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「ただの政略結婚だ」と言った夫が、私のことだけ忘れてしまったらしい

作者: 甘夏 みみ子
掲載日:2026/03/20

 

「……誰だ、お前は」

 

 ベッドの上に横たわる旦那様が、いつも通りの感情の読めない、凪いだ目で私を見ていた。


 馬車が事故にあったとの報せを受けてから、診療所に駆け付けるまでの記憶は、ひどく曖昧だった。

 転げるように廊下を走って、扉を開けて目に飛び込んできたのは、頭に包帯を巻いているだけで、大きな怪我もない旦那様で。


 安心して、ほっと一息つこうとしたところ、だったのに。

 

「わ、私のことを忘れてしまったのですか……」

「侯爵様は、記憶に影響が出ております。いつ戻るかは、今は何とも」

 

 医師の説明によると、頭を打った拍子に、旦那様の記憶から私のことだけが、すっかり抜け落ちてしまったようで。

 こればかりは、薬や治療にどうにかなるものでもないらしい。

 

「しかし奥様、これは——侯爵様と離婚するチャンスでは? 記憶喪失は正当な離婚事由になります」

 

 侍女のアデルがそっと耳打ちしてくる。

 

(……確かに。そういう考え方もできる)

 

 この夫、オルフェ・ランドルフは社交界での評判が最悪だ。

 

 人付き合いが苦手で、無口で変わり者。

 挙句の果てには、使用人からも敬遠される始末だ。


 私だって例外じゃない。

「ただの政略結婚だ」と面と向かって言い放たれて、泣き続けた夜もあった。

 


 それでも。


 私は、彼のことを——。

 

 ◇◆◇◆


 縁談の話が来たのは、私が17歳の秋だった。

 

 お父様に応接室へ呼ばれて入ると、見知らぬ男性が椅子に座っていた。

 絵画かと思うくらい綺麗な顔立ちなのに、にこりともせず、こちらを一瞥して、視線を外した。

 

「若くして侯爵になられたお方だ。良かったな、フィーネ」

 

 彼は侯爵、オルフェ・ランドルフ様だと聞かされた。

 若くして当主となったオルフェ様は財力こそあれど政治的な後ろ盾を持たない。

 一方でうちは伯爵家とはいえ国の中枢に連なる家臣筋で、つまりはそういうことだったのだろう。

 

 お父様は、応接室の端で唇をきゅっと結んで、目に薄く涙を浮かべていた。

 

(お父様……)

 

 お父様は、幼い頃に母を亡くした私を、男手ひとつで育ててくれた人だ。

 オルフェ様は無口で変わり者だともっぱらの評判だったから、きっと嫁がせたくなかっただろうと思う。

 

 しかし、侯爵家から縁談が来てしまったら断れるはずもなく、私も頷くしかなかった。

 

「幸せに、なるんだぞ」

 

 お父様のそんな言葉と共に、三ヶ月後、私はランドルフ侯爵家へ嫁いだ。

 

 ◇

 

 ランドルフ侯爵邸は、歩くだけで迷子になりそうなくらい広い屋敷だった。

 

 晩餐の席に着いてみれば、オルフェ様――旦那様の他には誰もいなかった。

 ご両親はすでに他界されていて、兄弟も親戚もいないのだという。天井の高い、広い食卓に、たった二人きり。

 

 静寂に耐えきれなくて、私は意を決して口を開いた。

 

「あの、旦那様。お好きなお料理などはあるのですか?」

「……話しかける必要はない」

「え」

 

 私の質問はばっさりと切られてしまって、旦那様は黙々と食事を続けている。

 それでも先の生活のことを思うと、どうしても諦めきれなくて。

 

「でも、夫婦ですし。少しくらい会話をしても……」

「これはただの政略結婚だ。期待しないでほしい」

 

 旦那様はこちらを見もせずに、そう言った。

 

「結婚が必要だったから、年頃の令嬢の中から選んだだけだ。他意はない」

 

 胸の奥に、ちくりと小さな棘が刺さった気がしたけれど、私は笑顔で「承知しました」と答えた。

 

 自室へ戻ると、実家から付いてきてくれた侍女アデルが待っていた。


 アデルは私が子どもの頃から一緒で、ずっと姉のように仲良くしてくれている。

 私の婚姻に最後まで反対していたのも、彼女だった。

 

