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曹操の出自考察でおま

作者: 床擦れ
掲載日:2026/08/12

 かなり長くなるかも、という覚悟で、書いてみようと思います。

 今回の文章はド素人が、勝手に考察してみた物ですので、あまり鵜吞みにはしないでくださいね。


※ ほい。後日の床擦(とこず)れです。本文中で「曹操(そう そう)の遺骨のDNAうんぬん」と言ってますが、元が中国語の文章ということで、AIも使って誤読がないか再度確認したところ、誤解がありました。お伝えします。

 まずDNA鑑定に使った遺物(いぶつ)ですが、曹操(そう そう)のものと思われる遺骨は、使っていません。使ったのは曹鼎(そう てい)のものと思われる歯と、中国各地の曹(そう)家の末裔(まつえい)とされる家、千名以上のDNAです。

 また別に、各家庭に保存されている家系図なども、信憑(しんぴょう)性(せい)の有るだろう物を絞り込むなどしました。

 検査結果、父系のDNAに曹鼎(そう てい)らしき歯から採取したDNAと共通する、特徴的な要素があり、家系図と照合した結果、曹操(そう そう)の父系は夏侯(かこう)氏では無さそう……ということだそうです。

 つまり、各末裔(まつえい)が曹操(そう そう)の系列であるとするのなら、曹鼎(そう てい)と共通するDNAが、曹操(そう そう)にもあったのではないか? (つまり曹操(そう そう)は、もともと曹(そう)氏の血胤(けついん)ではないか?)というのが、今回参照した研究過程だったわけですね。

 そのことも踏まえて、後文を読んでいただければ、と思います。

 ではどうぞ。


 さて、ふと気になり

──そういえば曹操(そう そう)のDNA研究ってどうなったんだ?

という処から、百度百科(ベイドゥ:中国版ウィキペディア)の項目を読んでおりました。

 そちらでは、主に成果として二点

「曹操(そう そう)は曹参(そう さん)の末裔(まつえい)で無く、かつ夏侯(かこう)氏(し)の出自でも無い」

「曹操(そう そう)の父方の家系は、曹(そう)氏、つまり曹鼎(そう てい)(伝文上(でんぶんじょう)の曹操(そう そう)の養祖父(ようそふ)である、曹騰(そう とう)の血縁(けつえん))へ辿(たど)れる」

と、いうものがありました。

 となると、妄想家の私としては

──じゃあ、曹操(そう そう)の出自はどこなんだ

と考えざるを得なくなり、手軽に見れる資料から考察しようと思い立ったのです。


 今回、使用したのは主に

・百度(ベイドゥ)百科

・ウィキペディア

・ウィキソース「後漢書(ごかんじょ)(范書(はんじょ))」「三国志」

・三国志(さんごくし)集解(しっかい)

となっています。

 参考資料と私の頭脳の性質上、荒(あら)もあると思いますが、ご了承ください。


 考察の前に、各資料にある曹操(そう そう)周辺の血縁(けつえん)人物(じんぶつ)の関係を、整理してみます。

 出てきた所から行きましょうか。


 まずは曹操(そう そう)。

 今回の主人公です。


 曹騰(そう とう)。

 宦官(かんがん)であり、伝文上の養祖父(ようそふ)です。裴松之(はい しょうし)の注釈(ちゅうしゃく)(以下:裴注(はいちゅう))に「曹騰(そう とう)の字(あざな)(通り名)は季興(きこう)」とありますから、記述(きじゅつ)から少なくとも、四男であろうと思われます。


 曹嵩(そう すう)。

 伝文上の、曹操(そう そう)の実父です。夏侯(かこう)氏から、曹騰(そう とう)が養子に取ったとされています。また、夏侯惇(かこう とん)の叔父(おじ)だともされます。


 曹鼎(そう てい)。

 曹騰(そう とう)の弟(後漢書(ごかんじょ)蔡衍(さい えん)伝)、または兄(裴注(はいちゅう)の記述(きじゅつ)より)、または兄の子(ウィキペディアの注釈中『曹操──魏の武帝』内にあるらしい。私は当該書(とうがいしょ)を持っていないので詳細は不明)という説があり、後述する曹洪(そう こう)、曹休(そう きゅう)とも血縁(けつえん)があります。


