第四話 戦火のゆりかご
予備調査員二名が消失した廃ビル事件。怪異も呪詛の痕跡もなし――この謎の奥に潜むのは、悲しい戦争の記憶だった。
第一章:冬の朝食
十一月の朝、冷たい風が窓ガラスを叩く。
岸本の古い事務所は暖房で温められているものの、外の冷気が壁の隙間から染み入る。
岸本のデスクには、ブラックコーヒーとバタートーストが一枚並んでいる。それをゆっくり頬張りながら、思わず笑みが溢れる。
「岸本、今日は朝からご機嫌ね。いい事でもあったの?」
「まあ、ちょっとな…」
昨日は、愛娘・綾香との一か月ぶりのデートの日だった。
元妻との取り決めで、養育費を払う代わりに月に一度だけ会える貴重な時間。
岸本は奮発して、千葉の東京ディズニーランドへ綾香を連れて行った。アトラクションを前に、綾香の目は星のように輝き、「次はあれ!」「こっちも乗りたい!」と無邪気な声を響かせた。
娘と過ごすひとときだけは、束の間の平穏を感じられる。
来客用のソファに腰掛けた真琴は、トースト二枚にバターを惜しみなく塗り、さらにはイチゴジャムを山盛りにしていた。
小さな手が満足げにそれを運び込み、少女のような屈託のない笑みが広がる。
「やっぱりトーストは、この組み合わせよね! バターのコクとジャムの甘酸っぱさ、最高!」
「お前なぁ……そんなに食ってると、太るぞ? 体重管理は大事だろ」
「失礼ね! 呪滅は体力勝負なのよ。たくさん食べなきゃ体がもたないの。あんたこそ、酒ばっかり飲んでないで、もっとしっかり食べなさいよね!」
真琴は岸本を指さし、フンッと鼻を鳴らした。岸本は苦笑しつつ、トーストを一かじりした。
その時、事務所の古い電話が鳴り響いた。岸本はトーストを置いて受話器を取る。
「はい、岸本探偵事務所」
「岸本か。神藤くんも一緒だな。また依頼を頼みたい」
耳障りな雑音とともに、機械化された感情のない声が響く。【ノイズ】からの連絡だ。
「場所は東京都・二十条市。二十条駅から車で十分ほどの、六階建ての廃雑居ビル付近だ。そこで怪異、もしくは呪詛の発生が予想されている。予備調査の遅延により、既に少なくとも二十人以上が取り込まれている」
「待て、予備調査の遅延?怪異か呪詛かも不明?そんな事今まであったか?」
岸本の疑問に、【ノイズ】が数秒言葉に詰まるような間を置いた。
「……予備調査員二名も調査中に消息を絶った。怪異か呪詛かも、現段階では不明。事態は深刻かつ急を要する」
予備調査員は、特殊な専用機器を使用し、怪異や呪詛の裏付けを取り、予備的な調査を行う専門家だ。
それが二人も飲み込まれた? 背筋に冷たいものが走る。
「詳細な資料・情報は既に送ってある。確認次第、神藤くんと共に現場に急行してくれ…健闘を祈る」
ガチャリと電話が切れた。受話器を置く岸本の手が、わずかに震えていた。
「……【ノイズ】からの依頼ね」
真琴の声がソファから静かに響く。
さっきまでの笑みが消え、鋭い目つきで岸本を見つめる。
十一月の寒い朝にもかかわらず、額にじわりと汗が浮かんだ。
資料によれば、二十条市は第二次世界大戦中、無数の軍需工場が立ち並ぶ軍都だった。
連合軍の空襲を度々受け、爆音と炎に包まれ、数千もの命が失われた悲しい歴史を持つ。
戦後再開発の波に乗り、駅前には近代的なビル群が林立し、当時の面影はほぼ消えているという。
問題の廃雑居ビルは、近年建てられた平凡なビルだ。
怪異化や呪詛に繋がる有力な情報は一切ない。
予備調査員二名の失踪、二十人以上の被害者…すべてが謎に包まれている。
「予備調査員を飲み込む怪異か呪詛か…一筋縄じゃいかなそうだな」
「確かに前代未聞ね。行きましょ、岸本」
外では、十一月の風がますます強さを増していた。
第二章:二十条市の廃ビル
岸本の営業車兼自家用車のエンジン音が、低く唸りを上げながら高速道路を疾走する。
