ミルクパンと、泣かない赤ちゃん
夜の食堂に、やわらかな光が差し込んだ。
ふわ、ふわ、と、羽毛のような気配。
椅子の上に、静かに“その子”は座っていた。
手足はちいさくて、声はまだ出せない。
けれど、その目は、すべてを見つめているようだった。
灯はゆっくりとカウンター越しにしゃがみこみ、
そっと目を合わせる。
「……ようこそ、いらっしゃい」
赤ちゃんは、声に出さずに、にこっと笑った。
それは、ほんの一瞬で終わってしまった命だった。
生まれるはずだった日。
母の胸に抱かれるはずだった時間。
はじめて見る世界を、まだ何も知らずに旅立った子。
でも――
ちゃんと、“願い”を持っていた。
「もう一度だけ、あったかい味を感じてみたかった」
「ママの、おなかの中で聴いた、おなかがすく音」
「ママが、嬉しそうに笑う声」
灯は静かにうなずき、奥へと下がった。
しばらくして戻ってくると、手には小さなミルクパン。
それはふわふわで、手のひらよりも小さくて、甘くやさしい香りがした。
「あなたのために焼いた、特別なパンよ。
ママが、あなたのためにいつか作ろうとしていた味」
赤ちゃんは、パンにちょんと手を添えて、頬をすり寄せた。
その目から、透明な涙がひとしずく――こぼれた。
「……ぼく、ママのこと、ちゃんと知ってるよ」
「ママが泣いてたのも、ママがごめんねって言ってたのも、
みんな、ちゃんと聴いてたよ」
「……泣かなかったのは、悲しくなかったからじゃないよ」
「ママが抱きしめようとしてくれた手、あったかかったから――
ぼく、安心してたんだ」
灯は、パンをもうひとつ、そっと包み紙にくるんだ。
「これを、おかあさんの夢の中に届けましょう」
「きっと、あなたの言葉を感じてくれるわ」
赤ちゃんは、うんうんと小さくうなずく。
そして、声にならない声で、はっきりとこう言った。
「……いつかまた、ママのところに戻るからね」
灯はその言葉を胸にしまいながら、赤ちゃんをそっと見送った。
やがて、光の粒のように、やさしい風とともに姿を消す。
――その約束が、どんな未来でも、きっと二人を繋いでくれる。
そのあとに残った、小さなパンのぬくもり。
灯はそれを、両手で包みながらつぶやいた。
「きっと、おかあさんに届くわ。
胸の奥で、あの子のぬくもりが、今夜だけは残っているから」
そして今夜も――
供養食堂の窓が、そっと揺れた。