 曹熾(そう し)。

 父の名は曹襃(そう ほう)であり、曹襃(そう ほう)は曹騰(そう とう)の兄とされています。曹熾(そう し)自身は長男です。


 曹洪(そう こう)。

 曹操(そう そう)の従弟(じゅうてい)です。伯父(おじ)に曹鼎(そう てい)がいる、と書かれています。


 曹仁(そう じん)。

 こちらも曹操(そう そう)の従弟(じゅうてい)です。父は曹熾(そう し)です。


 曹休(そう きゅう)。

 曹操(そう そう)の族子(ぞくし)です。祖父は呉郡(ごぐん)太守(たいしゅ)とありますが、この祖父を曹鼎(そう てい)とする説があります。


 曹徳(そう とく)(あるいは曹疾(そう しつ))

 曹操(そう そう)の弟です。父は曹嵩(そう すう)。


 大体、今回の仮説に使う曹操(そう そう)の縁者(えんじゃ)は、この通りです。

 夏侯惇(かこう とん)や夏侯淵(かこう えん)は、今回の入り口からして「夏侯氏でないと説明する」目的があるので、曹嵩(そう すう)の縁者だという以外は、無視しています。

 また曹真(そう しん)は、父についての異説があり、曹操(そうそう)との関係がハッキリしないため、今回は省いています。


 でもって、いま挙げた人物を使って

「曹操(そう そう)は夏侯(かこう)氏の出ではない」

「曹操(そう そう)は曹鼎(そう てい)と、血縁(けつえん)の可能性がある」

という状況に当てはまりそうな状況を、考察してみようと思います。


 まずざっくりと、曹操(そう そう)がどんな位置にいるのか、確認します。

 (伝文上の)父は曹嵩(そう すう)です。その近親には夏侯惇(かこう とん)がいるらしい。

 ただ、DNA解析(かいせき)の結果が正しいとするのなら、曹操(そう そう)との血の繋がりは無い可能性があるはずです。

 曹嵩(そう すう)の養父は曹騰(そう とう)であり、曹騰(そう とう)は宦官(かんがん)ですから、生殖(せいしょく)能力(のうりょく)を有(ゆう)していません。ですから、曹騰(そう とう)が養子として曹嵩(そう すう)を取ったというのは、疑わなくて良いように思います。

 そして、曹騰(そう とう)ですね。兄が少なくとも三人います。そのうちの一人が曹鼎(そうてい)、あるいは曹鼎(そう てい)の父であり(のちのち説明します)、曹襃(そう ほう)も近縁です。

 また、曹襃(そう ほう)の元子(げんし)(長男のこと)は曹熾(そう し)、曹騰(そう とう)の兄は曹襃(そう ほう)という水經注(すいけいちゅう)中(ちゅう)の碑文(ひぶん)の記述(きじゅつ)から、ほぼ確実に、曹熾(そう ほう)と曹騰(そう とう)は(恐らく)叔父と甥の関係でしょう。

 曹鼎(そう てい)の甥(おい)には、曹操(そう そう)の従弟(じゅうてい)である曹洪(そう こう)がいます。そして曹熾(そう し)の子には、同じく曹操(そう そう)の従弟(じゅうてい)である曹仁(そう じん)がいます。

 曹仁(そう じん)と曹洪(そう こう)は、曹操(そう そう)よりも家系図の横軸的(よこじくてき)には同列であり、かつ歳下でしょう。そうなると、曹騰(そう とう)と同世代の列にいる曹襃(そう ほう)の孫である曹仁(そう じん)と、曹鼎(そう てい)の甥(おい)(つまり曹騰(そう とう)の子世代)である曹洪(そう こう)が、同じく曹操(そう そう)の従弟(じゅうてい)である、という意見には、やや違和感があります。

 また曹操(そう そう)の族子(ぞくし)として曹休(そう きゅう)がいる、という事になると、「祖父の呉郡(ごぐん)太守(たいしゅ)を曹鼎(そう てい)と比定する説」に抵触(ていしょく)し、かつ曹鼎(そう てい)が曹騰(そう とう)の兄弟とするのなら、家系図的に曹操(そう そう)と曹休(そう きゅう)は横軸を同じくします。そうなると厄介(やっかい)ですが、「三国志(さんごくし)曹休(そうきゅう)伝(でん)」に「太祖(たいそ)(曹操(そう そう))義兵(ぎへい)を挙(あ)ぐ以(もつ)て、姓名(せいめい)を易(か)えて荊州(けいしゅう)に転至(てんし)し……」と書かれている所を見ると、もともと曹(そう)姓では無さそうなので「族子(そくし)と書かれている以上は、ある程度は血の繋がりのある、曹操(そう そう)の子供世代だろう」というくらいで、いったん止めておきます。


 ここから、少しずつ整理していきます。

 まず曹騰(そう とう)の兄弟周りからです。曹騰(そう とう)には少なくとも、三人の兄が居ました。その内の二人が曹鼎(そう てい)と曹襃(そう ほう)(曹鼎(そう てい)兄弟説)、もしくは曹鼎(そう てい)の父と曹襃(そう ほう)(曹鼎(そう てい)兄子説)です。