助手席の真琴は、窓外の景色を眺めつつ、時折スマートフォンをチェックしている。
岸本はハンドルを握りしめ、彼女の横顔をチラリと見やる。
相棒になってまだ日は浅いが、任務の重みが二人を強く結びつけていた。
一時間半ほどで、ナビが目的地の到着を告げた。
二十条市の現場周辺は閑静な住宅街で、遠く駅の方角には再開発されたビル群が見える。
近隣のコインパーキングに車を停めた。
問題の廃ビルは、住宅街の静かな一角にひっそりと佇んでいた。
「地上六階建ての雑居ビル…ここだな、資料の通りだ」
岸本は入口の扉にそっと手をかけ、軽く押す。
「…鍵はかかってないみたいね」
錆びた蝶番が軋む音を立てて開いた。
真琴と岸本は、音を立てないよう慎重にビルへ足を踏み入れた。
薄暗いロビーは廃墟特有のカビ臭さが鼻をつく。
だが、酷い損壊はない。おそらく廃墟となってから、そう長い年月は経っていないのだろう。
ビルの中央に差し掛かったところで、真琴が立ち止まった。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
長い黒髪がそよぐように揺れ、白いブラウスの裾がわずかに膨らむ。
数秒の沈黙の後、真琴がゆっくり目を開いた。
「…呪詛の気配は皆無よ…。二十人以上取り込んでるのに、痕跡すら無いなんてあり得ないわ。岸本、あなたはどう?」
岸本は頷き、深呼吸して神経を研ぎ澄ませた。
鋭い目で、空気中の微細な違和感や空間の歪みを捉えようとする。
「…俺もだ。怪異の気配は微塵も感じられない。一体どういう事だ?」
二人は一階から六階まで、すべてのフロアをくまなく探索した。
埃っぽい廊下、ひび割れた壁…。
だが、どこにも異常は見当たらない。怪異の気配はおろか、不自然な影すら存在しなかった。
「手がかりの欠片すらない…。本当に事件があったのかよ!?」
岸本は苛立ちを抑えきれず、拳を軽く握りしめる。
真琴は小さくため息をつき、肩を竦めた。
「もしこれが呪詛なら、神様の力でビルごと吹っ飛ばせば済むんだけどね」
真琴のしれっとした言葉に、岸本は目を丸くした。
彼女の表情は真顔そのもの。
冗談か本気か判断がつかない。背筋に冷たいものが走る。
「いや、冗談だろ? 絶対やるなよ。怪異だった場合、四散して被害を広げるかもしれないし、第一、警察が……」
「冗談に決まってるでしょ。察しなさいよね」
真琴は岸本の言葉を遮り、両手を広げて大げさに「やれやれ」とジェスチャーした。
瞳には苛立ちと楽しげな光が混ざり合う。
二人は視線を交わし、苦笑を浮かべた。張り詰めていた緊張の糸が、ほんの一瞬、緩んだ。
第三章:住宅街での邂逅
何とも決め手に欠けたまま、二人は廃ビル周辺の調査を開始した。
岸本は怪異のわずかな兆候も見逃さないよう神経を研ぎ澄ませ、真琴は鋭い目で呪詛の痕跡を探す。
「いい? 岸本。相手が怪異か呪詛か分からない以上、街中でも二人体制は必須よ。怪異なら私の呪滅は効果がないし、呪詛ならあんたなんか一溜まりもないからね。」
真琴の言葉は相変わらず容赦ない。
「分かってるよ……それに【依代】の届く範囲でだろ?」真琴が小さく頷いた。
「分かってるならいいわ。じゃ、先を急ぎましょ」
小柄な体躯に似合わぬ自信たっぷりの歩調に、岸本は揺るぎない頼もしさを感じた。
探索を始めて三十分ほど経った頃、コンビニの前で真琴がぴたりと足を止めた。
「あの……岸本……」
「なんだ? 呪詛の気配か!?」岸本の背筋に緊張が走る。
「そうじゃなくて……その……お花摘みに行きたいんだけど……」
鋭い眼光が霧散し、モジモジと小さな声で訴える。
「はぁ!?」
岸本は絶句した。
「花摘みって……今は捜査中だろ!? いきなり何だよ!」
バキッ!