「フィーネ様、侯爵様はやはり評判通りの変わり者じゃないですか!」

「ありがとうアデル。でも、大丈夫よ」

「大丈夫じゃないでしょう! あんな言い草、有り得ません! フィーネ様のどこが不満だとおっしゃるんでしょうか!」

 

 アデルはぷりぷりと怒っていたけれど、彼女を何とか落ち着かせたあと、私は部屋でひとりになった。

 ベッドの中でうずくまり、小さく呟く。

 

「政略結婚、か……」

 

 別に、愛されたいとは思っていなかった。

 貴族ならば愛のない結婚なんてよくある話だということも、理解していた。

 

(きっと私が、子ども過ぎるだけなんだわ……)

 

 寂しかった。


 泣きそうな顔をこらえていたお父様の顔を思い出して。

 使用人たちと庭を走り回っていた子供の頃の日々を思い出して。

 もう戻れない場所のことを思って。


 涙が溢れて止まらなくなってしまった。


「会いたいよぉ、お父様……っ」

 

 私はシーツを口に当てて声が漏れないようにして、一晩中ぐずぐずと泣き続けた。

 

 ◇

 

 結婚して、一週間経った夜のことだった。

 

 相変わらず、人知れず泣く生活を続けていた私は、体中の水分が涙で抜けてしまったのか、喉がカラカラに渇いてしまった。

 時計を見れば、針は深夜二時を指している。


(こんな時間だし、誰もいないわよね)

 

 泣きはらした目を誰にも見られるわけにはいかない。そう思いながら、水を飲むためにそっと廊下に出たのだが。

 

「……っ!」

 

 ちょうど角を曲がったところで、誰かにぶつかった。顔を見上げてみれば、そこには絵画の中の美男子かと思うくらい整った「夫」がいた。


(旦那様……!)

 

 私は慌てて俯いて道を譲った。


 きっと、こちらを気に留めず通り過ぎるのだろうと思っていたのだが、彼はしゃがみこんで私の顔をじっと覗き込んだ。

 整った表情の奥の感情は、全く読むことができない。

 

「な、何でしょうか……」

「……目が腫れている」

「す、少し、悪い夢を見ただけです」

 

 視線を逸らしながら言い訳をした。

 泣いていたなんて知られたくなくて、なんだか怒られるような気がして、ぎゅっと身を縮めた。

 

 その瞬間。

 唐突に、ぐいっと腕が掴まれた。

 

「来い」

 

 それだけ言って、旦那様は私の腕を引いたまま歩き始めた。

 

(……ど、どこに行くのかしら)

 

 手首を引かれるまま廊下を進んで、連れて行かれたのは、まだ一度も足を踏み入れたことのない部屋だった。


 調度品が少ないシンプルな部屋の中央には――ピアノがあった。

 黒くて、大きくて、真っ暗な中で月の光を受けて輝く姿は、まるで大きな宝石みたいで。


「わぁっ」と思わず声が漏れ出てしまう。


 旦那様は何も言わずにそこへ座り、鍵盤に指を置いた。

 

(だ、旦那様が弾くの……?)

 

 普段の旦那様の様子からして、ピアノが似合うタイプとは思えなかった。音楽どころか、彼は何に対しても興味を示しそうにない。

 何を考えているか分からない彼に対して、正直、不気味だと思ったこともあった。


 私は入り口近くに立ったまま、ごくりと息を飲む。

 

「え……」

 

 しかし、旦那様が弾き始めた瞬間、衝撃が走った。

 

 美しい、なんて言葉では足りなかった。

 高く上っていくような旋律と、低く沈む音が交互に絡まって、夜の部屋をゆっくりと満たしていく。

 どこか懐かしくて、明るくて、それなのに涙がこぼれそうになるような、不思議な曲で。

 

 さっきまであんなに苦しかった胸が、まるで薬を飲んだ後みたいに、すっと落ち着いていくのだ。


 旦那様の奏でる音楽は、いつの間にか、私の悲しい気持ちを消し去ってしまっていた。

 

「……母が好きだった曲だ。『在りし日の思い出』という」

 

 演奏が終わったあと、旦那様は薄く唇を横に引きつらせながらそう言った。

 こちらを向いた彼の頬はぴくぴくと震えており、眉間にはシワがよっている。


「すみません、何か怒らせてしまったでしょうか」

「…………これは笑顔だ」


 しまった。


「す、すみません」

「謝るな。虚しくなる」


 旦那様は、ふうと息を吐いて私に目線を合わせた。


「涙は止まったか」


 相変わらず、無表情のままで余計なことを言わなかったけれど。

 

(もしかして、私を励まそうとしてくれたの……?)