 曹操(そう そう)が曹鼎(そう てい)血縁(けつえん)の人間として、かつ曹騰(そう とう)の孫世代の人間とするなら、曹鼎(そう てい)が曹騰(そう とう)の兄だった場合、曹仁(そう じん)は曹操(そう そう)のは(・)と(・)こ(・)に、曹洪(そう こう)は遠縁(とおえん)のお(・)じ(・)となります。

 対して曹鼎(そう てい)が曹騰(そう とう)の兄の子だった場合は、曹襃(そう ほう)が曹騰(そう とう)の兄である事には変わらないので(水經注(すいけいちゅう)の記述(きじゅつ)より)、曹洪(そう こう)だけ一世代下がり、曹操(そう そう)とは(・)と(・)こ(・)同士となります。

 なおかつ、曹鼎(そう てい)の甥(おい)が曹洪(そう こう)であるということは、曹鼎(そう てい)の孫世代である曹休(そう きゅう)は、必然的に曹洪(そう こう)の子供世代、つまり曹操(そう そう)から見ても、族子(ぞくし)と呼べる立場になります。

 こうして見るのなら、少なくとも曹操(そう そう)を中心として「曹仁(そう じん)と曹洪(そうこう)が従弟(じゅうてい)」「曹休(そう きゅう)が族子(ぞくし)」と呼ぶのであれば、「曹鼎(そう てい)は曹騰(そう とう)の兄の子ではないか」と言えそうな気がしなくもないです。


 ちなみに、ここで出てきた「曹鼎(そう てい)、曹騰(そう とう)の兄子説」は『曹操──魏の武帝』にて考古学調査をもとに2000年ごろに発表されたものということで、曹鼎(そう てい)と思われる遺骨のDNA鑑定結果が正式発表された、2013年以前のものなので、少なくとも、今回の仮説の結論ありきで練られた論証では無いはずです。


 つまり、最初に述べた

・曹操(そう そう)は夏侯(かこう)氏の出ではない

・曹操(そう そう)は曹鼎(そう てい)と血縁(けつえん)である

という部分を、曹騰(そう とう)・曹鼎(そう てい)近辺だけでまとめるのならば

「曹騰(そう とう)の三人の兄の内、いずれかの孫世代の人間」

「また、曹鼎(そう てい)の子世代の人間」

とするのが、収まりが良さそうな気がします。


 血縁について言えるのは、正直ここまでです。

 続いて

「ならば、なぜ曹操(そうそう)が曹騰(そう とう)の養子である、曹嵩(そう すう)の子になったのか」

を、考えてみます。


 ここで参考にできそうなのが「後漢書(ごかんじょ)」の「党錮(とうこ)列伝(れつでん)」、そして同書の「梁冀(りょうき)伝(でん)」、「帝紀(ていき)」です。


 まずは「党錮(とうこ)列伝(れつでん)」から。

 この列伝中の「蔡衍(さいえん)伝(でん)」にて

「曹鼎(そう てい)が財を隠し、蔡衍(さい えん)が摘発(てきはつ)した。曹騰(そう とう)が大将軍(だいしょうぐん)の梁冀(りょう き)に書にて請(こ)うたが、蔡衍(さい えん)は応じず、曹鼎(そう てい)を投獄(とうごく)した」

という、記述(きじゅつ)があるのです。

 「蔡衍(さいえん)伝(でん)」の記述をもとに「梁統(りょうとう)伝中(でんちゅう)梁冀(りょうき)伝(でん)」、そして「孝順(こうじゅん)孝沖(こうちゅう)孝質(こうしつ)帝紀(ていき)」と「孝桓(こうかん)帝紀(ていき)」を参照するのならば、梁冀が大将軍であったのは、永和(えいわ)六年(一四一年)八月~延熹(えんき)二年(一五九年)八月ですから、その間に曹鼎(そう てい)の弾劾(だんがい)が行われたのだろう、ということになります。


 ここからは、かなり誇大妄想(こだいもうそう)気味(ぎみ)の解釈(かいしゃく)です。

 曹操(そう そう)は、永壽(えいじゅ)元年(一五五年)の生まれとされています。

 もしも曹操(そう そう)が、曹騰(そう とう)や曹鼎(そう てい)の近親であったとして、曹鼎(そう てい)により近い人間だった場合、曹鼎(そう てい)の投獄(とうごく)に伴(ともな)って、曹騰(そう とう)の縁(えん)を頼ったのではないか、と見れる気がします。

