冷やし中華と、ポチの記憶
ある夜、灯の食堂に、小さな足音が響いた。
コツ、コツ……コツ。
暖簾がふわりと揺れる。
入ってきたのは――一匹の柴犬だった。
年老いたその犬は、白い口元にやさしい目をしていて、まるで“笑っている”ように見えた。
「いらっしゃいませ。
……あら。今夜のお客様は、あなたなのね」
女将・灯は、驚くこともなく微笑んだ。
犬は静かにカウンターの前に座った。
そのしっぽが、ぽふ、と一度だけ揺れた。
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言葉はない。
けれど、ちゃんと“想い”が伝わってくる。
「ずっと、大切にされていたのね」
灯がそうつぶやくと、犬は、まるで誇らしげに胸を張る。
「あなたの願い、聞かせてもらってもいい?」
犬は、そっと目を細めた。
その目に浮かんだのは――小さな男の子の姿。
暑い夏の日。
少年が、汗だくになりながら台所に立っていた。
「ポチも、食べたい? でもダメだぞ、これは犬には塩分が多いからな〜」
そう言いながら、少年は冷やし中華をまぜていた。
トマト、きゅうり、ハム、卵。
色とりどりの具材と、甘酢のにおい。
犬はその足元に座って、うれしそうに尻尾を振っていた。
「ねえ、知ってる?」
灯が、やさしく語りかける。
「冷やし中華って、犬には向かないの。味が濃すぎるし、麺も消化に悪いから」
犬は、そっと目を伏せた。
それでも――
静かに灯に伝わってくる、心の声があった。
『ぼくは、食べたかったんじゃない。
“いっしょにいた夏の匂い”を、もう一度だけ感じたかったんだ』
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「……うん、わかったわ」
灯は、カウンターの奥へと歩いていった。
しばらくすると、湯気ではなく、冷たい風のような香りが流れてくる。
「おまたせ。あなたの“夏”、お出しします」
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白い器の中には――
・つるんとした葛きり
・細く裂かれた茹で鶏
・すりおろしたきゅうり
・甘く煮た卵の黄身
・薄味のだしジュレが、ひんやりとかけられている
まるで、冷やし中華に見えるけど、犬のためのやさしい一皿だった。
犬はそっと鼻を近づけた。
くん、くん……
くん――くん……
「……このにおい……お兄ちゃんの、夏だ……」
一口、口にふくんで、静かに目を閉じる。
「……つるつるで、つめたくて、うれしい……
もう一度だけ、夏が来たみたいだ……」
ポチの目から、ぽたりと光が落ちた。
でも、それは悲しみじゃない。
“ありがとう”の涙だった。
⸻
食べ終わると、犬はしっぽをふった。
ふわ、ふわ……と二度だけ。
「お兄ちゃん、ぼく、ほんとにしあわせだったよ。
ひとりぼっちなんかじゃなかったんだよ」
灯は黙って、微笑んだ。
「その言葉、きっと届いてる。
彼は、いまもずっとあなたのことを思ってる」
犬は最後に、カウンターの奥に向かって一礼するように、頭を下げた。
そして、朝焼けのような光の中へ、しっぽを揺らしながら消えていった。
⸻
そのあとに残ったのは、空になった白い器と――
ひんやりとした、やさしい余韻だけ。
灯は、器をそっと拭きながらつぶやいた。
「きっと、またどこかで、再会できるわね。
今度は、“ありがとう”と“おいしい”を、一緒に言えるように――」
供養食堂には、また一つ、夏の思い出が増えていた。