 

 旦那様のことを、冷たい人だと思っていたのに。

 無口で変人だという評判が嘘だと思うくらいに、胸がじんと温かくて。

 

「はい! とっても綺麗で、感動して……ありがとうございました!」

「ああ」

 

 旦那様が会話をしてくれたことが、なんだかひどく嬉しくて。

 ついつい、追撃するように話しかけてしまう。

 

「あの……私も、旦那様みたいに弾けるようになれますか?」

 

 震える声で聞けば、部屋を出ていこうとした旦那様はこちらを振り返った。


(そういえば、「話しかける必要はない」って言われたのだったわ)


 そう思ったけれど一度口にしてしまった言葉を取り消す訳にもいかない。


 少しの間があって、彼は何も言わずに踵を返して部屋の中へ戻り、ピアノの前に座った。

 そして、椅子をずらして、顎で隣を示した。

 

 座れ、ということらしかった。

 

 気づけば楽譜がいつの間にか簡単な練習曲に差し変わっていて。

 旦那様の隣に腰を下ろして、おそるおそる人差し指を鍵盤に置いた。

 

「練習曲第一番だ。これなら弾けるか」

「私、譜面を読むのが苦手で……」

 

 昔、ピアノを習っていたこともあるが、才能が無かったのか、先生を呆れさせていたことを思い出す。


 言い訳しながら鍵盤を叩けば、当然のように音は外れた。何度も躓いていると、段々と焦りが出てきてしまい、さらにミスが増えていく。

 

 すると旦那様の手が、静かに伸びてきた。


「焦るな、ゆっくりでいい」

 

 そう言って、私の手の上に自分の手を重ねて、正しい鍵盤へと導いてくれた。

 大きくて、少し冷たい手だったけれど、その動きはびっくりするくらい丁寧で。


 急かさなかったし、乱暴でもなかった。

 まるで壊れ物でも扱うみたいに、ゆっくりと優しい動きだった。

 

(ああ、こんなことで、私……)

 

 自分でも驚いてしまうくらい、あまりに単純で。簡単で。

 

 恋という感情を知らないはずなのに、それが確かに輪郭を帯びているのがわかる。

 胸がどきどきして苦しくて、全身の血が一気に顔に集まっていく。

 

(駄目だわ。これは「政略結婚」なのに)


 私は、首を横に振ってピアノに集中した。

 

 ◇

 

 それからピアノの練習が日常になった。

 旦那様は忙しい仕事の合間を縫っては、時間をつくってくれた。

 けれど。

 

「使用人たちには、黙っておけ」

 

 旦那様にそう言われたから、私は誰にも秘密のレッスンのことを言わなかった。

 政略結婚の妻と二人でいることを知られたくなかっただけだと思うが、誰にも内緒だと思うと、それもまた嬉しかった。


 幸いにもピアノの部屋は防音室らしく、旦那様と私のレッスンは誰にもバレなかった。


「練習曲は弾けるようになったな」

「はい、旦那様のおかげです」


 しばらく練習したおかげか、私のピアノはメキメキ上達した。

 旦那様が用意してくれた練習曲たちはあらかた弾けるようになった。……と言っても、楽譜通りに弾くのがやっとで、旦那様みたいに人の心を動かす演奏への道のりは遠い。


 ストイックな旦那様はなかなか褒めてくれないから、たまには優しい言葉も欲しいなぁなどとぼんやり思っていると、隣から溜息の音が聞こえてきた。


「そんなに褒めて欲しければ、もっと練習に励むことだな」

「旦那様は、私の心の声が聞こえるのですか?」

「お前が分かりやすすぎるだけだ」


 旦那様は呆れたようにそう言った。


「じゃあ、私も『在りし日の思い出』を弾いてみたいです」

「……まだ無理だ」


 旦那様は私の隣に座ると『在りし日の思い出』を弾いた。


 彼は懇切丁寧に教えてくれるわけではなかったけれど、指の位置を直してくれることもあれば、こうやってお手本のように弾いてくれることもあった。


「もし――いつの日か、フィーネが最上級の演奏ができたら『よく出来ました』と褒めてやろう」

「本当ですか!」


 旦那様のような方に褒めてもらえれば、きっと嬉しくて感動で泣いてしまうに違いない。

 ……果たして、私にそんな演奏ができるかは分からないけれど。


(よし、頑張るぞ!)


