第一話:幻想の街
※この1話は「日常回」です。
主人公の岸本が一人で怪異を無力化する導入回ですが、2話目からは――
神霊と契約した最強の呪滅集団【神霊十将】
科学で怪異を破壊する【特異事象科学解析局】
そして、言霊で世界を塗り替える【探偵】
――次第に、三つの力が絡み合う、異能バトルが始まります。
2話目以降はガラッと雰囲気が変わります。
異能バトル・群像劇・残酷描写あり、ご覚悟ください。
怪異【名詞】
主に人間の強い想いが変異し、歪んで生まれる異空間のようなもの。取り込まれた者は、怪異の空間、もしくは自身の内なる心に永遠ひ閉じ込められる。
第一章:響かない電話の呼び声
岸本優介の事務所は、都心の雑居ビルの三階にあった。
埃が積もった窓ガラス越しに、街の喧騒がぼんやりと見える。
デスクには散らばった書類と、空になったウィスキーのグラス。琥珀の残り香が、薄暗い空気に溶け残っていた。
35歳の彼は、見た目はうだつの上がらない中年男だ。
くたびれたワイシャツに、伸び放題の髭。離婚してからというもの、身だしなみはどうでもよくなっていた。
八歳の娘、綾香がいるが、親権は元妻に取られ、一人暮らしの身。
養育費を払う代わりに、月に一度だけ会える約束。それが彼の心の支えだった。
綾香の小さな手が握る感触、明るい笑顔。ブランコを押すたび、風に乗って響く笑い声。公園のベンチで二人で食べるアイスクリームの甘さ。
そんなささやかな記憶が、彼の灰色の日常をかろうじて耐えさせていた。
会えない日は、胸にぽっかりと穴が開いたような空虚感が募り、夜ごとに酒で紛らわせるしかなかった。
昨夜は、その約束の日だった。
待ち合わせの公園で、綾香の姿を想像しながらベンチに座っていたところ、スマホが震え、元妻の声が冷たく響いた。
「ごめん、急用が入っちゃって。来月でいいよね?」
その言葉が、胸に鉛のように沈んだ。
帰宅後、酒屋で買った安いウィスキーを一気に煽り、事務所のソファで朝を迎えた。
二日酔いの頭痛が額を締め付ける。吐き気が込み上げ、鏡に映る自分の顔はくすんだ影のようだ。
目尻の皺が、昨夜の悔し涙の跡を物語っていた。
そんな朝、電話が鳴り響いた。
古びた固定電話のベルが、事務所の静寂を切り裂く。普段は鳴らない、埃をかぶった受話器。
岸本は重い体を起こし、頭をかきむしりながら手を伸ばした。
最近の依頼はどれもくだらない。
迷い猫の捜索、川に落としたバッグの回収……。探偵というより、便利屋だ。
今度は何だ? 子犬の里親探しか? 自嘲の苦笑が唇を歪め、受話器を取る。
「はい、岸本探偵事務所」
「岸本か、久しぶりだな。また依頼を頼みたい」
電話の向こうから、抑揚のない男の声が聞こえた。低く、機械的な響きで、背景に耳障りなノイズが混じる。
瞬時に岸本の背筋が伸び、眠気が吹き飛ぶ。心臓の鼓動が速まる。久しぶりの緊張感が体を駆け巡る。
「場所は夕辻市、夕辻町の巨大廃墟。そこで今月に入り、三人の行方不明者が出ている。おそらく怪異によるものだ。詳細な資料・情報は既に送ってある。急げ、日が浅い今なら引き戻せるはずだ……健闘を祈る」
ガチャリと、一方的に電話が切られた。
「久しぶりの、裏の仕事か……」声が震え、興奮と不安が混じり合う。
ようやく、本物の仕事だ。
怪異探偵としての自分が目覚める瞬間。
だが、同時に娘の顔が脳裏をよぎり、胸がざわつく。
無事に帰れるか――そんな不安が、いつものように影を落とす。
第二章:失われた街の影
夕辻市は、都心から電車で一時間ほど離れた地方都市。
駅からタクシーで十分、夕辻町の廃墟へ向かう道中、岸本は資料を読み返した。
三人の行方不明者。
豊田欣三、九十三歳。
温厚な丸顔の老人で、妻を亡くし一人暮らし。近所の人々が語る彼の穏やかな笑顔が、資料の写真から滲み出る。
本多耕司、九十歳。
事故による左頬の傷跡が痛々しい、薄毛の男。妻子を事故で失い、年金で細々と暮らす孤独な日々。
鈴木宏行、八十七歳。
痩せ型の長身で、末期がんに苦しむ。
病院のベッドで痛みに耐え、家族の遺産争いに巻き込まれているという。
資料を読むたび、岸本の心に同情が湧く。
彼らも、失われたものを抱えて生きてきたのだろう。自分と同じように。
共通点は、夕辻町の出身者であること。
ただの失踪ではない。
岸本は知っていた――これは「怪異」の仕業だ。
怪異は、まるで忘れられた記憶が実体を持って蘇るかのように、そこに近づく者を誘い、永遠に取り込んでしまう。
一度深く飲み込まれたら、二度と戻れない。