鋭い痛みが顔面に炸裂する。
またしても真琴の渾身のチョップだ。
「……っ痛ぇ! いきなり何すんだよ!?」
「バカ! トイレに行きたいって言ってんのよ! 言わせんな!」
真琴は真っ赤な顔で逆上し、声を荒げる。
「お前……そんな化石みたいな死語、誰がわかるかよ!」
頬をさすりながら抗議する岸本に、真琴は鼻を鳴らした。
「あんたみたいな無知には難しすぎたみたいね。コンビニ行ってくるから、外で待ってなさいよ!」
頬を染めたまま、真琴は店内に駆け込んだ。
二十代の女がそんな古臭い表現を使うかよ。
真琴は時折、世間離れした言動を見せる。どんな世界で育ったんだ、あいつ……。
プロポーズされたら「月が綺麗ですね」なんて返すのか?
苦笑を浮かべ、岸本はコンビニ前で煙草に火をつけた。
その時、ゆっくりとした足音が近づいてきた。一人の老婆だ。
アルミの杖をつき、腰が深く曲がっている。かなりの高齢だ。
「ねえ、一緒に小人さんのおウチに行かない? お菓子もあるよ。果物もおいしいよ。」
認知症のようだ。
岸本は頭を掻き、困惑した。
今は一刻を争う捜査中。
だが、放っておくのも心苦しい……コンビニの店員に預けるか?
「おにいちゃん、寂しいんだね。ねえ、わたしとお友達になって一緒に行こう。お菓子もあるよ。好きな人にも会わせてあげる。」
老婆の手が岸本の腕に触れた瞬間――空間がぐにゃりと歪んだ。
紛れもない怪異の兆候だ。
「っ!」
咄嗟に距離を取ろうとするが、遅かった。
歪んだ空間に引きずり込まれ、岸本の姿は虚空に飲み込まれた。
自動ドアが開き、真琴が戻ってきた。
「岸本、お待たせ。お腹空いたから、ついでに菓子パン買ってきたよ。岸本の分も……」
言葉を切った真琴の顔がみるみる青ざめる。
「岸本? 岸本ぉーっ!」
彼女の叫びが静かな住宅街に響き渡った。
第四章:小人さんのゆりかご
岸本は、老婆――本田和子に触れられた瞬間、彼女の記憶が雪崩れ込んできた。
視界が揺れ、当時の世界が俯瞰したように広がる。
ある夏の二十条市。
空は連日、連合軍の爆撃機に覆われていた。
銀色の機体が太陽を遮り、不気味な轟音が響く。
「暗いよぉ!怖いよぉ…!」
防空壕に入る度、和子は泣き叫んだ。
爆撃の恐怖と薄暗い閉塞感が、幼い心には耐えがたいものだった。
母・澄子は娘を膝に抱き、ぎゅっと包み込む。
「和子、大丈夫よ。もうすぐ静かになるからね」と囁くが、和子の涙は止まらなかった。
ある日、澄子は小さな奇跡を起こした。
泣く和子に、優しく微笑んで言った。
「和子、ここはね、小人さんのおウチなんだよ。よーく探してみてごらん。小人さんが持ってきてくれたお菓子があるよ」
和子はしゃくり上げながら、涙で濡れた目をこすり、薄暗い防空壕を見回した。
土の床に、色とりどりの包み紙にくるまれた飴玉があった。
「あった、あったよ、お母さん! 小人さんのお菓子だぁ!」和子の声が弾け、恐怖で縮こまっていた顔に笑みが広がった。
他の子どもたちも澄子の言葉に釣られ、探し始めた。
「ここにも!」「あそこにも!」と歓声が響き合う。
実は、澄子がなけなしの金で買い集めた飴玉を、こっそり防空壕の隅々に隠しておいたのだ。
戦火の恐怖に包まれながらも、防空壕は一瞬、温かなゆりかごに変わった。
だが、そんな日々は突然終わりを告げた。
空襲警報が鳴り響く中、澄子と和子の頭上に戦闘機が急下降して来た。
タダダダッ!
