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供養食堂 灯(とも)  作者: 脇汗ベリッシマ
9/32

オムライスと、取り戻した自由

何年ぶりだろう。

自分の足で立って、まっすぐ歩くなんて。


 


目の前に、“椅子”があった。

カウンターの前。湯気の立つ皿の前。


自分の足で歩いて、座っている――たったそれだけのことに、

胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。


 


女将・ともが、静かに微笑んで言う。


「ようこそ。供養食堂へ。

 今夜は、あなたのために、一皿だけご用意しています」


 


 


俺の名前は、牧村まきむら しん

ALS――筋萎縮性側索硬化症を患っていた。


最初は、ペンを持つと手が震えた。

そのうち箸が持てなくなり、靴ひもが結べなくなった。


歩くことも、話すことも、笑うことも――

全部、少しずつ奪われていった。


でも、頭はずっとはっきりしていた。

どこまでも、冷静に「自分が壊れていくのを見ていた」。


 


人は「頑張って」「負けないで」と言ってくれた。

家族は泣いて、励ましてくれた。


でも、心の中では――

「早く終わってくれ」って、何度も叫んでた。


だって、体が動かないまま“生きている”ことほど、

恐ろしく、苦しいものはなかったから。


 


それでも――

ひとつだけ、忘れられない記憶があった。


 


まだ体が動いた頃、

はじめて自分で作ったオムライス。

ケチャップが少し焦げて、卵はうまく巻けなかったけど、

スプーンですくって、自分の口に運んだ。


「ああ、自分で食べられるって、こんなにうれしいんだ」


それが、最後の“自由”の記憶だった。


 


 


灯が、あたたかな皿を置いた。


ふわとろの卵に包まれた、黄金色のオムライス。

湯気の向こうに、ほんのりケチャップの香りが広がる。


スプーンが添えられていた。

見慣れた、銀のスプーン――

けれど、もう何年も、持てなかったはずのそれを、

今、自分の右手がすっと伸ばしていた。


 


震えない。

落とさない。

自由だ。

体が、ちゃんと“俺のもの”だった。


 


一口、口に入れる。


あたたかい。

たったひとさじで、心まで満たされていくようだった。


 


気づくと、ぽたぽたと涙がこぼれていた。


「……ありがとう……

 ずっと……これが、欲しかったんだ」


 


“自分の手で、自分の口に運ぶ”――

それだけで、人は、こんなにも幸せになれる。


 


灯は、そっと言った。


「あなたは、最後まで、よくがんばりました。

 もう、誰にも支えられなくても大丈夫。

 どこへでも行けます。あなたの足で。あなたの手で」


 


俺は、オムライスを見つめながら、微笑んだ。


「……生きるのは、しんどかったけど。

 でも、死ぬのは、悲しくなかった。

 今、自由になれたから」


 


皿の上のオムライスが、ゆっくりと霞んでいく。


 


歩いていける。

この足で。

どこまでも――


 


 


供養食堂の窓が、静かに揺れた夜。


それは、“終わり”じゃなかった。

ずっと閉ざされていた扉の先に、

ようやく“自分の意志で進める”道があった。


そしてその一歩目に、

あたたかな一皿が、そっと添えられていた。


 


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