岸本の経験から、それは人の心の闇が形になったものだと感じていた。
全国で100人余りいるという怪異探偵たちは、怪異と化した空間に入り、拒絶の言葉を唱えてそれを無力化する。
岸本の場合、その言葉は「怪異なんていない」。
言霊の一種だと言われるが、詳細は謎に包まれている。
唱えるたびに喉が震え、声が空気に溶け込むような感覚。
成功すれば高額の報酬を得られるが、失敗すれば自分も飲み込まれる。
過去に何人かの仲間が、そうやって消えた――彼らの最後の叫びが、耳に残る。
廃墟は、夕陽に染まるコンクリートの石棺のように佇んでいた。
かつての夕辻町は、昭和三十年代の牧歌的な楽園だった。
朝の陽光が小川の水面をきらめかせ、子どもたちの笑い声が空に響く。
活気あふれる洋食屋では、鉄板で焼かれるハンバーグの香りが通りを満たし、温厚な主人が淹れる喫茶店のコーヒーはほんのり甘く、常連客の語らいを優しく包む。
銭湯の湯気の中では、疲れた体を癒やし、世間話が花開く。
空き地では、子どもたちが野球やおはじきで一日中遊ぶ。
夕暮れ時には、母親の呼ぶ声が響き、家族の団らんが待つ。
あの頃の街は、人の温もりが空気のように満ちていて、誰もが自然に笑顔になれる場所だった。
岸本は資料の古い写真を見ながら、胸に懐かしい疼きを感じた。
自分が生まれる前の時代だが、まるで自分の幼少期のように思える。
だが、バブル期の開発がすべてを無惨に変えた。貪欲なデベロッパーたちが、強引に土地を買い叩き、住民の抵抗を金と脅しで封じた。
洋食屋はブルドーザーで粉砕され、喫茶店は瓦礫の山に。
銭湯の湯船は埋め立てられ、小川は汚れたコンクリートの溝に変わった。
子どもたちの遊び場はアスファルトで覆われ、笑い声は重機の轟音にかき消された。
街の魂が、引き裂かれるような悲鳴を上げたはずだ。
計画された複合施設は、冷たいガラスと鉄の塔として立ち上がろうとしていた。
マスコミは「夢の未来都市」と持て囃したが、バブル崩壊で開発は中断。
入居予定の企業は逃げ出し、地価は奈落へ。
残ったのは、風雨にさらされ錆びついた廃墟のみ。
マスコミは手のひらを返し「バブルの亡霊」と嘲笑ったが、失われたのは人々の生活と記憶だった。
廃墟は今、若者たちの肝試しスポットとして、さらなる侮辱を受けている。
岸本の胸に、怒りと悲しみが込み上げる。
あの開発者たちの貪欲が、どれだけの人生を踏みにじったか。
怪異は、そんな絶望の産物なのかもしれない。
廃墟の入口で、風がゴミを舞わせ、寒気が肌を刺す。
懐中電灯を握り、足を踏み入れる。
湿気とカビの臭いが鼻を突き、息が浅くなる。
「怪異なんていない……」心の中で呟き、自身を奮い立たせる。
探偵たちが、怪異に飲み込まれるリスクは常に付きまとう。
綾香の顔を思い浮かべ、進む。
失敗すれば、娘に会えなくなる――その恐怖が、足を重くする。
第三章:闇の奥へ
廃墟の内部は、闇の海。
懐中電灯の光が、埃の粒子を浮かび上がらせる。
足音がカツン、カツンと反響し、孤独を強調する。
作りかけの店舗は半壊し、落書きで汚れている。
「永遠の愛」「死ね」――若者たちの叫びが、壁に刻まれる。
汗が背中を伝い、時間の感覚が歪む。
何時間も歩いている気がするのに、時計は四十分を指している。
怪異の影響だろうか? 息が荒くなり、心臓が鳴る。喉が渇き、足が震える。
ふと遠くに、ぼんやりとした明かりが見える。数百メートル先のドアから漏れているようだ。
肝試しの若者か? ホームレスの灯りか? 近づくにつれ、楽しげな歓談の声が聞こえてくる。
岸本の疑問は確信に変わる。
「若者やホームレスなんかじゃない……」
喉が鳴る。
錆びたドアノブを握る手が震え、そっと開ける。
そこは、活気あふれる洋食屋だった。
鉄板のジュージューという音、肉汁の香り、客たちの笑い声。
看板娘が、明るい笑顔で「いらっしゃーい! 空いてるお席にどうぞ!」と声をかけ、岸本の心を揺さぶる。
懐かしさが胸を締め付け、思わず涙腺が緩む。店内を通り、店外のドアを開けると……。
そこは、今はあるはずもない夕辻町商店街だった。
夕陽が西の空を赤く染め、柔らかな光が街を包む。
舗装されていない土の道で、子どもたちがキャッチボールをし、笑い声が弾ける。
買い物カゴを抱えた母親が、子どもの手を引き家路を急ぐ。
酒屋の自転車が、ベルを鳴らして通り過ぎる。
すべてが懐かしく、暖かい。
だが、足元がふわふわし、現実感がない。
怪異に侵食され始めている証拠だ。