機銃の火花が地面を叩き、澄子は咄嗟に和子を押し倒して覆いかぶさった。
「お母さん!」和子は叫んだが、応える声はなかった。
澄子の背中から赤い血が流れ、熱い地面に染み込んだ。
戦争終結のわずか一か月前の出来事だった。
戦後も、和子は隙を見つけては防空壕に足を運んだ。
土の匂いと湿った空気。
そこにはもう、母の声も甘い飴玉もなかった。
「小人さん、どこに行っちゃったのかなぁ……」和子は呟き、土の床を見つめ続けた。
急速な復興の中、かつての街並みは変わっていった。
和子の愛した防空壕も壊され、無機質な雑居ビルへと姿を変えた。
小人さんの家は、彼女の記憶の中にしか存在しなくなった。
さらに時は流れ、老いた和子は認知症を患い始めた。
記憶が曖昧になる中、孤独に過ごす灰色の日々。
「小人さんのおウチ…また行きたいなぁ。お友達とお菓子、探したいなぁ……」
和子の心には、薄暗い防空壕と母の優しい笑顔、小人さんが隠した飴玉が、色褪せることなく輝いていた。彼女の記憶は、戦火の中の小さなゆりかごに、永遠に揺られ続けていた。
第五章:混沌の桃源郷
岸本は、先ほどの雑居ビルの一階に横たわっていた。
だが、覚醒した刹那、目の前の世界は一変していた。
冷たいコンクリートの床はふかふかの緑の絨毯に変わり、カビ臭さは消え、甘やかな花の香りが漂う。
ひび割れた壁からは生命力に満ちた木々が伸び、枝には色とりどりの飴玉やチョコレートが鈴なりに実っている。
(まずい、ここは既に怪異の中だ…!)岸本に緊張が走る。
視線を動かすと、そこに一人の姿があった。
透き通る白い肌に黒髪を三つ編みにし、屈託なく笑う少女。
辛うじて、目元から彼女が和子である事が分かった。
「……和子さん?」
岸本の声は震えていた。少女から放たれる強烈な怪異の歪みを感じ取っていたのだ。
――予備調査で何も分からなかったわけだ。
彼女自身はただの人間。
だが、その意識の奥底に、無自覚に眠る怪異が潜んでいた。
無味無臭、完全なる隠形の怪異。
彼女は寂しさで心を枯らした者を見つけると「友達」として誘い、かつての防空壕――「小人さんのおウチ」へと連れていくのだ。
「ねえ、お兄ちゃん、遊ぼう。小人さんのおウチ、すぐそこだよ」
少女の和子が微笑み、岸本の手をそっと引いた。
その小さな手は氷のように冷たかったが、どこか懐かしい温もりを帯びていた。
全身から抗う力が抜けていくのを感じる。
彼女に導かれるまま、地下へと続く扉の前に立った。
「地下室……?」この雑居ビルは地上六階の構造で、地下など存在しないはずだ。
だが、目の前には古びた木製の扉があり、軋む音を立てて開いた。
その向こうは信じがたい光景だった。
満開の桜が花びらを舞い散らし、奥では燃えるような紅葉がそよぐ。
陽光は眩しく暖かく降り注ぐが、空には大粒の雪の結晶がキラキラと舞い落ちる。
雲一つない青空には色とりどりの錦鯉が悠々と泳ぎ、大地には果物や菓子が自然の産物のように実っていた。
甘い香りが漂い、柔らかな風が頬を撫でる。
この世界は時間も秩序も超越した、穏やかで混沌とした桃源郷だった。
岸本の心は、深い幸福感に包まれた。
この楽園は、和子の内に宿った小さな怪異が、何千人もの魂の断片と結びつき、育まれたものだろう。
戦場の記憶、ゆりかごの温かな日々、無念の死を遂げた魂たちの想いが、この非現実的な世界を形作っていた。
「小人さんのおウチ、気に入った? お菓子もあるよ、果物もおいしいよ」
少女の和子が無垢な笑顔で語りかける。その声は岸本の心を柔らかく溶かした。
ふと自分の身体を見ると、手足は細く、少年のものに変わっていた。
