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世襲親王家

作者: xoo
掲載日:2026/06/28

 世襲親王(せしゅうしんのう)家という存在が過去にあった。「当時としては巧妙な仕組みではあった」、と個人的に評価している。ただ現在では、ルサンチマンによる皇位継承論議、簒奪(さんだつ)の遠因となってしまった。


◇◆◇◆◇◆


 天皇の皇位継承については現在の皇室典範においては皇族の男系男子のみに限られている。皇位継承権を持つ者が3名、実質は今上天皇徳仁(なるひと)より若年の男性皇族である(皇嗣)秋篠宮(あきしののみや)文仁(ふみひと)親王と悠仁(ひさひと)親王の2名である。



 現行の皇位継承制度は明治維新以降、成文化されたのは明治22年(1889年)の(旧)皇室典範が定められたのちであり、それまでは運用上は男子優先であったが、男子限定でも長子優先でもなかった(政治情勢その他で年長男子以外が継承する例が多々あった)。また養子(猶子(ゆうし))も可能であったし、第117代・後桜町(ごさくらまち)天皇(在位1762〜1770年)まで10代8人の女性天皇が存在した。

 親王家は当代の天皇に血が近い皇族を親王、少し離れた皇族を王とし、土地を分け与えたものであり、天皇継承の可能性が低くなった(天皇から血が離れた)皇族は臣籍降下させて皇族の数を限っていた。この皇族であったが臣籍降下させた一族が平氏であり源氏である。


 しかしその後、鎌倉時代後期〜室町時代、天皇が親王らに分け与える土地がなくなっていくと、分割相続から長子単独相続(家督相続)へ移行した。次代の天皇候補者1名のみを皇族に残し、他の男子は出家させたり養子に出した。しかし子どもの死亡率が高い社会であり、また政争で殺し合うこともあり、皇位継承者が欠けることがあった。その際は系譜を辿って臣下から皇籍復帰させたり、出家させた男子を還俗させるなどしていたが、政治的な思惑などで継承が不安定になりがちだった。


 この解決策の一つとなったのが、世襲親王家である。本来であれば当代の天皇から血が離れた時点で臣籍降下させていた親王家のうち(恣意的に選択された)一部を、臣籍降下させず将来に渡っても親王家とするものである。本来は血が離れているので親王にはなり得ないが、当代の天皇から猶子(形式的に養子)として親王宣下する。明らかに天皇から血が離れ、継承の可能性が低い「サブ皇統」を作ることで政争から保護し、血のバックアップを図っていた。他国の王位継承にはまず例がない、巧妙な仕組みである。

 世襲親王家は明治22年の(旧)皇室典範で廃止、永続皇族制となった。


 もっとも世襲親王家の仕組みは考え抜かれて始まったものではなく、時の天皇のエゴである。子のうちで可愛いが皇位継承が難しそうなものを、「おまえずっと皇族な」とゴリ押ししたものである。鎌倉時代、第90代・亀山(かめやま)天皇(在位1260〜1274年)が法皇(出家した上皇)に上がった後、第14皇子・恒明(つねあき)親王を祖とする常盤井宮(ときわいのみや)家を世襲親王家として創設させた。また第94代・後二条(ごにじょう)天皇(在位1301〜1308年)の皇孫、康仁(やすひと)親王の系統が木寺宮(きでらのみや)家となった。但し、この二家からは天皇は出ず、断絶した。



 世襲親王家が血のバックアップとして機能したのは3例ある。


 北朝第3代・崇光(すこう)天皇(在位1348〜1351年)の第1皇子・貞成(さだふさ)親王を初代として伏見宮(ふしみのみや)家が創設された。その第1王子・彦仁(ひこひと)王が第102代・後花園(ごはなぞの)天皇(在位1428〜1464年)として即位し、今上天皇までの皇統に繋がっている。この継承は先代から8親等離れている(崇光天皇の三世孫(ひまご)、第96代光厳(こうごん)天皇の四世孫(やしゃご)、第101代・称光(しょうこう)天皇とは三従兄弟(みいとこ))。後花園天皇が、出身の伏見宮家を世襲親王家とした。

 伏見宮家は明治期の伏見系世襲親王家大量創設の元となった。昭和22年(1947年)に臣籍降下した11宮家は全て伏見系である。しかし伏見(宮)は継承者がなく(男系子孫がなく)第26代で断絶見込みである。


 有栖川宮(ありすがわのみや)家(創設時は高松宮(たかまつのみや)家)は第107代・後陽成(ごようせい)天皇(在位1586〜1611年)の第7皇子・好仁(よしひと)親王を初代として創設されたが好仁親王には嗣子(しし)が無く、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(在位1611〜1629年)の第8皇子・良仁(ながひと)親王を高松宮家第2代として迎えたが良仁親王が第111代・後西(ごさい)天皇(在位1655〜1663年)として中継ぎ登板したため暫く途絶えていた。皇子の幸仁(ゆきひと)親王が高松宮の第3代を継ぎ、有栖川宮に宮号を改めた。第112代・霊元(れいげん)天皇(在位1663〜1687年、第109代・明正(めいしょう)天皇、第110代・後光明(ごこうみょう)天皇、後西天皇の兄弟)の第16皇子・職仁(よりひと)親王が有栖川宮の第5代を継いでいる。

 有栖川宮は大正2年(1913年)に第10代で途絶え、第123代・大正天皇(在位1879〜1926年)の第3皇子・宣仁(のぶひと)親王が旧宮号の高松宮を与えられ、祭祀と財産を継承した(旧皇室典範においては皇族の養子縁組が禁止されていたため)。


