます。そして曹熾の子には、同じく曹操の従弟である曹仁がいます。
曹仁と曹洪は、曹操よりも家系図の横軸的には同列であり、かつ歳下でしょう。そうなると、曹騰と同世代の列にいる曹襃の孫である曹仁と、曹鼎の甥(つまり曹騰の子世代)である曹洪が、同じく曹操の従弟である、という意見には、やや違和感があります。
また曹操の族子として曹休がいる、という事になると、「祖父の呉郡太守を曹鼎と比定する説」に抵触し、かつ曹鼎が曹騰の兄弟とするのなら、家系図的に曹操と曹休は横軸を同じくします。そうなると厄介ですが、「三国志曹休伝」に「太祖(曹操)義兵を挙ぐ以て、姓名を易えて荊州に転至し……」と書かれている所を見ると、もともと曹姓では無さそうなので「族子と書かれている以上は、ある程度は血の繋がりのある、曹操の子供世代だろう」というくらいで、いったん止めておきます。
ここから、少しずつ整理していきます。
まず曹騰の兄弟周りからです。曹騰には少なくとも、三人の兄が居ました。その内の二人が曹鼎と曹襃(曹鼎兄弟説)、もしくは曹鼎の父と曹襃(曹鼎兄子説)です。
曹操が曹鼎血縁の人間として、かつ曹騰の孫世代の人間とするなら、曹鼎が曹騰の兄だった場合、曹仁は曹操のはとこに、曹洪は遠縁のおじとなります。
対して曹鼎が曹騰の兄の子だった場合は、曹襃が曹騰の兄である事には変わらないので(水經注の記述より)、曹洪だけ一世代下がり、曹操とはとこ同士となります。
なおかつ、曹鼎の甥が曹洪であるということは、曹鼎の孫世代である曹休は、必然的に曹洪の子供世代、つまり曹操から見ても、族子と呼べる立場になります。
こうして見るのなら、少なくとも曹操を中心として「曹仁と曹洪が従弟」「曹休が族子」と呼ぶのであれば、「曹鼎は曹騰の兄の子ではないか」と言えそうな気がしなくもないです。
ちなみに、ここで出てきた「曹鼎、曹騰の兄子説」は『曹操──魏の武帝』にて考古学調査をもとに2000年ごろに発表されたものということで、曹鼎と思われる遺骨のDNA鑑定結果が正式発表された、2013年以前のものなので、少なくとも、今回の仮説の結論ありきで練られた論証では無いはずです。
つまり、最初に述べた
・曹操は夏侯氏の出ではない
・曹操は曹鼎と血縁である
という部分を、曹騰・曹鼎近辺だけでまとめるのならば
「曹騰の三人の兄の内、いずれかの孫世代の人間」
「また、曹鼎の子世代の人間」
とするのが、収まりが良さそうな気がします。
血縁について言えるのは、正直ここまでです。
続いて
「ならば、なぜ曹操が曹騰の養子である、曹嵩の子になったのか」
を、考えてみます。
ここで参考にできそうなのが「後漢書」の「党錮列伝」、そして同書の「梁冀伝」、「帝紀」です。
まずは「党錮列伝」から。
この列伝中の「蔡衍伝」にて
「曹鼎が財を隠し、蔡衍が摘発した。曹騰が大将軍の梁冀に書にて請うたが、蔡衍は応じず、曹鼎を投獄した」
という、記述があるのです。
「蔡衍伝」の記述をもとに「梁統伝中梁冀伝」、そして「孝順孝沖孝質帝紀」と「孝桓帝紀」を参照するのならば、梁冀が大将軍であったのは、永和六年(一四一年)八月~延熹二年(一五九年)八月ですから、その間に曹鼎の弾劾が行われたのだろう、ということになります。
ここからは、かなり誇大妄想気味の解釈です。
曹操は、永壽元年(一五五年)の生まれとされています。
もしも曹操が、曹騰や曹鼎の近親であったとして、曹鼎により近い人間だった場合、曹鼎の投獄に伴って、曹騰の縁を頼ったのではないか、と見れる気がします。
もしも投獄が曹操生誕以降であった場合、曹騰は五〇歳半ばを過ぎています。
それを理由に、養子の曹嵩に養育を任せますが、曹鼎が釈放された後には、曹鼎自身の立場も鑑みたうえで、曹嵩に曹操を全面的に任せた、という想像ができます。
余談ではありますが、弾劾時点では、曹鼎は冀州河間相であり、かつ尚書令、そして建寧四年(一七一年)の宋貴人立太后の上表に在る「臣、鼎」の字が曹鼎である、という説に則るのなら、少なくともその年までは生きているだろう、ともなります。
だとするのなら、一五五年あたりから一七一年までの間なら、一応は成り立つ話の筋ではあります。
この過程が(可能性は低いけれども)当てはまるのなら、たとえば曹操を預かった時点で無子であった曹嵩に、曹徳という子ができたとかで、曹操が血縁的な疎外感を感じたのではないか、とか、それが本になって、若年期の激しい行動に繋がったのではないか、とか。だからこそ、妾の子である袁紹と、仲良くできたんじゃないかとか。
また仮に、曹操が曹鼎の子とした場合、曹仁と曹洪とは、本当にいとこという事にもなり得ます。
そんなことが妄想できますが、とりあえずとしては
・曹操に対して、曹仁と曹洪が従弟というのは、曹鼎が曹騰の兄の子とするなら、一応解釈できないか?
・曹操が夏侯氏と血の繋がりが無い(≒曹嵩と実父子ではない)とするのなら、時系列などから、曹鼎と繋がりを求めると解決できないか?
・だとすれば、曹仁と曹洪はいとこで、曹休は甥という事にもなり得ないか?
などの、仮説が立ちます。
もちろん
一.そもそも古代人のDNA鑑定がどれだけ信用できるのか?
二.史書の記述自体が、誤りや曖昧さの宝庫だったりする問題(特に曹鼎まわり)
三.梁冀の大将軍就任期間が長く、曹鼎収獄の期間が掴めない
四.曹操の身柄を、曹騰たちがやり取りする意味は?
などの諸問題があり、これを解決できる仮説ではないことは、確かです。
しかし、ハッキリ申し上げるのなら、これ以上は私には無理な範疇かな……とも思います。
ここまでで、リラックマみたいな感じになってますので……
ただ、私が創作に使うのなら、もしかしたら「本当は曹鼎の子だったのではないか? 説」は取るかもしれません。
曹休に関しても、家父長制度下で見るなら、曹鼎の女の子供、とできます。
「曹鼎は曹騰のなんなのさ?」という部分でも、まず「三国志武帝紀裴注」の記述から弟では無いだろう、と考えられますし、曹騰の兄だった場合には、曹休らの従弟族子の記述がズレる事から、「兄の子」が一番わかりやすい様にも思います。
まあ正直、曹鼎の位置については「蔡衍伝」にある曹騰の弟、という記述しかハッキリしたものは無いし、それもかなり疑わしいという時点で、周りから推測するしかないですね。それすら正しいかどうか……
と、いう感じで、「DNA鑑定の結果も含めてやってみる、曹操の出自の考察」でした。
おーん。
わからんね。




