塩むすびと、引っ張られた夏
店の奥から、波の音が聞こえる気がした。
けれどここは海辺ではない。
今日も、誰かが暖簾をくぐる。
扉が開いた。
濡れた髪に、水着姿
少年が、足元を気にしながらそっと中へ入ってきた。
「……ここ、どこ?」
灯は何も言わず、微笑んで席を指し示す。
少年は戸惑いながら、椅子に座った。
その顔には、まだ“死んだ”自覚がなかった。
「……あれ? 友達……どこ行ったんだ……?」
「さっきまで、海でふざけてて……笑ってたんだよ、みんな……」
灯が、カウンターの向こうで静かに動く。
何も言わず、ひとつのお盆を差し出した。
塩むすびと、卵焼き。
母がよく作ってくれた弁当の定番だった。
少年は、その光景に目を見開いた。
「……これ……」
「母ちゃんが、作ってくれてたやつだ……」
手が震える。
でも、口に運ぶと――
「……うま……」
涙が止まらなかった。
米の塩気が、海よりもしょっぱかった。
「……あぁ、やっちまった……」
「オレ……ふざけて、遊泳禁止区域に入って……」
「“大丈夫だって”って笑って……」
「……母ちゃんに、“海でふざけるのはやめなさい”って言われてたのに……」
ボロボロに泣き崩れながら、
少年は最後の一口を食べ終える。
「……あの時、ふざけなければよかった……」
「母ちゃん……ごめんなさい……っ」
灯が、優しくうなずいた。
「ちゃんと伝わりますよ」
その言葉に、少年は目を閉じる。
しばらくして、潮が引くように――
彼の姿は、すぅっと店から消えていった。
椅子の上には、水滴がぽつぽつと残っていた。
それと、空っぽになった皿。
◆ ◆ ◆
後日。
ひとりの女性が、仏壇の前で手を合わせていた。
「……夢に出てきたの。
びしょ濡れで、泣いてたわ。
“ごめんなさい”って、ずっと……」
ふと目をやると、供えていないはずの“塩むすび”が、仏壇に置かれていた。
少しだけ、温もりを残して。
彼女はそっと微笑んだ。
「……おかえり」
手を合わせるその指先が、ほんの少し震えていた。
──供養食堂 灯、本日も営業終了。
命の重みと、あたたかさをひとつ受け止めて。




