卵焼きと、置き去りの朝
「……おかしいな、朝のはずなのに……」
女が目を覚ましたのは、見知らぬ店の中だった。
薄明かりの中、湯気がふわりと立ちのぼる。
それだけで、なぜか胸がざわつく。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
振り返ると、女将がにこやかに立っていた。
白い割烹着をまとい、やわらかい目をしている。
「ここ……どこ?」
「“供養食堂”です。あなたのために、朝ごはんを一つご用意しました」
「朝ごはん……?」
女は苦笑した。
「……そんなもの、もうずっと食べてない。
忙しくて、それどころじゃなかったし、必要もなかったし……」
「本当は、食べたかったんじゃないですか?」
その言葉に、女の表情がわずかにゆらぐ。
⸻
彼女は、長いこと“娘”でいることをやめていた。
仕事を覚えて、社会に揉まれ、人を支える側にまわるようになって。
家事に、看病に、介護――
いつの間にか「親に尽くすのは当たり前」と言われる年齢になっていた。
けれど、母との関係はぎくしゃくしていた。
「まだ起きないの?」
「冷める前に食べなさい」
「もう子どもじゃないのよ」
朝になると母の声が響いて、うるさいと思っていた。
やさしさより、わずらわしさが先に立った。
自分の意見を通すようになってからは、何を言っても言い合いになった。
母が倒れたときも、素直に駆けつけることができなかった。
「……電話を、無視したの。仕事中だったし……本音を言えば、疲れてて」
「母が、もう目を覚まさないって聞いたとき、なにかを言わなきゃと思った。
でも、“ありがとう”も“ごめんね”も、どっちも言えなかった」
「……置き去りにされたのは、わたしのほうなのに……」
気づけば、彼女の手が震えていた。
「お待たせしました。こちら、あなたのための朝ごはんです」
女将が差し出したのは、白いごはん、味噌汁、焼き魚、そして――
卵焼き。
甘くて、ふわふわで、箸を入れるとじゅわっと出汁の香りが広がる。
「……これ」
ひとくち食べる。涙が、ぼた、と落ちた。
「……これ、母の味。
小学生のとき、毎朝作ってくれてた……卵焼き……」
冷めていても、おいしかった。
文句を言いながらも、全部食べていた。
でも、あの日を境に、それは食卓に出なくなった。
最後に交わした言葉が、喧嘩だったからだ。
「……わたし、ちゃんと朝食べておけばよかった」
「ちゃんと、“おいしい”って、伝えたかったのに……」
女の頬を伝う涙は、止まらなかった。
⸻
食べ終えたとき、彼女はようやく気づいた。
自分がずっと、心のどこかで母に甘えたかったことを。
叱られてもいいから、あの朝を、もう一度迎えたかったことを。
「……いってきます、って……
もう一回だけ、言いたかったな……」
女将・灯は、やさしく微笑んで言った。
「きっと、聞いていますよ。
“いってらっしゃい”って、今も笑ってくれてます」
女は、初めて安堵の息をついた。
もう、帰る場所はないけれど。
ようやく、自分の心に朝が来た気がした。
⸻
その姿が消えたあと。
空になった食器を片付けながら、灯はぽつりとつぶやいた。
「今日も、ひとつ。
“いただきます”と“ありがとう”が、届きました」
やっと、あの人に“朝”が戻ってきたのだから。
供養食堂の窓の外で、朝日が静かに差し込んでいた。




