おにぎりと、あの日の手のぬくもり
夜の食堂に、ひとりの女性が現れた。
若い母親――けれど、その目元には深い疲れが刻まれていた。
灯は静かに迎える。
「ようこそ、供養食堂へ。今夜は、あなたのために一皿だけ――」
女性は、小さく笑った。
でもその笑顔は、泣くのを我慢している子どものようだった。
「……私ね、子どもが二人いるんです。
お兄ちゃんは今年、小学生になります。
妹は七五三……袴姿、きっと似合っただろうな……」
彼女の声が、かすかに震えた。
「乳がんだったんです。
最初は、まだ大丈夫って思ってて……でも、気づいたときには遅くて。
最後の頃は、抱きしめる力も、もう残ってなくて……」
灯は黙ってうなずいた。
その目に、あたたかな灯りをたたえながら。
「……でも、忘れられない味があるんです」
「病院に行く前の日。
子どもたちが、“ママに元気になってほしい”って言って――
小さな手で、一生懸命に作ってくれた……
不恰好なおにぎり、です」
「三角になってなかったし、
しょっぱくて、笑っちゃったけど……
……でも、世界で一番、泣ける味でした」
ぽろりと、涙がこぼれた。
「ママ、だいすき――って、何度も言ってくれて。
私、あの言葉だけで、生きた価値があったって思ったんです」
*
しばらくして、灯が出したのは――
ちいさな手で握ったような、いびつなおにぎりだった。
ひとつは、丸くて塩が強すぎる。
もうひとつは、手のひらサイズで、すこし崩れている。
でも、どちらも、優しい温もりをたたえていた。
「これは……」
「お子さんの、あの日の“気持ち”です」
「今日だけは、もう一度――味わってあげてください」
母は、おにぎりをそっと手に取った。
「……ああ……この手の感触……」
ひとくち、口に入れると――
涙が、止まらなくなった。
「会いたい……ただ、それだけだったんです」
「ランドセル姿、ちゃんと見て、泣きたかった……」
「七五三で、『かわいいね』って、抱きしめたかった……」
灯は、そっと言葉を添える。
「……“あなたがいた”から、あの子たちは、生まれた」
「“あなたが愛した”から、いまも生きてる」
「あなたは、世界一のお母さんでしたよ」
*
ふと、風が吹いた。
光がきらめき、食堂の奥に――
ランドセルを背負った男の子と、
赤い袴を着た女の子が、静かに立っていた。
「ママ。ありがとう」
二人はにこっと笑い、母のそばに駆け寄る。
そして、彼女の手を、ぎゅっと握った。
「泣かないでね。ぼくたち、大丈夫だから」
「また会おうね。ずっと、ママが大好きだよ」
母は、何度もうなずいた。
「……うん、うん……ママも、大好き……大好きだよ……」
やがて光に包まれ、三人は静かに消えていった。
おにぎりの香りだけが、そっと残ったまま。
灯は、あたたかなおにぎりを見つめてつぶやいた。
「あなたたちは、世界でいちばん優しい味を……のこしていったんですね」
今夜も――
供養食堂の窓が、静かに揺れた。
それは“終わり”ではない。
“また会える”という、未来への約束だった。