服も、幼い頃に夢中だった特撮ヒーロー「無敵戦隊ムソウジャー」のTシャツに変わっている。
心までが少年の純粋さに還っていく感覚があった。
遠くに人影が見えた。
懐かしさと共に、胸が締め付けられる感情が湧き上がる。
それは少年時代に死別した母の姿だった。
「母さん……?」
岸本の声は震え、足は自然と母に向かって駆け出していた。
彼女の腕に飛び込むと、懐かしい温もりが彼を包んだ。
「母さんだ! 母さんだぁ! 今までどこに行ってたの?」
涙が止まらず、岸本は母にしがみついた。母は優しく微笑み、髪を撫でながら囁いた。
「優ちゃん、ごめんね。寂しい思いをさせちゃって。でも、もう大丈夫……これからはずっと一緒よ」
その慈愛に満ちた声に、岸本の心は完全に解けていった。
「優ちゃん、おウチに帰りましょ。今日は優ちゃんの好きなハンバーグよ。付け合わせのニンジンも、ちょっとでいいから食べてみようね」
母の手が岸本の手をそっと握る。
その感触は柔らかく、温かく、岸本の心を満たした。
(そうだ、母さんとおウチに帰ろう……)
心地よい陽光とそよぐ風の中、母と並んで花畑を歩き出す。
その時、遠くからかすかな声が聞こえた。
「……し…と…」
「きし…と…」
「…岸本っ!」
誰かが必死に叫んでいる。
女の子の声だ。
「バカ岸本っ! 何やってるの! 自分を思い出して!」
怒り、悲しみ、焦りが混じった声。それは真琴の声だった。
「あんたは岸本優介! 怪異探偵でしょ! 怪異に飲み込まれてどうすんのよ、ばか! ばぁか!」
その声に、岸本の意識が揺さぶられた。
目の前の世界がガラスのようにひび割れ、砕け散る。
夢うつつの霧が晴れ、現実が徐々に彼の心に還ってくる。
「……か…いい…そうだ…僕は怪異探偵…もう大人なんだ……」
足が止まる。母が振り返り、不思議そうに尋ねる。
「どうしたの、優ちゃん?」
岸本の顔が悲しみに歪む。
「母さん、僕、ニンジン食べられるようになったんだ。おねしょもしなくなった。【将来の夢】で書いた探偵にもなれたんだ」
母の顔に一瞬、困惑が浮かぶ。岸本は涙を堪えながら続ける。
「僕、戻らないといけないんだ。だから…だから…」
母の足にすがり、声を震わせる。「母さん、ごめんね…ずっと大好きだよ…」
大きく息を吸い、強い意志を込めて叫んだ。
「怪異なんていない!」
その瞬間、母の姿は桜の花びらのように散り、風に乗り消えた。
桃源郷の光景も崩れ落ち、強烈な光に包まれた後、すべてが消滅した。
岸本は冷たいコンクリートの床に横たわっていた。
廃墟の雑居ビル。埃とカビの匂いが鼻をつく。
だが、彼の手にはまだ母の温もりが残っていた。
第六章:夢の跡
岸本が目を覚ますと、目の前には涙を浮かべつつ、安堵の表情で見つめる真琴がいた。
「岸本、大丈夫っ!? 身体は何ともないの!?」
朦朧とした意識の中、岸本は答える。
「ん、大丈夫…でも、幸せな夢を見てたんだ。母さんがいて、辛いことも何もなくて……」
真琴の目に怒りが宿り、手刀を振り上げる。岸本が咄嗟に身構えるが、その手は彼の頬に優しく触れただけだった。
「バカ、夢は夢でしょ。あんた怪異探偵のくせに何やってんのよ。ミイラ取りがミイラになってたら、シャレにならないんだから……」
真琴は微笑むが、瞳には一瞬、寂しさがよぎった。
(少しあんたが羨ましいよ…私も、できることなら…)
そんな感情が、彼女から一瞬だけ流れ出た気がした。
そばには、内なる怪異が消失し、老婆の姿に戻った和子がぼんやりと呟いていた。
「小人さんのおウチ、楽しいね…お菓子もあるよ、果物もおいしいよ……」