 もしも投獄(とうごく)が曹操(そう そう)生誕以降であった場合、曹騰(そうとう)は五〇歳半(なか)ばを過ぎています。

 それを理由に、養子の曹嵩(そうすう)に養育を任せますが、曹鼎(そう てい)が釈放(しゃくほう)された後には、曹鼎(そう てい)自身の立場も鑑(かんが)みたうえで、曹嵩(そう すう)に曹操(そう そう)を全面的に任せた、という想像ができます。

 余談(よだん)ではありますが、弾劾(だんがい)時点では、曹鼎(そう てい)は冀州(きしゅう)河間(かかん)相(しょう)であり、かつ尚書令(しょうしょれい)、そして建寧(けんねい)四年(一七一年)の宋(そう)貴人(きじん)立太后(りつたいこう)の上表(じょうひょう)に在(あ)る「臣(しん)、鼎(てい)」の字が曹鼎(そう てい)である、という説に則(のっと)るのなら、少なくともその年までは生きているだろう、ともなります。

 だとするのなら、一五五年あたりから一七一年までの間なら、一応は成り立つ話の筋ではあります。


 この過程が(可能性は低いけれども)当てはまるのなら、たとえば曹操(そう そう)を預(あず)かった時点で無子(むし)であった曹嵩(そう すう)に、曹徳(そう とく)という子ができたとかで、曹操(そう そう)が血縁的(けつえんてき)な疎外(そがい)感(かん)を感じたのではないか、とか、それが本(もと)になって、若年期の激しい行動に繋がったのではないか、とか。だからこそ、妾(めかけ)の子である袁紹(えんしょう)と、仲良くできたんじゃないかとか。

 また仮に、曹操(そう そう)が曹鼎(そう てい)の子とした場合、曹仁(そう じん)と曹洪(そう こう)とは、本当にい(・)と(・)こ(・)という事にもなり得ます。


 そんなことが妄想(もうそう)できますが、とりあえずとしては


・曹操(そう そう)に対して、曹仁(そう じん)と曹洪(そう こう)が従弟(じゅうてい)というのは、曹鼎(そう てい)が曹騰(そう とう)の兄の子とするなら、一応解釈できないか?

・曹操(そう そう)が夏侯(かこう)氏と血の繋がりが無い(≒曹嵩(そう すう)と実父子ではない)とするのなら、時系列などから、曹鼎(そう てい)と繋がりを求めると解決できないか?

・だとすれば、曹仁(そう じん)と曹洪(そう こう)はい(・)と(・)こ(・)で、曹休(そう きゅう)は甥(おい)という事にもなり得ないか?


などの、仮説が立ちます。


 もちろん

一.そもそも古代人のDNA鑑定がどれだけ信用できるのか?

二.史書の記述(きじゅつ)自体が、誤りや曖昧(あいまい)さの宝庫だったりする問題(特に曹鼎(そう てい)まわり)

三.梁冀(りょうき)の大将軍(だいしょうぐん)就任期間が長く、曹鼎(そう てい)収獄(しゅうごく)の期間が掴(つか)めない

四.曹操(そう そう)の身柄を、曹騰(そう とう)たちがやり取りする意味は?

などの諸問題があり、これを解決できる仮説ではないことは、確かです。

 しかし、ハッキリ申し上げるのなら、これ以上は私には無理な範疇(はんちゅう)かな……とも思います。

 ここまでで、リラックマみたいな感じになってますので……


 ただ、私が創作に使うのなら、もしかしたら「本当は曹鼎(そう てい)の子だったのではないか? 説」は取るかもしれません。

 曹休(そう きゅう)に関しても、家父長(かふちょう)制度下で見るなら、曹鼎(そうてい)の女(むすめ)の子供、とできます。

 「曹鼎(そう てい)は曹騰(そう とう)のなんなのさ?」という部分でも、まず「三国志(さんごくし)武帝紀(ぶていき)裴注(はいちゅう)」の記述(きじゅつ)から弟では無いだろう、と考えられますし、曹騰(そう とう)の兄だった場合には、曹休(そうきゅう)らの従弟(じゅうてい)族子(ぞくし)の記述(きじゅつ)がズレる事から、「兄の子」が一番わかりやすい様にも思います。

 まあ正直、曹鼎(そう てい)の位置については「蔡衍伝(さいえんでん)」にある曹騰(そう とう)の弟、という記述(きじゅつ)しかハッキリしたものは無いし、それもかなり疑わしいという時点で、周りから推測するしかないですね。それすら正しいかどうか……


 と、いう感じで、「DNA鑑定の結果も含めてやってみる、曹操(そう そう)の出自の考察」でした。


 おーん。

 わからんね。

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