汗が冷たく背筋を走る。
急がねば……! 心臓の鼓動が速まり、焦燥感が体を駆け巡る。
第四章:失われた笑顔たち
岸本は、宛もなく小一時間歩く。
足は重く、息が切れる。
ふと見ると、電気屋のショーウィンドウ前でちょっとした人だかりがあった。
何気なく覗くと、どうやらプロレス中継を観戦しているらしい。
力道山の空手チョップに、皆が拳を握り、歓声を上げる。
熱気が肌を熱くする。
懐かしい興奮が、岸本の胸にも蘇る。
そこに、本多耕司を発見した。
薄毛に特徴的な左頬の傷跡……間違いない! しかし、どう見ても若く、二十代の活力に満ちた顔立ちだ。
「本多耕司さん!」と声をかける。
振り返る本多の目が、純粋に輝く。
「おお、俺に何か用かい?」
屈託ない笑みを浮かべる。
「ここは本当の居場所じゃない。このままじゃ、戻れなくなる。一緒に来てくれ!」
岸本の胸が痛み、言葉が震える。
本多は首を傾げる。
「うーん、よくわかんねえけど、一緒にプロレス見てからにしようぜ。力道山の空手チョップ、最高だぜ?」
周りの歓声が、幸せに満ちている。
「そんな暇はない! 本当のあんたは……」
言いかけて言葉が止まる。
本当のあんたは? 妻子を失い、絶望の淵で生きていると言うのか? 傷跡の痛みに、孤独な夜……そんな現実に引き戻して、何になる?
ここでは、笑顔で生きているのに。
岸本は自分の失われた家族を思い、悔しさと悲しみが混じる。
視界がぼやけ、息が詰まる。
「おいあんちゃん、どうした? どっか痛むのか?」
本多の心配げな声が、優しく心に染み込む。
「いや、大丈夫……奥さん子どもを、大切にな」
声が震え、岸本はその場を去った。背中で、歓声が遠ざかる。心に、深い喪失感が残る。
街は夕暮れ。柔らかな橙色の光が、すべてを優しく包む。
道を歩いていると、痩せ型の長身の男性とすれ違う。女の子を肩車し、笑う。
「パパ、もっと高く!」子どもの声が弾み、高らかに響く。
男性の顔は幸せに満ち、皺が優しく伸び、汗の匂いがかすかに漂う。
がんの痛みなどない、純粋な喜び。
この無邪気な幸せを、壊すのか? 病院の無機質なベッド、痛みの叫び、家族の醜い争いへ? 声をかける手が止まり、その姿を静かに見守る。
最初に入った洋食屋の前までたどり着く。
扉に手をかけたところ、窓から丸顔の男性が家族と団らんしているのが見えた。
ビールを傾け、今日の出来事を語る。
「今日はいい魚が釣れたよ!」
丸い顔が笑顔で綻び、妻の笑い声、子どもの拍手が聞こえる。
妻の優しい目、子どもの無邪気な声。
幸せの塊だ。
岸本の目から、涙が止まらない。
自分の人生が重なる。
綾香のいない日々、独りの食事の味気なさ。
ここで、彼らは永遠の幸せにいるのに。
胸が張り裂けそうに痛む。
なぜ、こんな選択を迫られるのか?
第五章:慈悲の選択
洋食屋の入り口に戻る。
看板娘の「いらっしゃーい!」の声が、変わらず元気だ。
奥のドアに手をかけようとするが、ふと指が止まる。
三人は、ここで生きるべきだ。
現実の苦しみから逃れ、懐かしい街で。
開発の犠牲者たちが、ようやく得た安らぎ。
俺の選択は、慈悲なのか? 罪なのか? 心の中で、葛藤が渦巻く。
綾香の笑顔が浮かび、決意が固まる。
失われたものを守るのも、愛だ。
岸本は大きく一呼吸してドアに手をかけ、一言。「怪異なんていない」
ドアを開けると、店内の喧騒と光、看板娘の「またいらして下さいねー!」と元気な掛け声がドアの外まで漏れる。
岸本は看板娘に軽く会釈をし、扉を閉める。
途端に、光も喧騒も消え、灰色の廃墟だけが寒々しく、どこまでも続いていた……。
帰宅後、強い疲労感を感じながらも報告書を作成する。
「夕辻町廃墟の怪異化消去完了。要救助者三名は、既に怪異に取り込まれており救出不能」
報酬は減るが、心は軽い。
煙草を一服、煙が事務所の天井に広がる。
窓外の夜空に、綾香の笑顔が浮かぶ。
失われたものを、守る選択。
怪異は、時に救いなのかもしれない。
岸本は静かに目を閉じ、涙を拭った。
世界は灰色だが、優しさの余地はあると信じたい。
失われた街で、三人は今も笑っている――それが、俺の選んだ希望だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
明日【20:00】頃に第二話を更新します。
――2話目からは神霊十将の1人、通称【樹滅探偵】の少女(?)が登場し、
異能バトルが本格的に始まります。
ぜひ、お楽しみに!