事件が解決し、車で事務所へ戻る頃、岸本は疲労困憊だった。
助手席の真琴はいつものように元気いっぱいで、キツい言葉を投げかけてくる。
「あんたは体力もそうだけど、精神修養が足りないのよ! そんなだから怪異に取り込まれそうになるんだからね」
言葉とは裏腹に、どこか温かみが感じられる。
真琴は自分のことをほとんど語らない。勝気で自信家、よく笑い、よく泣き、少女のような無邪気さを見せる。
一方、呪詛に対しては異常なまでの怒りを燃やし、残虐に葬る。そんな彼女の力に、今回も岸本は救われた。
特に、【依代】の力には驚かされた。
真琴の声が頭に直接響くなんて初めてだった。
彼女が言う「精神修養」――神をも使役する精神力が、それを可能にしたのだろうか。
答えの出ない疑問を抱えながら、車は静かに家路を進んだ。
第七章:そして事務所の日常へ
事務所に戻った岸本は、まるで泥のようにベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。
「頭痛ぇ…。ウイスキーの瓶…?またやっちまった…」
どうやら深酒をしてしまったらしい。
頭には鈍い痛みが響く。
時計を見ると、既に午前十時を過ぎている。
リビングでは、真琴がくつろぎながら朝食をとっていた。
食パン二枚に分厚いベーコンと目玉焼きを豪快に挟んだトーストを、甘い抹茶ラテで流し込んでいる。
昨日の壮絶な事件などなかったかのような、気ままな様子だ。
寝ぼけ眼の岸本を見て、真琴は呆れたように眉を上げる。
「何度呼んでも起きてこないから、先に朝ごはん食べちゃってるわよ。また深酒? ほどほどにしなさいよね」
「ああ、なるべく善処するよ……」
岸本は頭を掻きながら、デスクの椅子にどさりと腰を下ろす。
二日酔いの不快感に苛まれながら、煙草に火をつけた瞬間、電話の音が響いた。
頭にガンガンと響く音に顔をしかめる。
「岸本か、今回の案件はどうなった?」
【ノイズ】からの電話だ。
「ああ、何も問題ない。何とか片付いたよ…ただ、被害者は全員取り込まれていた」
「そうか、ご苦労だった。いつも通り、報告書は二、三日中に頼む」
真琴がじとっとした視線で指を振る。電話を代われという合図だ。
「ちょっと待ってくれ、真琴が代わりたいらしい」
受話器を渡すと、真琴は大きく息を吸い込み、勢いよくまくし立てた。
「あのね! ぜんっぜん【何も問題ない】じゃなかったからね! 私がいたから何とかなったけど、岸本なんか怪異に飲み込まれそうだったのよ! 今度いい加減な依頼寄越してきたら断るからねっ!」
(怖っ…!)
その剣幕に、岸本もたじろぐ。
長い沈黙の後、【ノイズ】が口を開いた。
「……確かに、今回は予備調査の不備で迷惑をかけた。申し訳ない。今後の依頼はより精査された資料を送るよう努力する。以上だ」
ガチャリ。電話が一方的に切れた。
「呆れた。【ノイズ】のヤツ、あれで謝ってるつもりなのかしら」
真琴はフンッと鼻を鳴らす。
「いや、【ノイズ】が謝罪の言葉を言ったなんて相当なことだぞ。無茶な依頼を寄越しても全く意に介さない奴なのに」
岸本の口元に自然と笑みがこぼれた。
事務所には、真琴の笑い声と、いつもの日常が戻っていた。
怪異と向き合い、命をかけた戦いを終えた後でも、彼らの時間は止まらない。
次の依頼がすぐそこまで迫っていることを、岸本はどこかで予感していた。
読んでいただきありがとうございました。
次回は、真琴の過去と、心の闇が明かされます。
彼女が呪詛を憎み、残虐に葬る理由とは?
第五話「真琴、知られざる過去」
20時頃に更新予定です。




