親子丼と、最後に言えなかった『助けて』
その夜、供養食堂の扉が、静かに開いた。
強い風の音が吹き込んだかと思うと、一人の青年が立っていた。
スーツの襟は乱れ、靴は泥にまみれている。
目の下のクマは濃く、顔色はまるで血の気を失っていた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、供養食堂へ」
灯は変わらぬ笑みで出迎えた。
青年はカウンターの椅子に腰を下ろし、手に持っていた社員証を、ふと見つめる。
名前は朝倉 拓真、28歳。
彼は、長時間労働と上司からのパワハラの末、命を絶った男だった。
「俺……気づいたら、ここにいました」
「……ここ、死んだ人が来る場所なんですか?」
「さぁ、どうでしょうね。でも、腹が減っているなら――それでじゅうぶんです」
灯はそう言って、厨房へと入っていった。
拓真は、ふとスマホを取り出す。
画面には、途中まで打たれたままのメッセージが残っていた。
母さん、ごめん。
もっとちゃんと生きたかった。
ほんとうは、助けてって言いたかった。
でも、言えなかった。
ごめん。
ごめん。
ごめん――
拓真の目から、ひと粒の涙が落ちる。
「俺が弱かっただけです……」
「“逃げたら終わり”って、そう思ってた。
でも……耐えても、耐えても、出口なんてなかった」
やがて――
差し出されたのは、ふわとろの卵がのった親子丼。
湯気が立ち上り、甘辛の香りが鼻腔をくすぐる。
添えられた味噌汁には、拓真の好きだったナメコが入っていた。
拓真は驚いたように顔を上げる。
「……なんで、これが好きだって……」
「あなたの“本音”が、届いたんでしょうね」
拓真は、箸を取り、ひと口――
その瞬間、込み上げる何かに、喉が詰まった。
「……懐かしい味だ……
これ、母さんが、俺が帰省するたびに作ってくれたやつだ……
“疲れてるでしょ”って、笑って……」
震える手で、何度も口へ運ぶ。
とめどなく涙が流れた。
「逃げたって、よかったんですかね……
“甘え”って、言われるのが怖くて……
誰にも、言えなかった。
“頑張ってるね”の一言が、どれだけ欲しかったか……」
すると、背後で声がした。
「頑張ったよ、拓真。
……あんた、本当に、よく頑張ったよ……!」
そこに立っていたのは、年老いた母の姿。
泣きじゃくりながら、彼の背中にそっと手を添えた。
「どうして言ってくれなかったの……!
“助けて”って言ってくれれば、
あたし、何だって……!何だってしてやったのに……!」
拓真は、親子丼を両手で抱きしめるようにして、声を上げて泣いた。
「ごめん……
本当に、ごめん……
でも、今やっと――“苦しい”って言える……
俺……苦しかったんだ……!」
母はただ黙って、拓真の髪を撫で続けた。
その姿は、幼い頃の彼と変わらぬようだった。
やがて、器は空っぽになった。
拓真は顔を上げ、灯に向かって深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。
少しだけ、自分を許せた気がします」
灯は、微笑んで言った。
「あなたの命がなくなったのは、あなたのせいじゃない。
でも、あなたがここに来てくれたことで――
その声は、届きましたよ」
ふと、食堂の奥の扉が開き、やわらかな光が差し込んだ。
拓真は、母と手をつなぎ、その光の中へ歩き出す。
「また――あの親子丼、食べたいな……」
最後に、そんな言葉を残して。
その夜、灯は静かに、カウンターを拭いた。
何一つ残っていない器。
けれど、そこにはたしかに“命の証”が刻まれていた。
「逃げたって、いいんだよ」
それを伝えるための、ひと皿だった。




