表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
供養食堂 灯(とも)  作者: 脇汗ベリッシマ
5/32

冷やし中華と、ポチの記憶

ある夜、灯の食堂に、小さな足音が響いた。


コツ、コツ……コツ。


暖簾のれんがふわりと揺れる。

入ってきたのは――一匹の柴犬だった。


年老いたその犬は、白い口元にやさしい目をしていて、まるで“笑っている”ように見えた。


「いらっしゃいませ。

 ……あら。今夜のお客様は、あなたなのね」


女将・ともは、驚くこともなく微笑んだ。


犬は静かにカウンターの前に座った。


そのしっぽが、ぽふ、と一度だけ揺れた。



言葉はない。

けれど、ちゃんと“想い”が伝わってくる。


「ずっと、大切にされていたのね」


灯がそうつぶやくと、犬は、まるで誇らしげに胸を張る。


「あなたの願い、聞かせてもらってもいい?」


犬は、そっと目を細めた。


その目に浮かんだのは――小さな男の子の姿。


暑い夏の日。

少年が、汗だくになりながら台所に立っていた。


「ポチも、食べたい? でもダメだぞ、これは犬には塩分が多いからな〜」


そう言いながら、少年は冷やし中華をまぜていた。


トマト、きゅうり、ハム、卵。

色とりどりの具材と、甘酢のにおい。


犬はその足元に座って、うれしそうに尻尾を振っていた。


「ねえ、知ってる?」


灯が、やさしく語りかける。


「冷やし中華って、犬には向かないの。味が濃すぎるし、麺も消化に悪いから」


犬は、そっと目を伏せた。


それでも――

静かに灯に伝わってくる、心の声があった。


『ぼくは、食べたかったんじゃない。

 “いっしょにいた夏の匂い”を、もう一度だけ感じたかったんだ』



「……うん、わかったわ」


灯は、カウンターの奥へと歩いていった。

しばらくすると、湯気ではなく、冷たい風のような香りが流れてくる。


「おまたせ。あなたの“夏”、お出しします」



白い器の中には――


・つるんとした葛きり

・細く裂かれた茹で鶏

・すりおろしたきゅうり

・甘く煮た卵の黄身

・薄味のだしジュレが、ひんやりとかけられている


まるで、冷やし中華に見えるけど、犬のためのやさしい一皿だった。


犬はそっと鼻を近づけた。


くん、くん……

くん――くん……


「……このにおい……お兄ちゃんの、夏だ……」


一口、口にふくんで、静かに目を閉じる。


「……つるつるで、つめたくて、うれしい……

 もう一度だけ、夏が来たみたいだ……」


ポチの目から、ぽたりと光が落ちた。

でも、それは悲しみじゃない。


“ありがとう”の涙だった。



食べ終わると、犬はしっぽをふった。


ふわ、ふわ……と二度だけ。


「お兄ちゃん、ぼく、ほんとにしあわせだったよ。

 ひとりぼっちなんかじゃなかったんだよ」


灯は黙って、微笑んだ。


「その言葉、きっと届いてる。

 彼は、いまもずっとあなたのことを思ってる」


犬は最後に、カウンターの奥に向かって一礼するように、頭を下げた。


そして、朝焼けのような光の中へ、しっぽを揺らしながら消えていった。



そのあとに残ったのは、空になった白い器と――


ひんやりとした、やさしい余韻だけ。


灯は、器をそっと拭きながらつぶやいた。


「きっと、またどこかで、再会できるわね。

今度は、“ありがとう”と“おいしい”を、一緒に言えるように――」


供養食堂には、また一つ、夏の思い出が増えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