 私は気合を入れ直して、楽譜に向き合った。


 ◇

 

「フィーネ様、また侯爵様とご一緒だったんですか?」

 

 その日、部屋へ戻るとアデルが怖い顔で待ち構えていた。


「ええ」

「あまり関わるのは、良くないと思います」


 アデルは、ぎゅっと唇を結んだ。


「……侯爵様は、また議会で他の貴族の反感を買ったと噂ですよ。お父様もご心配されています」

「旦那様は、悪い方じゃないのよ」

「どこがですか! 食事の時もろくに話しかけもしないくせに!」

 

 アデルの言葉は、彼女なりの心配から来ているのだとわかっていた。

 だからやんわりと笑って、「大丈夫よ」とだけ答えた。


 本当は旦那様とピアノの練習をしていると伝えたかったけれど、彼との約束を守るために黙っておいた。

 

 ピアノの時間で、旦那様との距離が縮まっているかと言われたら、よくわからなかった。

 けれど、日を追うごとに何かが少しずつ変わっていく気がした。

 食事のとき、稀に「今日は冷えるな」と言ってくれるようになったり、廊下で顔を合わせたとき、ほんの少し足を止めてくれるようになったり。


 少しずつ。ほんの少しずつ。

 

 オルフェ・ランドルフという人のことを知っていくのが嬉しかった。

 

 ◇◆◇◆


 

「旦那様の記憶を取り戻したいのです」

 

 私は医師にそう告げると、傍らでアデルが目を丸くした。

 

「フィーネ様、これを機に離婚は考えないのですか!」

「考えないわ」

「だって、これはチャンスです。侯爵様は、フィーネ様のことを何も覚えていないんですよ? このまま……っ」

「アデル」

 

 私は静かに首を振った。


 アデルは口をぱくぱくさせてから、ぐっと唇を引き結んだ。


 アデルは、きっと悪気があるわけではない。

 彼女は昔から、私のことをいつだって誰よりも心配してくれているのだから。

 

「ありがとう、アデル。でも、私は旦那様と離婚しようとは思っていないの」

「どうしてですか」


 アデルの言葉に私は言い淀んだ。


「……どうして、だろう」


 私は、上手く言葉にできなかった。


 これは、政略結婚で。

 私と旦那様の間に、愛なんて無かったはずで。

 ただ、ピアノの練習をするだけの仲で。

 私は旦那様のことなんて、全然知らないはずなのに。


(……嘘だ)


 無理に笑うとぎこちなくなるのに、ふとした時に緩む顔も。

 私の手が覆われてしまうほど大きな手も。

 不器用なだけで、本当はずっと優しくて私に気を遣ってくれているのも。


 そんな彼の全てが、いつの間にか私の日常に入り込んでしまっていて、心の柔らかいところがずきずきと痛む。


 彼の瞳に私が映っていないことが、ひどく怖かった。

 旦那様と私の二人だけの思い出が、私だけのものになってしまうなんて、嫌だった。


 きっと――


(……言葉にしたら、もう引き返せない気がしていたけれど)


 ――それが愛だというのなら、確かにそうだったのかもしれない。


 私はぎゅっと唇を噛んで俯いた。

 自分でもどうしたいのか全然分からなくなってしまって、頭が混乱してくる。

 すると、アデルが小さく「ふう」と息をついた。


「わかりました。……フィーネ様の気持ちはよくわかりました」

「アデル」

「フィーネ様にそんな顔をさせるなんて……やっぱり私、侯爵様を好きになれません」


 いい加減、アデルは私に見切りをつけるのかと思っていると、彼女は諦めたような笑みを浮かべて、パッと顔を明るくした。


「だから、フィーネ様のために何としても記憶を取り戻してもらいましょう!」

「えっ」

「だって、侯爵様はフィーネ様の大切な人、なんでしょう?」


「何年一緒にいると思ってるんですか」とアデルは付け加えた。


 ああ、私はアデルのこういうところが大好きだ。

 いつだって私の味方でいてくれる彼女のことを、ぎゅっと抱きしめた。


 ◇


 改めてお医者様に記憶を取り戻す方法を聞けば、彼は少し考え込んでから、口を開いた。

 