 第113代・東山(ひがしやま)天皇(在位1687〜1709年)の第6皇子・直仁(なおひと)親王を初代として創設された閑院宮(かんいんのみや)家の師仁(もろひと)(のち兼仁(ともひと))親王が第119代・光格(こうかく)天皇(在位1779〜1817年)として即位した。第118代・後桃園(ごももぞの)天皇(在位1771〜1779年)とは7親等離れているが、東山天皇の曾孫(三世孫)であり、後桃園天皇の第1皇女・欣子(よしこ)内親王と婚姻できるとして選定された。光格天皇も今上天皇の直系の祖先である。

 閑院宮は第5代・愛仁(なるひと)親王(1818〜1842年)に嗣子がなく(後述する淑子すみこ内親王との婚姻2日前に薨去(こうきょ))、明治4年(1871年)、伏見宮邦家(くにいえ)親王第16王子・載仁(ことひと)親王が閑院宮の第6代を継いだが昭和63年(1988年)、第7代で断絶した。

 開院宮家の創設に際しては朱子学者・新井白石(1657〜1725年)が皇統の断絶を危惧して幕府に建言したとされる。


 江戸時代の世襲親王家には他に第106代・正親町(おおぎまち)天皇(在位1557〜1586年)の皇孫である智仁(としひと)親王(第107代・後陽成(ごようせい)天皇の弟)を祖とする1589年創立の桂宮(天正桂宮)家(八条宮家→常磐井宮家→京極宮家→桂宮(かつらのみや)家)があった。桂宮家は第120代・仁孝(じんこう)天皇(在位1817〜1846年)の第三皇女・淑子(すみこ)内親王(第121代・孝明(こうめい)天皇の異母姉)が第12代を継いだが、1881年に薨去し断絶した。

 昭和63年(1988年)創設の(昭和)桂宮家(桂宮宜仁(よしひと)親王、2014年薨去により断絶)とは直接の関係はない。


◇◆◇◆◇◆


 血のバックアップには、「裏の」バックアップシステムがある。


 現行の皇室典範では制限がないが、天皇の正室になることができる身分が明治の(旧)皇室典範では皇族に、江戸時代までは皇族または公家のうち五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の娘に限られていた。側室相当においても上位公家に限られていた。これらの各家系はお互いに婚姻(血)で結びつき、血脈のプールを共有している。


 しかし男系相続においても必ず男児が得られるとは限らず(また早逝したり暗殺される例もあった)、親戚から養子をとる例も珍しくなかった。この状況で各家の女性(そして男性も)は継承者である嗣子を得なければならないとする圧力に晒される。日本史の中で「○○の子とされているが実は○○の子」とされる例が時折見られるが、儒教思想の下では「○○家の女が産んだ子(または産んだこととされた子)は○○の子」と扱われる例は表に出ないまでもそれなりにあったことが容易に推察される。本当の父親が○○家のサイアーライン(男系血族)内であれば、当主や次期当主の父や兄弟の子でも○○家とすれば問題ない。そして本当の父親が○○家のものでなかったとしても、一族の娘を迎えて子を産ませれば、血統は「修復」できる。表立っては言えないが、男系相続は家系内での婚姻を裏のバックアップシステム(血統修復システム)として内包している。


 ただ、これは「Y1遺伝子が」「男系継承が」との主張の根拠を揺るがすので、決して表沙汰になることはない。


◇◆◇◆◇◆


 現在の皇位継承は皇族の男系男子に限られているが、養子解禁による「旧宮家男系男子の皇族復帰」以外は国会において話が出ていない。しかし対象となる人物は男系で今上天皇と37親等程度離れている。女系であれば5〜7親等であるが、11宮家臣籍降下は昭和22年(1947年)、実に79年前であり、対象となる人物は当然のことながら皇族であったことはない。であれば「男系を辿るにしても皇別摂家(こうべつせっけ)でより男系血統の近い者がいるのではないか」「女性であれば既に5人確保できている」との疑問を持ったが、伏見系のルサンチマン解消には繋がらないためか、論議の対象とはなっていない。



 もっとも、養子で男子を「補充」したとして、必ずしも皇位継承者が増える(男児ガチャに成功する)とは限らない。


 現皇室で文仁親王(1965年生まれ)から悠仁親王(2006年生まれ)までの間の41年近く、皇室に男児は産まれなかった。

  旧宮家の男子、これは皇別摂家の男子でも良いが、新たに皇族となった男子と結婚するパートナーは、そして悠仁親王と結婚するパートナーは、男児ガチャを迫られる。産んでも産まなくても迫られる。そのプレッシャーに耐えてガチャを回し続けられるのか、そもそもパートナーになろうという人が出てくるのか、難しい所ではある。


 日本維新の会のサイトに旧宮家系図があった。平成24年(2012年)現在であるが、旧宮家でも断絶している家が多数ある。これはいくつかの理由があり、臣籍降下後に経済的に困窮した家があるかもしれない。また単に、男児が産まれなかったのかもしれない。一方では皇族でないので養子は禁止されないにも関わらず、養子を取らずに断絶した家も見受けられる。ただ14年前の資料であるが、あえてなのか30歳代で結婚していない男子が多数いて、何を狙っているんだろ?と気になった(昭和22年の11宮家臣籍降下の後に結婚した女性皇族8人、平成24年以降に限っても3人は、旧宮家には嫁いでいない)。


◇◆◇◆◇◆


 伏見宮家の第16代・邦忠(くにただ)親王は嗣子がなく薨去したため、第116代・桃園(ももぞの)天皇の第二皇子で生後3ヶ月の貞行(さだもち)親王が伏見宮家第17代を継いだが1772年、13歳で薨去した。公式な死因や詳細な記録は残されていない。

 寛宝入道親王(邦忠親王の弟)が還俗して第18代・邦頼(くにより)親王となった。

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