「音や、慣れ親しんだ感覚が、記憶のきっかけになることがあります」

「それなら――」

 

 閃いた私は、旦那様が退院して屋敷に戻ったあと、王都で名の知れたピアニストに使いを出した。


 旦那様の思い出の曲『在りし日の思い出』を演奏してもらおうと思ったのだ。

 

 私は、一時的に旦那様の屋敷にお世話になっている貴族の娘だという設定にした。

 医師が、いきなり記憶外のことを言われても混乱すると言っていたからだ。


(確かに、いきなり「妻です」なんて見知らぬ人間に言われたら、おかしくなっちゃうわ)


 記憶を思い出してもらうには、これが最善なのだと思うけれど、妻だと名乗れないことはとても辛かった。



 数日後、ピアニストは家にやってきてくれた。

 私でも知っている有名な方だった。

 

「これほどの奏者が来てくださるとは。きっと侯爵様も……!」

 

 アデルは期待交じりに呟いたけれど。

 繊細で完璧なその演奏が部屋に満ちている間も、旦那様は退屈そうにずっと窓の外を見ていた。

 

 曲が変わっても、何曲弾いてもらっても、その横顔はまるで他人事のように静かなままで。

 

(どうして……?)

 

 曲が終わっても、旦那様は何かを思い出す様子は無かった。

 ピアニストが当惑したように席を立った時、アデルがそっと私に耳打ちした。

 

「ピアニストの演奏じゃ駄目なんじゃないでしょうか……」

「どういうこと?」

「ピアノの音って、弾く人によって変わると言うじゃないですか。慣れ親しんだ人の演奏――例えば、フィーネ様の演奏だと何か変わるかもしれませんよ」

 

 その言葉が、胸の中にすとんと落ちる。

 

 旦那様の心の中に私との時間が少しでも残っているなら、私の音の方が届くかもしれない。


  そんな淡い期待を抱いてしまった。

 

 ◇

 

 ピアニスト作戦が失敗した私は、意を決して一人でピアノの部屋へ向かった。

 楽譜立てに一冊の楽譜が挟まっているのが目に入る。

 

『在りし日の思い出』

 

 二年間、隣で聴いてきた曲だ。

 温かくて優しくて、懐かしい気持ちになるメロディだけれど、私の腕では到底弾けるような曲じゃない。

 

 それでも、アデルの言うように、私の奏でる旋律が旦那様の心に少しでも残っているのならば、プロの演奏より届くかもしれない。


 椅子を引き直して、背筋を伸ばした。


(やれるだけ、やってみよう)

 

 弾き始めると、すぐに躓いた。


 最初の同じフレーズを何度も繰り返してしまったけれど、指の先が赤くなっても、目が乾いても手を止めなかった。

 

(弾けなくて当然だわ。この曲は、ピアノの手練れですら難しい曲なのだから)

 

 旦那様は、こんな難しい曲を弾きこなしていたのかと思うと改めて尊敬する。

 私なんて、すでに指がつってしまいそうなのに。


 そんなことを思っていたとき、がちゃりと扉が開く音がした。

 

「……何をしている」

 

 旦那様の声だった。


 ここは防音室だ。

 だから、廊下からはピアノの音は聞こえないはずだけれども。

 

(もし、旦那様の記憶の片隅に――音楽室での思い出が残っているとしたら)

 

 一縷の望みを捨てられないまま、私は振り返って彼のことを見つめた。

 

「お前は、親の都合で我が家に住むことになっていたんだったか。確か、名前は……」

「フィーネです」


 名乗る瞬間に、ずきずきと胸が痛む。

 本当は今すぐ正体を明かしてしまいたい。

 思い出してください、と泣いて縋りたい。


(でも、きっとそんなことをしても、意味が無い)


 もう、昔みたいにぐずぐず泣くだけの私とは違う。

 絶対に泣いたりなんてするものかと、顔を上げて楽譜を睨みつけるように見つめながら、たどたどしく鍵盤を叩く。


「下手だな」

「……存じております」

 

 てっきり立ち去るだろうと思っていたのだけれど、なんと旦那様は部屋の中へ入ってきた。

 部屋の隅の椅子に腰を下ろして、腕を組んだ。

 

「続けろ」

 

 それだけ言って、彼は黙り込んだ。

 

 私は楽譜に向き直って練習を再開した。

 たどたどしくて、聞くだけでイライラするような音だったと思う。それでも旦那様は何も言わず、ただ黙って聴いていた。

 


 それからなぜか、旦那様は毎日来るようになった。

 今日こそはと思いながら弾いて、また明日こそはと思いながら眠る。


 そんな日々が、1ヶ月続いた。

 それでも、旦那様はずっと私のことを思い出してくれなかった。


「……なぜ、毎日いらっしゃるんですか」

 

 ある日、とうとう聞いてしまうと、旦那様は少しの間黙って、腕を組んだまま視線を床に落とした。

 

「わからない」

 

 やがて、ぽつりとそう言った。

 

「でも、何か忘れている気がするんだ」

「……そう、ですか」

 

 嬉しいのか、悲しいのか、自分でもよくわからなかった。

 記憶が無くなってはじめて、彼の中に私という存在があったのだと確かめられるなんて皮肉な話だ。


 記憶が戻らなければ、どうなるのだろう。

 ただの同居人という設定も、いよいよ苦しくなってくる頃だ。


 正体を明かして、離婚しなければならない時が来てしまうかもしれない。

 

(それは、嫌だ)

 

 だから、私は無心で弾き続けた。


 あなたはあのとき、「ただの政略結婚だ」と言ったけれど。

 今も、本当にそう思っているのか確かめたいから。

 

 ◇

 

 練習を続けてしばらく経ったけれど、私は一向に『在りし日の思い出』を弾けるようにはならなかった。


(それもそうだわ。だって、この曲は長年ピアノを弾いている人がやっと弾けるようになる曲なんだもの)

 

 旦那様も寝たであろう深夜に、私は音楽室にいた。

 私が同居人だという嘘も、いよいよ厳しくなってしまい、ついに、お父様からは「実家に戻ってきなさい」とお叱りを受けてしまった。


「もう、駄目、なのかな……」


 旦那様が、私のことを思い出さないまま離婚する――そんな最悪な結末を想像して、私は憂鬱な気持ちになる。


 ピアノを撫でながら、私はゆっくりと目を閉じた。


 思い返すのは、初めて旦那様の人柄を知った日だ。

 もう終わりが来るのならば、せめて最後に楽しく弾いて終わりにしよう。

 そう思って、初めて旦那様に教わった曲の楽譜を取り出した。


(今思えば、あの練習曲が1番時間がかかったっけ)


『練習曲第一番』

 他の楽譜より、明らかにボロボロで思わずくすりと笑ってしまう。

 旦那様も、練習の後半は呆れてしまっていた気がする。


「……懐かしいわ」


 私は、ぽんと鍵盤を鳴らした。

 するとどうだろう、鍵盤も楽譜も見ずにすらすらと弾けるようになっていて自分でも驚いてしまう。


 だんだんと弾いていると、気分が上がってきて弾いている手が羽のように軽く感じて音が跳ねる。


(ピアノってこんなに楽しかったんだわ!)


 ずっと難しい曲ばかり弾いていたから、演奏が義務のように感じていたのかもしれない。

 私は、音楽記号なんかも全部無視して思うがままに音を奏でた。


 そのメロディが、私と旦那様との楽しかった二年間の日々を思い出させる。

 深夜のピアノ室。月明かりの中で重なった、大きくて冷たい手。


(私ったら、旦那様のことが……とっても好きなんだわ)

 

 弾きながら、そんなことを思った。


 今さら気がついたわけじゃない。

 でも、この曲を弾いている間だけは、うまく言葉にできなかったものがぜんぶ、指先に乗っかる気がして。


 そのまま思い切り演奏を続け、弾き終わる頃にはじんわりと汗がにじんでいた。

 今日はもう練習を辞めようと、楽譜を閉じた時だった。

 

「…………フィーネ?」

 

 ふと、背後で、聞き覚えのある声が私を呼んだ。

 

 その声の高さや柔らかさは、明らかに私に呼び掛ける時のもので。

 心臓が止まりそうになってしまう。

 

(うそ、だ。……嘘だわ。そんなはずはない)

 

 ゆっくりと振り返ると、すぐそばに旦那様が立っていた。

 いつも無表情な彼が、目を見開いたまま私のことをじっと見つめていて。

 彼のアメジスト色の瞳がキラキラと輝いていて。

 

 ――その瞳は、明らかに「妻」の私を映していて。

 

「良い演奏だな」

「旦那様……」

 

 そんなはずはないと必死に自分の淡い期待を否定する。

 

 だって、私が弾いていたのは『在りし日の思い出』ではなくて、ただの練習曲なのに。

 楽譜通りになんて弾いていない、酷い演奏だったはずなのに。

 ただの――


 「フィーネ」

 「……っ」

 

 名前を呼ばれた瞬間、ぐっと引き寄せられた。

 旦那様の腕が私の背に回って、そのままぎゅっと抱きすくめられる。温かくて、大きくて、ずっと恋しかった体温だった。


「よく出来ました」

 

『もし――いつの日か、お前に最上級の演奏ができたら『よく出来ました』と褒めてやろう』

 それは、いつの日か約束した――最上級の褒め言葉。

 

(ああ、私のこと、思い出してくれたんだ……っ)

 

 涙がこぼれた。

 

 声も出さずに、ただぽろぽろと零れていたのに、だんだんと視界が滲んで旦那様のことが見えなくなっていく。

 

 ついに顔を覆いながら泣きじゃくってしまったら、旦那様が驚いたように私のことを見つめた。

 

「……フィーネ」

「はい、はい、フィーネです。本当に、思い出してくれて、ありがとうございます」

 

 嗚咽を必死に堪えながら答えたけれど、涙は一向に止まらなかった。

 うれしくて、ほっとして、今までの涙がいっぺんにあふれてきているみたいで。

 

「……ありがとう。俺のために、頑張ってくれていたんだな」

 

 旦那様の声がかすかに震えていて、それを聞いてまた涙が溢れてくる。

 旦那様は、『在りし日の思い出』の楽譜を掴み上げてペラペラと捲った。


「だが、『在りし日の思い出』なんて、随分背伸びしたな」

「私のことを思い出して欲しかったんです……」

「では、お手並み拝見だな」

 

 彼は、私の隣に腰を下ろした。

 そして長い間があってから、彼の指が鍵盤に触れた。

 

「……一緒に弾くか?」

「はい!」

 

 私の旋律に寄り添うように、旦那様の指が動き始めた。

 拙くて遅い私の音と、深くて澄んだ彼の音が重なった。

 

『在りし日の思い出』はまだやっぱり難しい。

 

 旦那様はやっぱりピアノがとても上手で、私のめちゃくちゃな旋律に合わせて伴奏してくれた。

 

 弾き終わって、ふと横を見れば無表情だけれど、ほんの少しだけ笑みを浮かべた旦那様がいて。

 

「俺は、思ったことを言葉にするのが苦手だ」

「はい」

「自分の評判も分かっているし、フィーネにそんな男と懇意にしているという噂も流したくなかった」

 

 使用人たちと距離を置いていたのも、そういうことなのだろう。

 彼は不器用なだけで、冷たい人間なんかではないことはとっくの昔に分かっていた。

 

「でも、今は違う」

 

 旦那様がこちらを向いた。鍵盤から目を上げて、まっすぐに私を見た。

 

「ただの政略結婚だと言ったな」

「……はい」

「あれは、フィーネを俺に縛り付けたくなかったからだ」

 

 彼は少しの間、黙っていた。

 

「……撤回する」

 

 少し赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いた彼が、愛おしくて仕方なくて。

 何も言わなくても私には伝わったから、先程のお返しするように、ぎゅっと抱きついた。

 

「私も旦那様のこと、大好きです!」

 

 旦那様の顔がさらに赤くなった。


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